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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part14【「第4章 解剖と生理」p49 15行〜p52 28行】『第3部 呼吸器官』その3

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第4章 解剖と生理 「第3部 呼吸器官」の続き(p49_15〜)に入っていきます。
(今回は歌唱における呼吸器官の働き、特に吸気運動についての記述を追っていきます。)


第4章 解剖と生理

今回の三行まとめはこちらです。

・歌う時には息を吐いているのだから、その後は自然と吸気が起こるのだ。

・横隔膜の筋緊張は呼吸と連動しているため、吸い方に特別な意思を働かせることは自然な呼吸を乱す。

・発声器官が自由になるためには特別な意思が働いていない基本的な呼吸運動である必要がある。

第3部 呼吸器官(p45_19〜)

・発声呼気における呼吸器官の運動 = 英:歌唱における呼吸器官の動き(p47_9〜p52_28)

前回に続き補足事項を述べておきます。

ここは、原著英語版の”Movements of the Respiratory Organ in Singing”の記述に従って、記述を修正すべきと考えます。
なぜならこの見出しは最初の方こそ呼気運動についてですが、吸気運動についての記述もあるためです。
原著ドイツ語版では邦訳のように呼気に限定した見出しとなっているようですが、後半で登場する吸気の記述、呼吸器官の循環運動の記述を考えると、ここの見出しはもっと大きな括り、「呼吸器官の動き」とするべきと考えます。

   吸気(p49_15〜)

・歌手が歌う時には当然息を吐いているのだから、その後は自然と吸気が起こる。そこに意思を働かせることは逆に呼吸を乱すだけ。(p49_15〜22)

この部分の書き出し一文目、
”歌手が歌う時は当然息を吐いているのだから、息を吸うと言うことは歌手にとってはとるにたらぬ問題である。”
これはさも当然のことのように述べていますが、特別な呼吸法を指導されてきたことがある方には理解しにくい一文と考えられます。

まずこれに対する解説として、「筋緊張性呼吸調整」でも述べられた「肺の空気が多い時は横隔膜の筋緊張は少なく」「肺の空気が少ない時は横隔膜の筋緊張が増す」の記述から考えていきます。

端的に述べると肺の空気の量に応じて横隔膜の緊張度合いが調整されるという話ですが、
①「歌で息を吐いていく」ことで、
②「肺の空気が少なく」なり、
③「横隔膜の筋緊張が増して」いきます。
こう見ていくと歌で息を吐くことで自然と横隔膜の緊張が起こることがわかります。
そして吸気のためには横隔膜の筋緊張が必要であり、③の工程で自然とそれが果たされているということですね。

これがフースラーがここで”横隔膜は呼気のあとではまったく自動的に吸気と結びつく”と述べている理由です。
それ故にそこに意思、すなわち意識を働かせることは、かえってこの法則に沿った調整の流れを乱してしまうということがここでは述べられています。

また解説版の記述として、「リッリ・レーマンという偉大なソプラノ歌手」がたどった過程について触れられており、ここと関わりが深く興味深いためこちらも説明させて頂きます。

彼女は若い頃から優れた歌手であり、より良い歌声を目指して「さまざまな息の吸い方」に取り組んでいました。
そんな彼女が最終的に辿り着いた結論が「自然に任せる」ということ。すなわち「特別な呼吸法など無く、ただ自然にすれば良い」ということです。

こういった実例、経験があるということは、フースラーの述べている「息を吸うということは歌手にとって取るに足らない問題であることは、経験が教えてくれる」とはこういったことが含意されていると考えられます。

そしてこの部分の記述の結論として出てくるのは21、22行目、
効果的に十分に呼気をする方法を会得しないうちは決して正しく吸気を行えるようにならないだろう
ということです。

呼吸時の生理学的な動作を考えていくと、十分に呼気しなければ横隔膜の十分な緊張が得られず、結果として吸気もうまくいかないということになります。

ボイストレーニング以外の場面でも言われることとして、「呼吸が浅い」ということがあります。
これは現代人の問題として取り上げられることもあれば、何がしかの訓練をしていない方に対する問題として取り上げられることもあります。

「呼吸が浅い」原因としてはさまざまなものが挙げられます。
それは例えば「体が硬い」であったり「精神的なストレス」であったり「姿勢が悪い」であったりとさまざまなものがそれぞれの場所で述べられていますが、今回はあくまで「うたうこと」の解説ですから、「生理学的に正しく運動できる状態」である前提での話をさせて頂きます。

