魔女が来りて腰を叩く ――140字では収まりそうにないちょっとした災難
■ いつもどおりの朝
それは今からもう10年以上も前、北の大地の東の果て、釧路市に住んでいたことの頃の話。
季節は、たぶん今くらいからもうちょっと秋寄りの、夏の終わりの涼しい日のことだったと思う。
特に用事がなければ、週末の連休の二日のうち一日は、自転車でも15分程度で行ける近所のカラオケボックスで、11:00から20:00までというフリータイムをめいっぱい使い、9時間ぶっ続けで歌い倒すのが日課となっていた。
その日も、そんな日課に備えて準備は万端、ぬかりはない。
龍角散のど飴
給水用の500mlペットボトルのいろはす2本
戦績を記録する自家製の記録用紙と筆記具
そしてハナノア (*1)。
さて、今日はどんなシバリで歌おうかな♪♪
そんなことを考えながらヒトカラグッズが詰まったナイキのバッグを持ち上げようとしたとき、それは唐突に、きた。
■ 魔女の一撃
大きなものでは、
アキレス腱断裂が1回、
ろっ骨骨折が2回、
左拳の骨折が1回、
左肩脱臼の手術失敗 (*2) が1回、
あとは頸椎ヘルニアで右肩から右腕全体にかけて常に電流火花が走っている状態、と
整形外科領域では主治医の先生から「そろそろ回数券でも出すか?」と言われるくらいの常連さんになってしまっていた私だが、こと腰に関しては、それまでの人生で傷めたことはただの一度もなく、全身の疲労が溜まった時でさえも重いなぁと感じたこともなかった。
腰の強さは数少ない自慢ですらあったのだ。
それが、ついに来た。
最初は、激痛というよりは刺すような痛み、自分の経験の中ではランニング中にアキレス腱を切った時の、一瞬何が起きたのかが解らず、次いで急激に脱力が襲ってくる感じ。あの感覚にちょっと似てたような気がする。
この時も、痛みが走って、え?――てなった直後には思わず両ひざをついてへたり込んでいた。
力が入らない。
中山きんにくんテイストで言うなら、
おいこら俺の腰、
動くのかい?
動かないのかい?
どっちなんだいっ!!
うーごー……
かないっっ!!
やーーーーーっ!!
やー!
……ぢゃねぇわ。(・_・)
とにかく、ただ事でないことだけはわかったので、ひとまず横になった。
なんなら、少しの間安静にしていれば回復するんじゃないか。そんな風にも思えた。今日のヒトカラは午後からかな。まだ行く気満々だ。
しかし、事態は思っていたよりもはるかに深刻だった。
横になってしばらくすると落ち着きは取り戻せたが、そこから起き上がろうとするや、その瞬間、それまで経験したことのないような激痛が腰全体に走るのだ。
!!!
さすがにこれはアウトだ👆
そうか、これがうわさのぎっくり腰という代物か。
確か、日本人の4人に1人だかが腰痛持ちとかいうデータをどこかで聞いたような気もするが、めでたくその仲間入りしてしまったというワケか。
まあ、こうなってしまった以上、おとなしく横になっているしかない。
ぎっくり腰のことをドイツ語では「魔女の一撃 (Hexenschuss)」と呼ぶらしいが、こんな北の大地の東の果てにまで、ヒマな魔女もいたものだ。
■ 10mというとてつもなく長いミッション
ただ、不幸中の幸いだったのは、これが土曜の午前中に起きた悲劇だということ。
ヒトカラ出陣が急遽中止となったのは残念だが、土日の二日間もあるのだから、その間おとなしくしていればいい。
そうすれば月曜日には悪くとも出勤できるくらいには回復するだろうし、基本デスクワークなんだから仕事への影響もそれほどないだろう。
しかし、横になって小一時間もすると、いよいよギックリ腰がギックリ腰たるその真価を発揮し始めてきた。
寝返りを打つだけでもいちいちビリッ💢とくる。
立ち上がろうなどと思ったら、それこそ、腰の上で魔女が大挙してコーラスライン踊ってるかのごとき激痛が来襲し、中腰になることすら満足にできない。
