【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part16【「第4章 解剖と生理」p56 6行〜p61 23行】『第3部 呼吸器官』その5
本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第4章 解剖と生理 「第3部 呼吸器官」の続き(p56_6〜)に入っていきます。
第4章 解剖と生理
今回の三行まとめはこちらです。
・のどの器官と呼吸器官は歌声において相互に影響し合う。
・よく機能を果たしているのどの器官は呼吸器官を「発声に必要な状態」にしてくれる。
・誤った「支え」のやり方を徹底的にやることは、その努力を危険なものにする。
第3部 呼吸器官(p45_19〜)
内側および外側喉頭筋に対する呼吸過程の作用(p56_6〜15)
これから先でフースラーは「いくつかの誤った支えのやり方」と題して、「支えの技法とされているものがどのように誤っているのか」の説明を展開していきます。
その前段として、ここではのどと呼吸器官の連絡ができた時にのどにたいして呼吸器官がどのような協力を起こしてくれるのか、つまり生理学的に正しい状態をあらかじめここで述べ、その続きで「では誤っているとどうなるのか」と理論を展開していこうとしているわけです。
補足として、見出しの「内側および外側喉頭筋」は、内喉頭筋、外喉頭筋のことです。
もっと簡単に言ってしまえばここまで何度も使われてきた、「のど」と同じような概念で捉えて問題ありません。
a)横隔膜の働きは、輪状甲状筋、後輪状披裂筋、胸骨甲状筋、輪状咽頭筋、軟口蓋筋を活動的する。長く伸ばされ、そして拡大される。
「デッケンされた声」「頭声」
→邦訳の上下や幅は原著には存在しない表現です。
輪状甲状筋の働きによって声帯が水平方向に伸ばされることを考慮すると、
いわゆる前後方向に対しても「長く伸ばされ」ており、上下や幅と
限定するよりももっと大きい概念で「長く伸ばされ」「拡大される」、
多種多様な方向への広がりと捉えると良いと考えます。
(人間の体は3Dの立体物なので2方向だけではない。)
またデッケンは「覆う」を意味する言葉です。
b)内側の胸筋(=胸横筋)の働きは、上部の肺の筋肉、外側輪状披裂筋、披裂間筋、甲状披裂筋(いわゆる内筋、声帯緊張筋)、甲状舌骨筋を活動的にする。
「開いた声」「中声」
この2点(筋肉名はわかりやすいように一般的に使われる筋肉の名前に変更しています。)、これが生理的に正しいのどと呼吸器官の協力が行われた先、横隔膜と胸横筋の働きによってのどがどのように活動的になるかを示した内容です。
呼吸器官のもつ喉頭機能への従属性(p56_16〜p57_5)
・声門を中心とする喉頭の運動は呼吸中枢の支配下にあるが、その一方で喉頭器官の良し悪しに、呼吸の状態も依存しているということ。(p56_16〜20)
喉頭の運動(ここでは喉頭と限定されているようですが、私自身はここも「のど」と捉えて良いと考えています。)は呼吸器官の影響を受けます。
が、その逆、呼吸器官の状態も喉頭器官の状態に影響を受けると述べられています。
のどと呼吸器官は相互に影響を与える関係にあると考えられます。
”多くの場合、喉頭の内外で起こっていることだけが、発声に際して呼吸器官で起こる良いことにも悪いことにも責任を持っている。”
この一文は先ほどの相互関係を踏まえて、「発声の時の呼吸器官で起こることには、喉頭の内外で起こっていること(すなわち内外喉頭筋の働き)に影響を受ける」と述べているわけです。
・よく機能を果たしている「のどの器官」だけが呼吸筋を発声に必要な状態にしてくれる。(p56_20〜p57_5)
広い範囲に存在する発声に関わる筋肉や器官が協力しあって大きな循環過程を作り上げた時、「発声器官」が成立するのだ、といったことが述べられています。