ここでフースラーの述べる「生理学的な正しい動作」という目線で見ていくと、
「呼気がしっかりできなければ、吸気もしっかりできない」ということを述べています。

「呼吸が浅い」と言われると「ちゃんと息を吸えていないのか」と思われる場合が多いですが、これはまさにその逆ということになります。
日本語としてみていくと意外性がありますね。
(逆に「深い呼吸」「深呼吸」と言うと、たくさん吸う姿を思い浮かべられる方がほとんどかと思いますし。)

それがフースラーの「うたうこと」の呼吸についての記述を読む上で理解しにくく感じたり、誤解を生む点でもあると考えられます。



・肺にたくさん空気を入れようとする乱暴な吸気の仕方ではいけないのだということ。(p49_23〜p50_14)

この範囲は読解が難しいかと思います。
解説版でも全文を解説するのではなく重要な部分にフォーカスして解説する形となっております。
ただ一言でこの範囲をまとめるとするならば見出しの内容、
肺にたくさん空気を入れようとする乱暴な吸気の仕方ではいけない
といったことが述べられます。

これは前の見出しの結論、
効果的に十分に呼気をする方法を会得しないうちは決して正しく吸気を行えるようにならないだろう
とも一致します。

呼気が十分に行えなければ、吸気も十分に行えない、であれば肺にたくさん空気を入れようと吸気を頑張っても、「生理的に正しい呼吸」にはならないことは明白です。
この範囲の大枠についてはそういった理解で問題ないかと思います。


さて、ここからはこの範囲を箇条書きで解説しつつ、必要に応じて少し深掘りして解説します。

・解剖学者は、「呼気を行う時に使う多くの筋肉を確認しており、その筋肉には吸気に使われるものもある」ことを確認している。

・さらに、呼気運動には「受動的な現象」(安静呼吸時に吸気をやめると、重力や弾性の影響により受動的に呼気が行われる現象)も確認されている。

・しかし呼吸治療医学では、この「受動的な現象」を吸気運動に置き違えており、もっぱら吸気のやり方にしか目を向けないこともある。

・呼気運動の受動的な現象は緊張除去療法(体がこわばって緊張している状態を治すのに)にも使われているが、その場合でもやはり「肺にたくさん空気を入れること」だけを目的としている。

・「呼気が生理学的に正確に正しい分量で行われている」時、呼吸器官を弛緩させるための練習(たくさん空気を入れる練習)などは無用。
その時は呼吸器官の誤った緊張などは起こっていないからである。

・なぜ肺に空気を入れすぎるのか?そんなことをしても吸い込まれた酸素の一部は吐き出されてしまう。

・息は吐き出すことによって初めて気管支の最末端まで入り込むことがわかっているのだから、たくさん吸い込んでしまってはそれを十分に行うこともできない。

・わざと極端に空気をたくさん吸おうとする人の呼吸は浅い。

・肺活量計で測定した肺の収容能力が、常に肉体的な活動能力が表すものかどうかも怪しい。
→測定するためにいつもと違う呼吸が行われてしまっては、常時の肉体の能力を示す測定結果にならないということと考えられます。

・「息をたくさん吸う」のではなく、呼吸筋の反応力、弾性、伸縮性、敏速性を高めることを努力する中に、正しいものがあるのではないか?
→”呼吸法を会得しようとする人”という言葉は原著になく、邦訳の誤訳であると解説版では触れられています。


・たいていの歌手、さらに現代の文明国の人々は、力強く十分に息をはくことができない。(p50_15〜24)

ここがこの見出し「吸気」の締めになります。
とにかく、肺の下方部分の慢性の膨張や、側腹筋が無力化していることや、あるいは横隔膜、その周辺の神経支配の不足に悩んでおり、結果として「力強く十分に息を吐くことができない」のだとフースラーは述べます。

そして、医師たちからはこういった悩みをもつ人々に対して誤った認識を広げている、そのような言葉が並びます。

その例が、
『大衆に人気があり、大部数発行されているまじめな医学的助言誌に「吸気の時は完全にいっぱいに吸い込み、吸気運動はできるだけ大きくする。呼気の時はその運動を緩やかに力を抜くと、呼気は押し出さないでも流れ出る。」と書いてある。』
ということです。

これは初めは何かしらの助けになるかもしれませんが、のちに器官の故障を起こすとフースラーはこれを一蹴します。


   呼気器官の基本的循環運動(p50_25〜)