……アカン、これがぎっくり腰の本当の痛みなんやな。
ヒトカラ行くのは午後から♪ とか、とんでもない。こいつぁ、しっかり養生せな週明けの仕事にまで響きかねんぞ💦
覚悟を決め、「完全安静おとなしくしとけ」作戦へと移行することにした。
そして、これも不幸中の幸いだったのだが、ヒトカラに出陣しようと思って準備をしていたおかげで、すぐ手元にはいろはすの500mlが2本、なんなら食べ物だって龍角散のど飴 (しかもゴールド) が1本ある。
これなら、土日の2日くらいは余裕 (*3) だ(o^-')b♪。
安静にして回復を促す、と覚悟を決めたら比較的気分も楽になった。
どうにかしてヒトカラには行けないものか、という女々しい欲望はさすがにもうどかこへ霧散してしまっているが、せめてもの慰みに、ポータブルオーディオで音楽を聴くことで気をまぎらわせることはできる。
ただ、時折、ノリにまかせて思わず歌いたくなってしまった時などは、横隔膜にちょっと力を入れただけで腰から背中から件の魔女たちがやってくる。スクールメイツのようにワラワラと群がってきては、激痛を置きみやげに元の立ち位置へと戻っていく、そんな状態が続いていたので、気がまぎれることはさほどなかったかもしれない。
そんなこんなで、すっかり陽も落ち、ていうか時刻はそろそろ日付が変わらんとしている頃。
いかに食事をとっていないとはいえ水分は採っているので、それなりの時間が経過すれば尿意は催す。立ち上がることすら苦行な状態なのだから我慢していたが、その我慢とて所詮は限界を迎えるが必定だ。
いよいよ我慢の限界点となったことから、意を決してトイレへと向かうことにした。
昼前に魔女が現れてから約半日、腰部に刺激が加わる度に走る激痛は相変わらずだ。痛みと戦いつつ、どうにか四つん這いの体勢をつくるのに何分を要したか。体中から脂汗が噴き出してるような感覚で、なんだったら尿意も引っ込んでるんじゃないか、と思わないでもない。
横になっていたリビングの中央からドアまでの数mを童心に返って這い這いで踏破し、さあここからがまたひと仕事だ。
なぜなら、ドアを開けるにはノブを回さねばならない。
ノブを回すには、そう、少なくとも中腰くらいの体勢をとらねばならないのだ。這い這いのままではさすがに届かない。
それでも、魔女の一撃を食らった直後、完全自力で立ち上がろうとしたときに比べれば、ドアに身体を押しつけ補助輪のようにする分、痛みは多少は少なかった気もする。
いずれにせよ、どうにかノブに手は届き、廊下への道が開いた。
さあ、目指す目的地はあと5mだ。
ドアを開けっぱなしにして、半ば崩れるように這い這いの体勢に戻る。
目的地が視野に入ったことで気合は入った。
進め。あと少しだ。
しかし、ここで再び、予想外の難敵が出現した。
リビングでやったのと同様に這い這いで進もうとしたが、その一歩目から予想以上の衝撃が全身に走ったのだ。
なぜだ?
さっきと同じ這い這いではないか。
理由はすぐに判明した。
リビングでの這い這いは、下が、安物とはいえ一応カーペット。
しかし、今、目の前のトイレまで続いている廊下はフローリングだ。
這い這いの状態で脛が直接当たるフローリングの衝撃が意外とデカいのだ。
普段なら、恐らく他愛もない痛みだろう。
駄菓子菓子っ!
腰に爆弾を抱えた状態での脛にゴリゴリは、予想以上に魔女のスクールメイツを刺激する。脛がゴリッとフロアにキスするたびに、スクールメイツがぼんぼん両手に腰の上でボックスを踏むのだ。
い、いかん。
このままでは、目的地に到達する前に痛みにまかせて漏れてしまいそうだ。
それはそれで楽になれるぞ――黒い尻尾と槍を持った自分が囁く
おまへ、プライドはないのか!――白い服着て羽の生えた自分が叱咤する
ギリギリのところで白い自分が勝った。
もう何分戦ってきたのかも分からないが、ここまで必死の思いで這い這いしてきたのに、ここで漏らしたなら、何のための這い這いだ!?