呼気と格闘、すなわち戦っている歌手たちは、多少の違いがあるにしても内喉頭筋、外喉頭筋の解放されていない状態に悩んでいる。と続くように、
内喉頭筋、外喉頭筋が解放された状態になっていなければ、上記の大きな循環過程は正しく作られず、それ故に正しく「発声器官」が成立しないということになります。
また、見出しの文、”非常に高い程度に至るまで、よく機能を果たしている喉頭(原著:のどの器官)だけが、呼吸筋を発声に必要な状態に規正し、訓練する。”と述べられます。
ここまでの情報からフースラーは
・「発声器官」を正しく成立させるにはのどと呼吸器官の協力が大事
・のどは呼吸器官の働きの影響を受けるけれども、呼吸器官ものどの働きの影響を受ける
と述べており、特にのど、すなわち内喉頭筋や外喉頭筋などが解放されれば、呼吸器官も整っていくのだ、と述べたいとこれらから考えられます。
これまでの「呼吸」に関する記述にもあったように、やはりフースラーは呼吸器官の訓練を行うことよりも、のどの器官、内喉頭筋や外喉頭筋などを鍛えることを優先しているようです。
それによって、呼吸器官を発声に必要な状態にし、その先に「発声器官」の正しい成立があると考えているように読み取れます。
いくつかの誤った支えのやり方(p57_6〜p61_23)
1.側腹固定(p57_6〜17)
まずは、側腹を外側へ開いたまま固定することで「のどを支え」「空気を保ち」「のどを開く」ことを目的としている「支え」のやり方です。
これは北欧の流派でみられると述べられます。
この「不自然な」吸気の仕方によって実際ににのどは開かれ、喉頭は下がり、後輪状披裂筋は声を後方に引っ張り、喉頭蓋は軽く立ち、結果として「共鳴腔」の形は上下に長くなり幅も広くなる、とここまではメリットが述べられています。
ただし「不自然な」と言われているように、これは自然な呼吸の状態とは違う状態と言えます。
フースラーは、「特に腹側は喉頭内筋(=原著英語版:のどの筋肉群)に必然的に影響を及ぼし、必ず発声器官のどこか他の部分に何かしらの不活性化が生じる」と続けます。
ここまでを簡単な言葉で言えば、
『こういった不自然な呼吸の仕方によってのどの筋肉群の何かしらの筋肉たちが活発に働けなくなり、「厚ぼったい声」となってしまう』
といった内容です。
ではなぜこのような声になってしまうのか?
原因は以下の一文から推察できます。
”上記のやり方はいろいろの点で、のどを不活発に、非活動的にし、呼吸器官と喉頭器官の間で行われるべき自由な活動を妨げる”
まず上記のやり方とは、「腹側を外側へ開いたまま固定する」こと。
これによって多くの点でのどを非活動的にする…動きを悪くする、といったニュアンスで私は読んでいます。
動きが悪くなった「のど」は呼吸器官との間の協力が上手くいかないであろうことは想像に難くありません。
「発声器官」の成立はパッとひとまとめに行われるものとこれまでも説明があったことを考慮すると、
「発声器官」の内の一部の筋肉にだけ意識を働かせたりして、「反射的に動く他の筋肉」と比べて筋肉の動きが鈍くなってしまうと、筋肉や器官の協力関係がすばやく作られなくなることは想像に難くありません。
そうなると「発声器官」の成立も「パッとひとまとめに」とすばやくはできないと考えられます。
協力、連携が上手くいかなければ、結果として「発声器官」の成立も理想的な形ではなくなるでしょう。
フースラーの述べている「呼吸器官と喉頭器官の間で行われるべき自由な活動を妨げる」という状態はこのような状態ではないかと私は推察しています。
「厚ぼったい声」が具体的にどのような声を指しているかは想像の域を出ませんが、原著英語版では「分厚いまたは喉っぽい」原著ドイツ語版では「太い、厚い」と記述されています。
分厚い、喉っぽい、太い……あえて付け足すとしたら重たいといったニュアンスに近い声になると推察されます。
2.横隔膜の持続的収縮(p57_19〜p58_5)