ここは、これまでの呼吸器官に関する内容の総括、要約とも言えるものです。

・歌う時に使う楽器(発声器官)は、「静的な機構」でも、「据え付けられている機構」でもなく、発声と同時に多くの筋組織や器官が共同で作り上げるのである。(p50_25〜p51_4)

これまでも何度も言われてきたことですね。
改めて強調するようにここでも述べられます。

「発声器官」が声を出す専用のものではないということは、発声器官を構成するほとんどの部分は他の仕事をしています。
・日常生活で何かの生命維持に必要なことに使われている
・話をするという知的な行為に使われている。
などなど、さまざまです。

それゆえに、その筋肉や器官たちは「歌うため」に働くよりも、それ以外の目的において活発に働きます。(神経支配が行き届いているということ)

歌うための楽器(発声器官)の働きが悪かったり、全く働かなかったりするのは、他の用途で活発に働いているからであり、だからこそ発声の教師が必要だとフースラーは述べます。


・発声器官を作るための基本的な運動過程は、ひとまとめにサッと行われるのだ。(p51_5〜22)

この範囲はやや難しい表現が使われていますが、述べていることを簡単にまとめてしまうと上記の内容になります。

ドイツ語では「たった一つの把握で或る統一に纏める」といった内容になっており、これが邦訳で「「ひとつかみ」で、ひとまとめにまとめること」となっています。
これはあくまでニュアンスを読み取った形ですが、ここから、「たった一つの把握」で「或る統一に纏める」と別にして読むと、
「たった一つの把握」とは、「発声する」という一つの目的に向けて、一発でサッと発声器官各部が一瞬で発声の形を作り上げるその様を述べており、
「或る統一に纏める」とは、発声器官を一つの統一体と捉えて、まとめ上げるということを述べていると読解しています。

サッと、「あらかじめ決められた発声器官という統一体になる」ということが述べてあるのだと考えると読むことができるかと思います。

ただし括弧書きで(もちろんそのためには、のどの筋肉がある程度良い状態でなければならない)とあり、これまで述べてきた筋肉たちの重要性を意識させる記述がされています。

そして、そのサッとひとまとまりになる動作は「回転するような過程」をとると述べられます。
回転とは一体何か……?突然出てきた言葉に混乱します。
先を読んでいきましょう。
(邦訳で「分割」とされていますがこれは原著にはなく、またこの先を読む上でも分割というよりは順番に過程を述べている認識です。)

・横隔膜の付いている縁の枠=「胸郭下部」が内上方へと動き、(前回出てきた「純粋の呼気運動」のことです。)
・横隔膜はこの運動に対して下方へ向かう対抗力を働かせる。
・全体としては一種の秤になっており、これで呼気を操作する。
・このときの呼気の過程は、体を伸ばす筋組織に活動を働きかけ、その機能を発揮させる。
・この体を伸ばす筋組織の働きが、いわゆる「呼吸の足場」であり、呼吸を支障なく行えるようにする。
・こういった呼気運動によって、喉頭を吊り下げている筋肉の網(喉頭懸垂機構)と呼吸器官の連携が自ずと出来上がっていき、それと同時に声門閉鎖筋と声帯伸展筋が働き始める。(自ずと、と自発性をもって出来上がるというのはドイツ語版の記述です。)

これがその回転するような過程とされている一連の運動です。

重要な点であるにもかかわらず触れられてはいませんが、このような呼気運動の先に、自然と横隔膜の緊張が起こっていき、意思を起こさずとも自然な吸気運動が行われるということがこれまでの記述からわかります。

そして、そのような自然な吸気運動の先にあるのは……そうです、「純粋の呼気運動」から始まる呼気運動、そしてそれに伴って発声器官が働いて呼気発声が起こって……このようにループするわけです。

これがフースラーの述べる「回転するような過程」、「円周を描くような過程」、「循環運動」ということであると考えられます。


・横隔膜の張力的緊張によって吸気が反射的(自動的)に生じるのだから、意識的にそれを助力する必要などない。(p51_23〜28)

この記述は見出し「吸気」の内容です。
横隔膜の収縮自体は発声している間に減少していきますが、緊張は増大していきます。
この記述はややこしいですが、筋肉が働く時は収縮するだけではなく、引き伸ばされながら緊張したり、長さが変わらずに緊張したりします。
これを認識して読むと、筋の「長さ自体が短く」なっていきますが、「緊張具合は強く」なっていくということを述べていると理解できるかと思います。