いささか功利的ではあるが、そんな思いが黒い自分をかろうじて駆逐したのかもしれない。
ただ、それで事態が好転したわけではもちろん、ない。
このまま激痛の中で身体を動かし続けたなら、膀胱から先に延びた堤防はいつ決壊してもおかしくないだろう。たかだかあと数メートル先の目的地なのだが、正直、漏らさずにいられるか、勝算は半々というところか。
南無三。
人間、追いつめられると何を思いつくかわからないもので。
その時の私はとっさに最終形態へと移行した。
這い這いよりも低く這いつくばる――
匍匐前進の体勢だ。
これなら、脛とフローリングとのゴリゴリは必要最小限で済む。
普段まめに掃除していない報いとして、身体全体でモップ掛けするかのように床のホコリを身にまとわりつかせることになるが、今はそんな小さなことをどうこう言うてる場合ではない。
一歩、また一歩、じりじりとではあるが、確実に進んでいる。
いいぞ。あと少し、あと少しでゴールだ。
人生で初めての匍匐前進をしながら、頭の中に、小さい頃に読んだギャグマンガ『マカロニほうれん荘』の1コマが浮かんでいた。
匍匐前進をするきんどーさんとトシ、それに付き合わされる沖田はトシに、なんでこんなことをしなければならないのかと尋ねる。トシは答えた。
「へその筋肉を鍛えるためだ」と。
実際、このわずか5mかそこらの匍匐前進でへその筋肉が鍛えられたかどうかは分からない。ただ、確実に言えることは、この極限の状況で『マカロニほうれん荘』が浮かぶ自分、正真正銘の能天気やろ。
匍匐前進を終え、その後も多少四苦八苦しつつ、どうにかこうにかトイレにたどり着き、便座に腰を下ろしてホッとしながら、そう思った。
■ 3日ぶりの食事の行方
真夜中の格闘を終えた次の日の日曜日は、終日、横になったままだった。
痛みのレベルは、正直、昨日とほとんど変わりない。こう動かせば強く痛みが走る、こっちならまだそれほど痛みが強くない、試行錯誤の中で痛みが少しでもマシな動かし方を学習していたにすぎない。
横になったまま2日目の夜が来た。
土日のまる2日間を寝て過ごした格好になったが、この体たらくで果たして明日ちゃんと出勤できるまでに回復するのだろうか?
不安はあったが、幸いにして、自分が抱えている案件で急ぎのものは先週あらかた片付いたばかりだったので、その点での心理的負担は軽い。
まあ、なるようにしかならんよなぁ、こればっかりは……。寝返りのたびにピリつきながら眠りに落ちた。
そして迎えた3日目、月曜の朝。
予想どおり、できる動きはせいぜい這い這いレベルのまま。
仕事どころか日常生活すらままならない状態、絶賛続行中だ。
朝イチで、職場に電話。
コール2発でひと回り近い年下の同僚が出た。
「おはようございます。今日は、熱発ですか?」
外線からの電話対応等で集中力が削がれるのを嫌い、大事な仕事は朝のうちにある程度済ませたい性分の私は、通常7時過ぎには職場にいる。持病の関係で発熱からの病欠もちょくちょくあるので、「出勤して私がいない=また熱出たな」と思ったのだろう、若い同僚は、気を利かすかのようにそう切り出してきた。
「いやあ、実はね……」
ぎっくり腰で動けないので、今日一日、有休よろしく。そう伝えると、スマホの向こうで明らかに笑いをかみ殺している同僚の雰囲気が、こちらにもだだ洩れで伝わってくる。
せいぜい笑うがいい、若人よ。キミもいつかこの苦しみを味わう時がくるのだぞ、
――とまあ、さすがにそんなイヤミは口には出せず
「いつも悪いね。みんなにもよろしく伝えて」
「了解です。お大事に~~♪」
まだ少し、にやけが抑えきれないトーンで若き同僚が通話を切った。
あの調子だと、少なくとも今日一日は、職場の笑いネタにされるな……。
まあ、そんなことを気にしていても始まらないが。
とりあえず、職場への連絡も済んだので、気持ちも楽になった。
楽になった途端、空腹の胃が急激に自己主張を始めた。
そういえば、この2日間口にしたのは、ヒトカラ用に準備した龍角散のど飴といろはす2本だけだ。一日1食しか食べない自分でも、さすがに何か食べたいという当たり前の欲求が湧き上がってくる。
とはいえ、だ。
当たり前だが、外食になど行けるわけもなく、自分で何か作ろうにも、そもそもキッチンに立てない。さて、どうしたものか……
そう案じているところに、座卓兼作業スペースにしているリビングのコタツの上、無造作に積まれたチラシの一番上のピザーラの広告に目が留まった。
アレルギーのデパート状態の自分、中でも乳製品、特にチーズはかなりの高確率で身体が拒否反応を起こすので、ピザなどは生まれてこの方一度も食べたことがなかったし、これから先も食べるつもりはなかった。
だが、2日間の空腹がそうさせたのだろう、普段なら気にも留めず何日か後には他のチラシと一緒に資源ごみ行きの運命にあるピザーラの広告に手を伸ばした私は、しげしげとそれを眺めているうちに、
おや、チーズを使っていないピザもあるぞ、と気づく。
まぁ、最悪ピザが体に合わなくてアウトだったとしても、サイドメニューにはフライドポテトやチキンナゲット、サラダなんかもあるから、とりあえず空腹は満たせるだろう。
チラシについている割引クーポンも、セコい自分の背中を押している。
こうして生まれて初めてピザをデリバリーで注文した。
メニュー内容は正直覚えていないが、フライドポテトにチキンナゲット、野菜サラダに冷製スープと、サイドメニューはてんこ盛りにオーダーしたのは記憶にある。
あー……3日ぶりに食事にありつけるかぁ。
普段、食にはあまり執着がない自分も、この時ばかりは少し待ち遠しい思いでピザの到着を待った。
そしてきっかり30分後、玄関のチャイムが鳴る。
ホントに30分で来るんだ。
感心しながら体を起こす……
――起こせないっ!( ゚Д゚)
しまった!