"前記の「開く」傾向がある場合には、声門は絶えずいくらか開いており…"
と書き出されるこの項目ですが、「横隔膜の持続的収縮」という内容に触れられるのは少し先です。
この書き出しの内容は前記とある通り一つ前の側腹固定の内容であり、1の「側腹固定」と2の「横隔膜の持続的収縮」は繋がっている内容になっています。
まず「側腹固定」によってのどが「開かれた」状態になっている時、声門はいくらか開いているため、呼気は常に漏れ出しやすい状態になっています。(この時、後輪状披裂筋は甲状披裂筋の対抗作用をあまり受けなくなる)
それゆえに、多くの流派ではこの「側腹固定」による呼気の漏れ出しを防ぐために「横隔膜を持続的に収縮させる」ように努力させます。
つまり、簡単に言ってしまえば側腹固定だけでは息が漏れやすい状態になってしまうので、息が漏れすぎないように横隔膜を収縮させましょうというのが「横隔膜の持続的収縮」と教えられているということです。
側腹固定という「支え」のやり方によって息が逃げ出そうとする……それでは困るので逃げないように横隔膜を緊張させる……これをフースラーは「連続的な闘争、ただそれに勝ち続けようと努力する戦い以外の何者でもない」とします。
こういった「支え」のやり方によって、最終的には声門閉鎖筋、甲状披裂筋の無力化をきたし、喉頭は安定する拠り所を失うと述べられており、まるで「支え」を失っていくような、そんな説明がされます。
そして側腹固定の最後にも述べられたような「厚ぼったい」「喉っぽい」声となってしまうと述べられるのです。
横隔膜の筋緊張は、肺の空気の量に応じて変化するという説明がこれまでにもされていたことを思い出してみると、
・肺の空気の量が多い時は横隔膜の筋緊張は少なく
・肺の空気の量が少ない時は横隔膜の筋緊張は多く
なりますから、肺の空気を逃さないように横隔膜を緊張しようとしても、肺に空気たくさんあれば横隔膜の筋緊張は少なくなるため、不自然な動作に意思を働かせることになります。
こういった呼吸方法がいかに非生理学的かは、これまでのフースラーの記述からわかるようになっています。
3.横隔膜圧迫(p58_6〜p58_28)
横隔膜圧迫=横隔膜低位であり、これは横隔膜の頂上を呼気で下方へ圧迫するものである、といったことが冒頭で述べられます。
横隔膜の頂上が下方に圧迫されると、「平たい」状態になっていく方向になることになります。
この横隔膜を下方へ圧迫するのは「歌声の開始の際に意識的に横隔膜を下に押し下げ、それを維持しながら歌い続ける」といった歌唱法をさしているようです。
ですがフースラーは、「この圧迫は誤り」で、横隔膜は平たい状態にされるべきものではなく、より深いドーム型になるのが声楽発声のために価値があると述べます。
これも先ほど引き合いに出した「肺の中の空気の量と横隔膜の筋緊張の関係」を考えると理解しやすいです。
・肺の空気の量が多い時は横隔膜の筋緊張は少なく
・肺の空気の量が少ない時は横隔膜の筋緊張は多く
歌い出しは肺に空気がある状態、つまり横隔膜の筋緊張は、息を吐き切った時に比べて少ない状態です。
そんな歌い出しから、横隔膜を下に下げるように何かしらの緊張を働かせるのは、これまたフースラーの述べる「非生理学的な状態」に他なりません。
この肺の空気の量に応じた横隔膜の筋緊張は「自動的」に調整されているとフースラーは述べていました。
ここではこの自動的な調整を、フースラーは「自発的運動性」と言い換えています。
そしてこの横隔膜の自発的運動性が奪われると、横隔膜とのどの間の反射的結合がうまくいかなくなるのだと言った内容が述べられています。
つまりは立ち返って、「のどと呼吸器官の協力」の話です。
「のどと呼吸器官の協力」が反射的に上手くいかなければ、「発声器官」をパッとひとまとめに成立させることはできません。