トーヌスについては、少々理解しづらいですが、筋自体の内部の緊張力のことです。
これはその筋肉が安静状態で弛緩していても、内部にある程度の緊張力が疲労なく維持されているというもので、この横隔膜にもそういった働きが起こっているということを述べています。

詳細についてはp136と述べてありますが、このページにとんでも「トーヌス」という言葉はありません。
見出し「筋緊張性」=「トーヌス」です。
先の事項を参照される場合はそちらを読んでいただくと良いかと思います。

そしてこの横隔膜の緊張の流れが起こるのは横隔膜の背中側、もっとも筋束が多い場所と、背中部分の伸筋からと述べられています。
これについては呼吸の足場の記述で出てきた話ですね。

このようにこれまで述べられてきた呼吸に関する総括が続いているのがこの周りの内容になります。


・この基本的な循環運動は動物的なものであって、そのための前提条件(能力とも言える)は動物体(すなわち私たち人間の体)にすでに存在しており、作られるものでは決して無い。(p51_29〜p52_10)

運動とは迅速に行われなければならず、びっくりした時にピクッと動くような、そんな俊敏性が必要とフースラーは述べます。
これはわかりやすく、人間にとっても意識せずに行われる行動というのは反射的に体が動きます。
そういった動作が筋肉の原始的な運動とみなされており、それが筋機能の基本形なのです。
思考せずとも体の動きが伴う、それが動物的であるというのは理解しやすいです。

そして、こういった動物的な運動、本能的な運動は筋組織の悪い状態を消失させる、簡単に言えば、そういった運動をしている時は良い状態になっているということですね。
さらにこの運動は最大限に行われても危険はなく、非生理学的な体の使い方を閉め出し、さらに体を良い姿勢にするとも述べてあります。

以前の解説で、話すことは知的な行為で、歌うことは本能的な行為ということを説明したかと思いますが、そことも繋がるのです。

如何に人間という動物が動物然とするか、人間という動物が本来持つ能力を解放するか。
そのためには生理学的に正しく肉体が働く必要があり、だからこそフースラーは生理学的正しさにこだわり、非生理学的な体の器官の使い方を否定します。


・この基本的な呼吸運動を実行することで驚くほど発声器官が自由になる、それゆえにどんな練習の時にもこの呼吸の仕方になるべきである。(p52_11〜21)

この部分は理解し難い記述が多いです。
例えば「呼吸法」なるものを否定してきたのに「この呼吸法から入ってゆかなければならない」と突然呼吸法という言葉を使い出したり、
括弧付きで(特に喉の練習、すなわち「共鳴」の練習をやる時には)と、これまた「共鳴は二次的な機能の現れ」であるとしてきた話を考えると「共鳴」の練習という、今までの姿勢とは打って変わった記述が混乱を招いていると考えられます。

これは邦訳にあたっての問題であると考えられます。
原著英語版を見てみると、以下のようになっています。
”But in all forms of training (especially training that involves the throat itself, e.g, exercises for 'placing' the voice), it has to be set repeatedly in motion…”
DeepL翻訳で
「しかし、あらゆるトレーニング(特に喉そのものに関わるトレーニング、例えば声を "置く "練習など)において、それを繰り返し動かす必要がある......。」

読んでわかる通り、呼吸法という言葉はないですし、共鳴なる言葉も存在しません。

まず呼吸法にあたる記述は ”it” すなわち「それ」。
話の流れから、「それ」に当てはまるのは、これまで説明してきた「基本的な呼吸運動」を指していると考えられます。
それゆえに邦訳では呼吸法としたのでしょうが、それではこれまでフースラーが特別な呼吸を否定してきたことと食い違ってしまいます。
フースラーが述べた「基本的な呼吸運動」は特別なものでもわざと作られるものでも意識的に横隔膜を働かせたりするものでもありませんから、呼吸法という言葉を使うと誤解を招くと考えられます。

次に「共鳴」にあたる記述は ”placing” 「置く」。
これは声楽的な用語として用いられる際は「声を置く場所」とされる練習です。
その時、特定の場所に「共鳴を感じる」とされるため、ここで邦訳は「共鳴」という言葉を選んだものを思われます。
が、先ほど述べたようにフースラーは「共鳴は二次的な機能の現れ」であり、まず「発声器官の機能の働き」の結果であるとすでに述べています。
こう考えると「声を置く練習」=「共鳴の練習」ではなく、
その共鳴に影響する真の原因である「発声器官の機能を働かせる」練習を述べているのであると考えられます。
共鳴に影響する発声器官の機能……これまでフースラーが述べてきた中で最もわかりやすいのは「喉頭懸垂機構」です。
周り回って、喉頭懸垂機構の練習のことを言っているのだと推察できます。
それを裏付けるように、原著ドイツ語版では ”Ansatz” アンザッツという言葉がここに当てはめられており、
これは第8章の章題、「アンザッツ」と同じものです。
そして第8章「アンザッツ」ではこの喉頭懸垂機構の訓練についてが述べられています。