何をのほほんとしていたのだ。
今の自分は、3日前の自分ではない。這い這いしないとトイレにすらいけないカメだ。ドジでノロマなカメなのだ!
最初のピンポンからしばらくして再度チャイムが鳴る。
こちらは多少の痛みは横に置いといて、最大船速の這い這いでリビングのドアへと突き進んでいる真っ最中だ。
リビングのドアを開け放つ。
玄関はリビングのドアとトイレとの間にある。即ち、ドアを開けたらもう玄関は見えている状態だ。
とりあえず、所在を知らせねば。
大きな声で
「今、行きまーす!」
そう叫ぶはずだった。が、「いま」の「ま」で例の魔女軍団がここぞとばかりの猛ラッシュを仕掛けてきた。多少無理をしてスピード這い這いをしたツケもあったのかもしれない。
声にならない「今、行きまーす」は、当然ドアの向こうの配達員には届かない。たまたまこの配達員が実はデビルマンで、♪デビルアイなら透視力♪を駆使してこちらを覗いてでもしてくれない限り、私は「不在」だ。
声を上げられずに激痛でその場に崩れ落ちたカメをよそに、3度目のピンポンが鳴った。気のせいかもしれないが、押し方に苛立ちを感じる。
もう一度、全力で声を出すか。
いや待て、玄関はもうすぐそこではないか。過去2日間で苦労したトイレへの旅を思えば、距離的には約半分だ。
行ける。這い這いでも行けるぞ。
私は、這い這いを選択した。
ひと声あげようとした時の激痛が、それだけ強かったということでもある。
黙々と進む。
ただひたすら進む。
客観的に俯瞰で眺めたなら「うさぎとかめ」の亀だろうが、頭の中で再生されているのは爆風スランプの『Runner』だ。
だが、玄関まであと少しというところで、無情にもドアの向こうの気配が集合住宅の階段を下っていく金属音とともに遠ざかっていった。
終わった――
さらばだ、私の3日ぶりのごはん――
絶望感とともに、急激に腰の痛みが押し寄せてきた。
魔女のスクールメイツたちは今や、ダンシング・ヒーローを狂ったように踊りまくる登美丘高校ダンス部だ。
這いつくばった腰の上で、バブリーダンスが続く。
「おったまげー!」とかいう幻聴がリアルに聞こえた気すらする。
焦燥感を引きずりながら、体勢を変えて再び匍匐前進でリビングへ。
と、その時、階段を上る音、そして人の気配が近づいてくる音。
――そうか。
私はひとつの可能性に気づいた。
当時、転勤族だった私は、どうせ数年で引っ越すのだからと、家の表札はつけずに事務用のタックシールにマッキーで名前を書いて貼る、という横着きわまりないことをしていた。
当然、1年や2年もすれば風雨に曝されてシールは剥がれてしまうのだが、そもそも単身だから日中は不在だし、急ぐ荷物等は届け先を職場にしていたから無問題。
郵便局の配達の方もシールがはがれる頃にはこの家のことは覚えてくださるので、こちらも特に問題なっしんぐだ。
釧路に赴任して3年目の夏である、普段気にもしていないが、表札シールはすでに剥がれ落ちている可能性が高い。
とすれば、今日初めて来るピザーラの配達員が、届ける家を間違ったかも、といったん確認すべく離れて、再度来てくれた可能性がある!