そしてひとまとめに成立させることができなければ、「個々の音が途切れ途切れに並べたもの」だけになってしまい、「歌声にそれ以上に意味を持たせることはできない」と言ったことが述べられます。
歌声の意味、という、一見すると非常に哲学的な話が展開されますが、シンプルに考えて読むと良いと考えます。
「歌声の訓練をしたい」と考える人々や歌手の人々は、各々やりたい声、出したい声、歌いたい音があり、さらに各々が現在出している「声」にも違いがあります。
(話し声であれ歌声であれ。)
ですがつまるところその根本にあるのは「自由に歌声を出したい」という願いではないかと私は考えています。
逆に言えば、「今は自由に歌声を出せない」と考えているということです。
自分の思い描いた音、自分が聴いている音を自由に出したい!その1点で考えていくと、「個々の音が途切れ途切れに並べられたもの」を歌う声は「自由」に歌える状態ではないと考えることができます。
表現の一つとして音を切るように歌うことはあるかもしれませんが、それは「自由に歌声が出せる」前提で表現として装飾的に使われるものであって、「そのような歌声になってしまう」では「自由に歌声を出せている」ことにはなりません。
こういった「支え」のやり方では「自由な歌声」は手に入らないんだな、そのように読んでいただけるとスムーズではないかと思います。
そしてフースラーは横隔膜についての簡単な結論を述べます。
”横隔膜は他の力で動いてはならない、横隔膜は何か「される」ことは許されない、横隔膜は自力で動かねばならない、横隔膜は自分で「やら」なければならない。”
4.強制「深呼吸」(p59_1〜10)
深呼吸と呼ばれたり腹式呼吸と呼ばれるものもよく練習されますが、そういった呼吸の方法というものは発声するときに腹壁筋を弛緩させてしまい、続けて行うことで完全に腹壁筋が弛んだ状態になってしまうとフースラーは述べます。
そして腹壁筋の弛緩は横隔膜低位を引き起こし、呼吸機構の根本的な障害を引き起こすと続きます。
ではなぜこのような呼吸の方法を用いて練習を行うのか?
それはこの方法によって喉頭器官全体をできるだけ弛緩した状態にしようとしているようだと述べられています。
ここは喉頭器官全体と述べられていますが、続く内容を見る限りおそらく「発声器官全体」と捉えた方が理解しやすいです。
なぜなら「呼吸筋および補助呼吸筋の弛緩は結果として全ての喉頭筋(喉の筋肉)に弛緩をきたす」と続くためです。
その結末は「低音はよく出るが、高音域はいうことを聞かなくなっていく」と述べられます。
声帯は引き伸ばされて初めて高音を出すことができ、この声帯の伸ばされ具合一つで音程が変わるわけですが、それを引き延ばしたりする筋肉たちをも弛緩させてしまっては、素早い音程のコントロールも難しくなると考えられます。
5.いわゆる「鬱積法」(p59_11〜p61_14)
「今までのものとは多くの点で対立する性質の誤った呼吸方式」と始まるこの項ですが、「今までのもの」というのは直前の「強制深呼吸」を指しています。
具体的にどのような方法なのかというと、
「発声の前も発声している時も、呼気を喉頭の下に集積(堰き止め)し、それによって声帯を下から圧迫する」
ものだと説明がされます。
ではなぜこの方法を行うのか、
それは「圧力は対抗圧力を生み出す」という原理によって喉頭器官全体を強化しようとしているらしいと述べられています。
方法の内容も、その意図も過激なものであるように受け取れます。
実際に「この方式は無数の声を破滅させてきた」と続きます。
であるにもかかわらず長い間支持されており、今なお熱狂的な信奉者を得ていると述べられているように、おそらく一部の地域や流派でよく用いられているのだと推察できます。
解説版では、日本でこの方法を取り入れ積極的に教える指導者は稀、とされている通り、おそらく日本ではあまり一般的ではない「支え」の方法であると考えられます。
そんな「鬱積法」ですが、なぜ熱狂的な信奉者が現れるのか?