さて、少し長くなってしまいましたが、この部分の誤解を招いている記述の訂正ができました。

邦訳文
”しかしながらどんな練習の時にも(特に喉の練習、すなわち「共鳴」の練習をやる時には)あらためてこの呼吸法から入ってゆかねばならない”
この一文は
しかしながらどんな練習の時にも(特に喉そのものに関わるトレーニング、例えばこの先第8章で解説する「アンザッツ」などの練習を行う時には)この呼吸の仕方を繰り返し行う必要がある。
という内容であると推察します。

「繰り返し行う」について少しだけ補足します。
なにやら繰り返さなければならないのか……と考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれを「基本的な呼吸運動」のことを「循環運動」としていたことから、ただその循環運動を行えば良いだけと捉えています。

こう考えるとシンプルです。
「基本的な呼吸運動」は「循環運動」でありますから、自ずと繰り返しの運動になります。
呼気が正しく行われれば吸気が正しく行われる。
であれば、基本的な呼吸運動を行えていれば、自然と繰り返し行うことになるのです。


そして最後の一文、
初めからある程度は声を出さないで練習しても良いが、その時は声門閉鎖筋だけは練習相手として参加させなければならない。
この文はサラッと書かれており、解説版でも特に触れられていませんが、私は重要な一文と考えています。

それはなぜか?
これまでフースラーは基本的な呼吸運動を行う上で、横隔膜になにか意識を働かせて助力する必要などないと述べてきたように、特別な呼吸を行うのではなく自然に生理学的に正しい呼吸をただすればよいといった内容を述べてきました。

では、そういった「自然な呼吸」の仕方を学んだり実行しなければならないのか?
そのように考えることができるのですが、そこでこの最後の一文が現れます。

ある程度は声を出さないで練習しても良いが、声門閉鎖筋だけは働かせろと。

ここで声門閉鎖筋とはなんだったか思い出してみましょう。
それは第4章第1部の締めくくりに説明されています。
声門閉鎖筋とは、側筋と横筋、すなわち外側輪状披裂筋と披裂間筋です。
声帯伸展筋である輪状甲状筋の援助も受けると説明されたこの筋肉たちです。
この筋肉たちが働くと、披裂軟骨が回転しつつ、披裂軟骨同士が接近することで声門が閉鎖します。
声門が閉鎖するとどうなるか?
そうです、声が出ますね。

これはすなわち声を出さない呼吸だけではいけないと言っていることと同義です。
非常に簡単に言ってしまえば、「声を出しながら練習せよ」と書かれているのです。

このように、ごく短い記述ですが,大事な記述であると私は捉えています。


・これら述べてきたことにおいて、我々(フースラーたち)はいくつかの仮説を取り扱っている。(p52_22〜28)

最後にフースラーは、「これまで述べてきたことは、今までの実地の経験に基づく仮説を取り入れている」と補足します。
つまりは、ここまで述べてきた呼吸器官の内容の根拠となるものとして、実地経験に基づく仮説を用いているということです。

「うたうことの一部記述は科学的に誤っているのだ」と述べられる方もいらっしゃるようですが、人間の体において明らかになっていない点というのは非常に多く、さらにこの本が書かれた1965年当時はさらに明らかになっていない点が多かったものと推察でき、現代の科学と比較するのはやや難しい側面はあるかと思います。

ですがフースラーは現場に立って「長年の間実際に骨の折れる仕事をしている内に、結果として出てきたものである」と述べています。

であれば、
・現代の科学や研究によって明らかになっている科学的正しさや生理学的正しさも理解しつつ、
・フースラーの述べる「実地経験」がどのようなものなのか、
両軸で考えていくことがよりよい発声訓練を産み、多くの人が「自由な歌声」を手にするための足掛かりとなるのではないでしょうか。

こういった記述からも、この本「うたうこと」が、「理論書」ではなく「実践書」だとされる理由がわかります。



さて、今回で第3部呼吸器官もそろそろ折り返しが近づいてきました。

次回はp53、「声の支え」に入っていきます。

よろしくお願いします。

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