ドアのすぐ向こうまで気配が近づき、かすかに聞こえてくる
「おかしいなぁ、やっぱここだよなぁ」
――来た!
ピザーラだ!
ピザーラお届け🎵――だ!
体勢を180度リビング側に返していた私は、残る僅かな体力を総動員して、立ち上がった。それはまるで、漫画『キングダム』で武神・龐煖との一騎討の中、最後の力を振り絞って立ち上がる主人公、信の如く。
まあ、漫画の主人公はカッコよく立ち上がり、渾身の一撃を加えることができるのだろうが、リアルのカメは立ち上がったところで力尽きて、方向転換するのが精一杯、そのまま前のめりに崩れ落ちるだけだった。
だが、このラストチャンスを逃せば、恐らくこの配達員は二度と戻っては来ないだろう。
もう後のない切羽詰まった状況が最後の勇気をくれる。
私は、倒れた先の玄関マットの端で指先に触れたスリッパをつかむや、下手でトスするように玄関にそれをぶつけたのだ。
幸い、玄関の向こうではその音に気づいてくれたようで
「ピザーラです。ピザお届けに来ました」
という声が聞こえた。
ゴールが目前に見えたことが力になったのか、か細い声だが
「今、開けます」
と、声になった。
あまりにもか細いその声がドアの向こうに届いていたかは正直分からない。だが、結果として、配達員さんは、私がその後もちょっと手間取りながら玄関を開けるまでの間、待ってくれていた。
ひどくゆっくりとドアを開けて出てきたのが、壁にもたれたまま腰を折った無精ひげと汚い埃にまみれた四十がらみのおっさんだったので、多少怪訝そうな表情が配達員のおにーさんの顔に浮かぶ。
「すみません、お待たせしてしまって。ぎっくり腰で横になってたもので」
ああ、なるほど、と合点がいったような表情と、時間はかかったが職務を遂行できたことへの安堵とがないまぜになったような柔和な声で
「そりゃたいへんですね。
いや、いらっしゃらないので、届ける家を間違えちゃったのかと思いました。ほら、ここ2棟あるから、逆に来ちゃったかなぁって」
予想どおりだ。
結果的には、そのタイムラグがこの奇跡の邂逅を生んでくれたのだが。
期せずして双方に安堵の笑みが浮かぶ。
「それじゃあ、4,390円 (*3) になります。」
配達員のおにーさんの声で、ハッと気づく。
――なんたる不覚っ!財布は部屋の中だ。
しばしの沈黙の後、意を決して私は答えた。
「あの……室内に上がってもらってもいいですか?」
配達員のおにーさんがおねーさんだったら、完全なカスハラにしてセクハラである。いや、なんだったらそのまま通報されても文句が言えない問題発言だろう。
だが、幸いにして配達員はおねーさんではなくおにーさんであり、しかも、見た目ちょっと体育会系のがっしりした体躯の持ち主だった。
それでも、配達の方が届け先の家の中に上がり込んだりするのは職場のルール的には本来NG行為なのかもしれない。
が、なにせ事情が事情だ。
おにーさんは快く了承してくれた。それどころか私に肩を貸してくれてリビングまで誘導してくれた。
人の優しさが心にしみる。
こうして、すったもんだのドタバタの末に、私は生まれて初めてピザ……あ、いや、ピッツァ (*4) を口にした。
美味い。美味すぎる。
無論、3日ぶりの食事という空腹絶頂極限状態が美味さを底上げしてくれている面は否めないが、それでもとにかく美味い。
しばしの間、腰の痛みを忘れられるくらい至福の時を過ごせた。
――ここで、単身で暮らしてらっしゃる方々へのちょっとした教訓。
ぎっくり腰で難渋している時にデリバリーを頼む際は、恥ずかしがらずに
ぎっくり腰で対応が遅れるかもしれません
予めそう告げるのを忘れてはいけない。
秋の訪れは、もうすぐそこだ。
(知らんがな(・_・)
今回のヘッダー画像は、「みんなのフォトギャラリー」から
メイプル楓さんの「みんなのフォトギャラリー / Vol.019-No.067」から、最強の魔女をお借りしました。
この場をお借りして厚く御礼申し上げますm(__)m♪