【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part18【「第5章 唇ー舌ー口蓋ー口蓋垂について」p69 1行〜p71_5行】
本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第5章 唇ー舌ー口蓋ー口蓋垂について (p69_1〜)に入っていきます。
第5章 唇ー舌ー口蓋ー口蓋垂(p69_1〜p71_5)
今回の三行まとめはこちらです。
・「微笑」のような唇の形で歌うのは、声門閉鎖を促しているのだ。
・「発声器官」が順調に働いていれば、舌は問題にならないのだ。
・「発声器官」の働きが重要であり、鼻腔が声を強化するかどうかは重要なことでは無い。
この章は「唇」「舌」「口蓋および口蓋垂」の3つの項目で書かれています。
「唇」(p69_1〜15)
この項目はもっぱら「微笑」のような唇の形で歌うことについて書かれています。
まず「微笑している」ような唇の形で歌うということが推奨される事は多いものの、なにを目的として行うのかについては考えられていないことが多いと指摘することから始まります。
では何を目的としているのか?直後に述べられます。
『声を出す際に、声門をいくらか力を入れて閉じようと努力するとき、反射的に唇は横に伸びる。つまり「微笑」の形になる。そうすると声門の閉鎖によって声は「前方へ」向かい歯に「当たり」「開いた」特性を持つ。(アンザッツの1および2)』
『そのさいの唇の運動はただほんの二次的なものとわれわれは考える。しかしながらこういうことも確かにある。つまり、多くの機能について言えることだが、ある機能を、随伴現象を練習することによって、かろうじてやらせることができ、そのさい、そうやっているうちにその原因となっている機能(目的とする機能)が同時に導き出され、同時に練習させられると言うことである。』
これらの文でフースラーは「なぜ微笑のような唇の形で歌うのか」を記述しています。
注意点をひとつ、「声は前方へ向かい歯に「当たり」」、ここは原著英語版で
”closing glottis 'places' the tone 'forward' on the teeth”
「声門を閉じることで、音色を歯の「前方」に「置く」。」
placesはドイツ語でもsitzt、座っているなどの意味を持つ言葉になっていることを考えると、邦訳の「あてる」とは若干ニュアンスが異なるのではないかと考えます。
ただ、これを意識して読んだとしても特に2つ目の内容は何がどこにかかっているのか若干分かりにくいかと思いますので、わかりやすい表現を意識しつつ解説します。
・声門をしっかり閉じようと努力する時、反射的に唇は横に伸びて「微笑」の形になる。(その結果、音色は歯の前方に置かれる)
・この時の唇の運動はあくまで二次的なものだが、実際にそういった随伴現象を練習させることで、その原因となっている機能を練習させることができる。
・つまり、「微笑」の形で歌うことによって、逆に声門をしっかり閉じようとさせる訓練ができると言うこと。
これが歌う時の「微笑」の裏に隠されている真の意味だとフースラーは述べます。
そしてこれはあくまで回り道、間接的指導法なので、この作用、つまり「微笑の形による声門閉鎖の促進」を常用的なものとして用い続けてしまうというのはまた「非生理学的なやり方」になってしまうと続きます。
人間は一時うまくいくと、成功体験としてそれを繰り返してしまう場合が多々あります。
この記述はそれを踏まえると重要で、注意するべき記述であると考えます。
「舌」(p69_16〜p70_16)
「我々発声指導教師は舌のことは問題にしない、すなわち舌は歌手に対して何の問題も提起しないのである。ただしその人の発声器官が順調に働いている場合に限っての話である。」
冒頭の後半部分は非常に重要です。
逆にして読むとシンプルで分かりやすいですね。
「発声器官が順調に働いている場合、舌は問題にしない。」
たいていの北欧の流派では昔から「舌の位置」を会得すべく努力させられねばならなかったと書かれるように、一部の発声指導流派では舌の位置や形についての指導があったことがわかります。
実際の歌唱の際には子音や母音の形成のために舌を使って口腔の形が変わる必要があることからも、「常に舌はこの位置でこの形でなければならない」ということ自体がおかしいとわかります。
