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読書記録12/26/24~

12/25/24
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』(上)読み始める。難しいね。


p101
趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。趣味が自分を正当化しなければならないときに、まったくネガティヴなしかたで、つまり他のさまざまな趣味にたいして拒否をつきつけるというかたちで自らを肯定するのは、偶然ではない。趣味に関しては、他のいかなる場合にもまして、あらゆる規定はすなわち否定である。そして趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪 なのだ。
つまり他の趣味、他人の趣味にたいする、厭わしさや内臓的な耐えがたさの反応(「吐きそうだ」などといった反応)なのである。趣味と色については議論しないもの、という諺があるが、それはあらゆる趣味が実際に本性=自然のなかにあるからではなく、それぞれの趣味がみな自分の本性の内に根づいていると感じているからーそしてたしかに趣味とはハビトゥスであるから、ほぼその通りと言ってよいのだがーであり、その結果他の趣味は、本性=自然に反するものとしてスキャンダル扱いされてしまうことになるのである。美学上の不寛容は、恐るべき暴力性をもっている。異なる生活様式にたいする嫌悪感は、おそらく諸階級間をへだてる最も越えにくい障害のひとつであろう。

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』(上)


12/26/24
平野啓一郎『富士山』短編集
audibleで。

『富士山』
新幹線の窓から富士山が見えてくるときの描写、すごい緻密で正確だと思わされる。ここから想像を広げてこのようなフィクションになるのか〜

『息吹』
最後に反転する後味の不気味さがすごい。

『鏡と自画像』
中学の美術教師エピソード、良い話だなーと感動したと思ったら全然そんな話でなく、そこからふたひねりくらいあった。

『ストレス・リレー』
鴨川!

市川沙央『ハンチバック』
audibleで。
すごい必然的な話というか、とてつもなく切ない。市川さんおもしろい。SNSフォローしました。

12/30/24
彬子女王『赤と青のガウン』
オックスフォードで博士課程を修めた論文のテーマが「日本美術がイギリスにどのように受容されてきたか」というのは興味ある。大英美術館に眠っていたという、法隆寺の焼失壁画模写を発見した際のエピソードに、おお!と思った。

1/1/25
朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』
audibleで。
ぱっと見ひとりにしか見えないのにその中にもうひとりいる胎児内胎児の話から始まる。ひとりの人間の意識は臓器とは別のところにある、心と体はひとつではない別のもの、と哲学的な問答をする場面が気になった。最初、マジックリアリズム?と思ったが、そうではないことが明らかになってくるところですごいなーと思った。

1/2/25
村田沙耶香『コンビニ人間』
audibleで。
主人公が嫌な男にこれ以上酷い目に遭わされたら、とハラハラしてたから、この結末は良かった。男といっしょに住んでることがわかった途端、周囲の態度が変わってしまうあたりからドライブがかかる。普通に見えることがいかに脆く表面的に成り立っているか。主人公の女性にとって幸せな状態とは、皮肉でもなんでもなく、これはこういうものなのだろう、と率直に思う。

1/4/25
アントン・チェーホフ『ねむい』
audibleで。
戯曲ではなく短編小説。夢の中で死にゆく父を天井から見ている娘の視点が描写されるのだが、これ、本当に夢って感じがして、一気にひきこまれる。そしてゆっくりと眠れる究極の方法を思いつき、静かに速やかに実行して眠りにつく結末。この落ち方、やばい。チェーホフはやばい。

1/5/25
魯迅『狂人日記』
audibleで。
狂気にとらわれた男の日記を、友人が読むという体裁。しかし、男の兄によれば、もう治癒して官吏として勤めているという後日談。人喰いの妄想に取り憑かれた男は、まず月の光を見て発狂したようだ。なるほどね。そうか、というそっけない感想。

1/7/25
林芙美子『放浪記』audibleを聞く。7時間近くかけて地元から帰京する車中で。しかし、まだまだ終わらない!長い話だ。

文藝 犬特集 岸さんのエッセイ「犬は自転車」と、「ハン・ガン・日本・中上健次」特集の斎藤真理子さんによる「伊興吉(ユンフンギル)と中上健次」を読む

1/8/25
滝口悠生「日付を書けばいい」文藝春期号より

11月18日(月)
この日付はこの原稿の締切日なのだが、これを書いているのはもう少しあとのことだ。だから右の日付は嘘というかでたらめなのだが、日付というのは書いてそこに置いておくだけで強く見え続けてしまうところがあり、たとえ「もう少しあとのことだ」という説明や告白がそこに続いても、そこに生じている齟齬も含み込んで、まるでその日に書かれたかのような強さを保ち、書かれた内容よりも上位の、小説の題名のようにそこに居座る強さが、日付にはあるように思う。

滝口悠生「日付を書けばいい」文藝春期号

1/9/25
森鴎外『百物語』
怪談を聞く集いに誘われて知らない富豪の家に行くが結局聞かずに帰って来る男の話。自分は傍観者だが、その富豪も傍観者だ、と。ふーん。森鴎外、面白い作品もあるのかなあ。

1/11/25
林芙美子『放浪記』車で第一部を聞く。房総でイワシを安く買って三杯酢などにしてたらふく食べるシーンは良い。恨みつらみを吐くところよりも食事についての記述が印象に残る。