それは数段落飛んだ先、p60_25に書かれています。
結論の前に述べられていることは、鬱積によってどのようなことが起こるのか、です。
・鬱積が発声器官に対してどう働くかは、鬱積されている時の喉頭懸垂機構や喉頭の働きがどのようになっているかにかかっている。
・舌筋、舌骨筋によって喉頭が高く引き上げられて、胸骨甲状筋や輪状咽頭筋によって下方に引かれていないなら、鬱積は重大な障害を起こす。
・逆によく作り上げられた発声器官で、「ファルセット的」な声ならば、長時間でなければ鬱積も危険なしに済ませることができる。
ここまでの内容で、既にフースラーがこれから述べようとしている結論につながります。
”それは良い天分に恵まれた発声器官ならば、いつか次のようなことがうまくゆくことがある。それはこの方法によって呼吸器官と喉頭器官とのあいだに、摩擦のない結合を再建するのにうまく成功するのである。すでに先行の節で書いたように広範囲の発声器官の上部と下部の連絡ができるのである。”
つまり、この方法は「天分に恵まれた発声器官」ならば、「のどと呼吸器官の協力」、結合がうまくいくことがあり、「発声器官」が成立できることがある、と言ったことが書かれているのです。
こうなるとこの方法を熱狂的に支持する方がいることにも納得がいきます。
ですが、長い年月の間これを練習し続けた先に、また危機が訪れるとフースラーは続けます。
その危機はp61_4に述べられます。
「肺の筋肉を強く活動させることは反射的に喉頭の緊張筋と閉鎖筋に活力を与えるが、声帯を伸ばす働きをする筋肉が徐々にダメになってしまうこと」
まず「肺の筋肉」について、肺に筋肉はありませんから、肺に影響を与える胸郭の筋肉群を指していると考えられます。
そしてそれを活動させると喉頭の緊張筋や閉鎖筋は活力を得ますが、声帯を伸ばす働きをする筋肉が働かなくなってしまっては歌声として本末転倒です。
長年この訓練を続けた先に待っているのは最終的に「胸っぽい声」となってしまうこと。
やはり「鬱積法」も「支え」のやり方として良いものとは言えないと考えられます。
6.「圧迫」(p61_15〜23)
ここではこれまでに述べられてきた、いわゆる「方式」として用いられているものではなく、故意ではなく、必要に迫られて無意識に行われるものの説明がされます。
ここは書き方がやや難しいのですが、結論としては以下のようなことを述べてあります。
『自然歌手、すなわち自然と「発声器官」の正しい成立ができる人々はこのようなやり方を無意識下に行っている場合があり、そのやり方を気に入っている場合がある。「いわゆる方式的なやり方を尊重する人々」がやらせるやり方に比べれば危険は少ない。』
つまり「支え」のやり方としては、この「のどに対して空気を押し付ける」ことを無意識下で行っているだけであれば、そのやり方は「支え」としては誤っているけれども、「方式的なやり方」と比べれば危険は少ない、ということが述べてあります。
そして最後に述べられる以下のポイントが大事です。
”ひどくやりすぎることは、その努力をみんな危険なものとする。”
・この一文に「みんな」という記述がある点、
・これまではいわゆる「方式的な」話をしてきたのに、最後に「無意識下で行われる圧迫」の話をする点
この2点から、私はこの内容を「どのようなやり方にしろ共通して言えること」といったニュアンスに受けとっています。
「ひどくやりすぎること」は原著ドイツ語版では「徹底性」と表現されております。
これを踏まえて、「やりすぎ」を「徹底的」と読むと、これまでに登場した「方式的なやり方」が徹底的に行われるものであったことと繋がります。
最後の一文はそういった「方式的で徹底的なやり方と」必要に応じて無意識に「圧迫を行う」ことの違い、そして前者の「方式的に徹底的にやる」ことは、その努力を危険なものとしてしまうことを述べている一文であると考えられます。
ここまでで「いくつかの誤った支えのやり方」についての説明が終わります。
呼吸に関する記述はもう数ページあり、最後にはこれまでの記述を踏まえて最終的に重要である点が記述されます。
呼吸器官については記述が多いため数回にわたっての解説となり恐縮ですが、よろしくお願いいたします。