『舌というものは自然に正しく「ふるまう」ものだ』とフースラーは述べます。
さらに、『「神経支配の悪いのどの筋肉に対する誤った協力相手として間違って使われる」ということがなければ、舌がどうこうするということはまったくないのだ』と続きます。
これが冒頭の「発声器官が順調に働いていない場合」を指していることがわかります。
こうなると、『舌の強直を治すには「発声器官を順調に働かせる」ということ以外にない』と述べられる理由も理解できます。
「発声器官が順調に働いていない結果」であることを考えると、原因は発声器官にあると言うことになります。
発声器官の働きの悪さによって舌が痙攣したり緊張したり喉頭を上から押し付けたりしてしまう結果が起こっているのであれば、アプローチするべきは発声器官、すなわち内喉頭筋や外喉頭筋であることがわかります。
「舌は単に語音作成のための共同形成者にすぎない」、これでフースラーの舌についての記述は終わります。
勘違いしないように注意するべきこととして、舌や舌の筋肉が異常に緊張したりすることが「問題ではない」と言っているわけではありません。
順調に働かない発声器官によって、結果として舌や舌の筋肉に異常が起こるのであるという主張をしているということです。
目先の問題や異常にとらわれず、原因や真因を理解し適切に対処していくことが求められているのだということを意識する必要があるかと思います。
そしてこの点を留意できれば、誤った伝わり方をする記述は無いのではないかと考えます。
「口蓋及び口蓋垂」(p70_17〜p71_5)
音声学者は「発声の時の鼻腔は、軟口蓋と口蓋垂を上咽頭後壁の隆起(パッサヴァンの隆起)にくっつけることによって閉ざされなければならない」、
すなわち、鼻腔への通り道が閉ざされていなければならないと述べますが、
フースラーは「声楽発声では鼻腔との交通はついていなければならない」と述べます。
最終的には
・そのさい、鼻腔が声を強化する働きが実際にあるかどうかを知ることは重要ではない。
・そのような口蓋の働きと関連して、発声器官の中で他の運動が起こる事実の方が重要である。
・その運動によって初めて声帯はその形と張りに関して最適の状態になることができる。(喉頭懸垂機構 p35参照)
と述べられます。
口蓋の周辺にもたくさんの筋肉があります。
(喉頭懸垂機構で述べられた口蓋帆挙筋や口蓋帆張筋などがそれらにあたります。)
最後に喉頭懸垂機構を参照とされていますが、口蓋や口蓋垂の運動と喉頭懸垂機構が関係しているというのはこのようなことです。
「鼻腔が声を強化するかどうかは重要では無い」というのは、鼻腔共鳴などを重視している一部の流派の方が見ると「重要では無い」という部分に違和感を感じるかもしれませんが、
フースラーはこれまでの記述でも「共鳴は結果、つまり二次的な現象であって、原因では無い」といったことが述べてきてありましたから、ここでも主張は一貫しています。
つまりこの「口蓋および口蓋垂」の記述も、あくまで「声の音色を作るのは発声器官の働きである」という点が繰り返し主張されているものと捉えることができます。
ただし1点、「鼻腔との交通はついていなければならない」、このフースラーの記述については疑問があります。
実際に歌を歌う際には子音の形成が必要であり、その際軟口蓋やそれと接触する舌が動いて形成される子音があるわけですから、実際のところは「常に鼻腔への通り道が開いたまま」と言うわけにはいきません。
また、原著英語版の記述では「鼻腔は開いたままであるべきだ。」という記述になっていることから、「鼻腔との交通」という話であるとは限りません。
(口蓋、口蓋垂についての項目であるため、確かに鼻腔と咽頭の交通の話かと断定してしまいやすいですが……。)
喉頭懸垂機構の筋肉たちを働かせる、と言う点については一貫しているので、そこはそのまま読めば良い点かと思います。
ただしあくまでフースラーが述べているのは当時の「声楽発声」における話である点も考慮すると、鼻腔と咽頭の通り道が常に開いていなければならない、という記述については、現代のポピュラーな歌唱においてはそうとも限らないのでは無いかと私個人は考えています。
(もちろんそこには子音の形成の問題も絡みますから、こういった点は音声学と密接に結びつく点では無いかと考えています。)
さて、以上で第5章が終了となります。
次回は第6章、「声帯の自発振動」に入っていきます。