ディスタンクシオン少し読み進める。難しく。

1/14/25
放浪記第一部終える。面白いけど長い。まだまだ終わらない。尾道で初恋の人に会う場面が良かった。

1/16/25
岸政彦『100分de名著 ディスタンクシオン』 読了


p85
「闘争」や「利得」が意味するもの
ハビトゥスとは何でしょうか。それは、家庭や学校のなかでたたき込まれた性向、態度、傾向性です。つまりそれは、それまでの人生の履歴、蓄積なのです。
私たちの態度や感情、そして身体には、「履歴がある」のです。それは行為のなかに蓄積された過去の履歴であり、学習と訓練によって長い時間をかけて獲得された身体の記憶です。
この行為と認知の傾向性に導かれて、私たちは個々の相互行為に参与し、なにごとかのゲームを成し遂げていきます。このゲームという概念も、もっとも広い意味に捉えてください。私たちはただ、その場の相互行為に参加して、ぽんぽんと記号や象徴を交換して抽象的なコミュニケーションに参加しているのではありません。そこにはもっとヒリヒリするような現実的な利害関心があり、私たちは切実な動機に突き動かされています。
私たちは、それぞれの人生のなかで必死に獲得し、蓄積してきたハビトゥスや文化資本を武器に、それぞれの界やその都度の場で、すこしでも「利得」を得ようと努力します。利得とかゲームという言葉を使うと、いかにも冷徹で冷酷な、弱肉強食の、勝ち負けしかない世界を思い浮かべるかもしれませんし、実際にプルデューはそういう世界ばかりを描いたことで批判されたりもします。私たちは、毎日まいにち、人を蹴落とし自分だけのし上がるような闘争や競争ばかりしているのではありません。したがって私たちは、ブルデューが好んで使う「利得」「資本」「開争」という言葉を、もっとも広い意味で理解する必要があります。
たしかに私たちは毎日闘争や競争ばかりしているのではありませんが、それでも私たちは、自分たちなりのやり方で、自分たちの人生を「より良いもの」にしようと、必死でがんばっています。ブルデューの闘争や利得という概念は、この、「必死でがんばっている」ぐらいの意味で捉えてほしいと思います。
私たちは、自分たちの人生を、よりよくしようとがんばっています。これは見方を変えれば、私たちの行為や判断は、すくなくともその本人にとっては、「より良くなるはずだ」という見通しのもとで選択されているはずだ、ということになります。それは、他者から見たらどうしてそう考えるのかわからないような、ただ非合理的でしかないような行為選択かもしれません。でも、ハビトゥスや界での闘争の賭け金は、人によってまったく違うのです。ですから、非常に遠い社会的距離を隔てて見た場合に非合理的に見えるような行為選択でも、近寄って詳しく見てみると、そこには「その人なりの理由」があるはずなのです。

100分de名著 ディスタンクシオン

1/18/25

文芸誌GOATから、パク・ソルメと市川沙央の短編読む。

1/19/25
ディスタンクシオン読む。この部分きっつー


p256
というのもそれらの位置が提示する不確定の未来は、これまでは芸術家と知識人だけに限られていた特権なのだが、今やそれによって現在という時を一種の絶えず更新される猶予と見ることができるようになり、昔の言葉で身分(今ある姿)と呼ばれていたものを仮りそめの状態として扱うことが可能になるのだから。たとえば広告の仕事をしている画家が、それでも依然として自分のことを「真の」芸術家と考え、いま自分が金のためにしている仕事はつかのまのものにすぎないのだ、経済的に自立できるめどがつくぐらい稼いだらこんな仕事はすぐにでもやめるつもりなのだ、と主張しているようなものである。哲学者としての「天性」から哲学教師という「職業」へ、芸術家としての画家から広告デッサン家や学校の絵の教師へといった転換をおこなうときには、かならず投資縮小と投資のやり直しをしなければならないものだが、以上のように将来が未確定の職業につけば、そうした作業はしなくてすむか、少なくともずっと先に延期することができる。こうした猫予期間に置かれた人々が、いわゆる生涯教育(あるいは教育制度のなかにずっと身を置き続けること)と密接に結びついていることは納得がいく。なぜなら生涯教育とは、タイムリミットをしるしづけ、終わってしまったことは終わってしまったことだということを決定的に、しかもできるだけ早い時期に告げるような大競争システムの完全なアンチテーゼであり、開かれた、限界のない未来を提供してくれるものだからである。そしてまたこのような人々が、自分はまだ終わってはいない、決まってもいない、終点に到達してもいないし結末にも至っていないということを、自分自身にたいしても他人にたいしてもアピールする手段として、芸術家と同じように、青春の美学的・倫理的様式とモデルにあんなにも熱心に追随していることも、納得がいく。

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』(上)

1/19/25
林芙美子『放浪記』audibleで聞き終える。金が欲しい、お腹が空いた、うまいものを食べたい、男が欲しい、いや、男なんていらない、の繰り返し。出口のない日記の淡々としたリズムとキレの良さ。しかし。このあと作家が大成功することがわかっているからこそ、おもしろさが倍になっているのかもしれないと思う。作家は優柔不断なところがあり、詩人になりたい、小説を書いてみたい、いや小説なんて書けない、講談でも書いてみるか、と逡巡し、手当たり次第に作品を見てくれそうな人や出版社へ持ち込む攻めの姿勢はしぶとい。見習いたいところ。死にたい死にたいと言いながら生への執着がすごいのは、今日見てきたルイーズ・ブルジョワと共通すると思う。


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