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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part30【「第10章 声楽演奏のための種々な要素」p106_22行〜p110_20行】

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第10章 声楽演奏のための種々な要素の続き(p106_22〜)に入っていきます。


第10章 声楽演奏のための種々な要素(p101_1〜p110_20)

今回の三行まとめはこちらです。

・メッサ・ディ・ヴォーチェの本来の古典イタリア流派での意味は1つの音で漸強漸弱するだけではない。

・メッサ・ディ・ヴォーチェの概念は本来「ベル・カント」の概念と大体一致する。

・「新しい法則」を作り出すことによって「古典的な流派」を否定する試みは成功した試しがない。


この章では、ここまでの内容で学んできた「声」に関する知識をベースとして、様々な声楽歌唱テクニックについての解説が行われます。

今回はp106_22、メッサ・ディ・ヴォーチェについての解説から入っていきます。


・メッサ・ディ・ヴォーチェ(p106_22〜p107_7)

  『メッサ・ディ・ヴォーチェとは何か。』

よく似ているように見えるかもしれませんが、メザ・ヴォーチェではありません、メッサ・ディ・ヴォーチェです。
まず、解説版にて直訳されていますから、メッサ・ディ・ヴォーチェの意味を確認してみましょう。
"messa"はイタリア語の"mettere"「据えつける、置く、(あるべき)状態にする」という単語を元にして派生した言葉とのこと。
"messa di voce"を直訳すると「声を置くこと、歌声をあるべき状態にすること、声の扱い方」と捉えられるようです。

さらに、メッサ・ディ・ヴォーチェがどういった意味の声楽用語なのかを見ていきます。
「単一の音高(ピッチ)を維持したままクレッシェンドし、その後デクレッシェンドする技法」
あるいは解説版の音楽辞典調べによると「或る一つの音を最も弱い声から始めて、次第に強めて最大までもっていき、次にそれを次第に弱めて始まりの状態に戻す声の操作」という説明が一般的とのこと。

これらの知識の土台をもってフースラーの記述を読んでいきます。

『古典的イタリア流派では「メッサ・ディ・ヴォーチェ」が意味していたことは周知の如く、単なるいずれかの1音の上での漸強漸弱だけではなかったことは明らかである。』
(補足漸強漸弱=クレッシェンド、デクレッシェンドです。)

まずこの最初の一文で、先ほど説明した「現代で用いられるメッサ・ディ・ヴォーチェの意味」と、「古典的イタリア流派で本来用いられていたメッサ・ディ・ヴォーチェの意味」が、異なっていることが述べられています。

では古典的イタリア流派で本来用いられていたメッサ・ディ・ヴォーチェの意味とはなにか?
それは『当時の声楽曲のスタイルから明らかに推論できる』とフースラーは述べていますが、シンプルに一言では言い表せません。

・「クレッシェンド、デクレッシェンドの繰り返しさえも楽しめるような歌い方」
・「広い範囲にかけられた弧線(スラー)をも歌い通せる歌い方」
・「歌の旋律の流れを決して断ち切るようなことをしない歌い方」

このように邦訳版では表現されています。
ここをドイツ語版原著、その解説版での翻訳を見ていくと以下のようになっています。

「クレッシェンド、デクレッシェンドを好みに応じて何回も交代させ、1つ、あるいは他の声の上に次第に膨らみ、やがて収縮していく波を作ることだけではなく、さらに歌唱を全く壊すことなく、広い範囲にわたって広げられたスラーをかけることだった。」

違いとしては、
・クレッシェンド、デクレッシェンドを「楽しむ」ではなく、「好みに応じて」であること。
・原著にはある「声の膨らみ、収縮の波を作る」、という表現が省略されていること。
の2点です。
他は、
「歌唱を全く壊すことなく」=「歌の旋律の流れを断ち切ることをしない」
「広い範囲にわたって広げられたスラーをかける」=「広い範囲にかけられた弧線を歌い通す」
と、若干表現は異なるものの、邦訳でも同様の表現を取られています。

こう見ていくと現代で用いられる方の意味も含まれてはいますが明らかに意味する範囲が広く、特に現代と異なっている点、それは「1音の音高(ピッチ)に限った話ではない点」、ここが最も異なっていると考えます。

話が広がってきましたが、なぜ邦訳や原著の記述をこのように紹介するのか、それは「メッサ・ディ・ヴォーチェ」がこのように複雑で多くの意味を併有する言葉であることを説明したかったためです。

一言でこれらの意味をまとめるのは無理がありますが、それでもあえて簡単な言葉にまとめると、
『「難解な音高(難しいピッチ)」や「複雑な旋律の流れ(難しいフレーズ)」であろうとそれらを「自由」で「滑らか」に表現する声楽技法であった。』
このように言えると考えます。

さて、ここまで「メッサ・ディ・ヴォーチェ」の意味についてみていきました。
ここで、原著ドイツ語版の翻訳にて、「声の膨らみ、収縮の波を作る」といった表現が登場していましたが、次の段落で突然登場する「ふくらませる」という記述はおそらくこことリンクしていると考えられます。

『この場合、(メッサ・ディ・ヴォーチェという技法を用いる場合)声をふくらませることのほかに、声の長さ(持続)ということがさらに加わる。長時間にわたって発声器官を運動状態において持続しなければならない。』

声の長さ、に当たる単語は原著英語版、原著ドイツ語版ともに「持続」という言葉が当てられており、解説版ではこの記述の違いは重要で、些細な違いではないと述べられています。
これについては単純に「ロングトーン」という意味として捉えるのではなく、続く段落とつながるように読むには様々な意味、側面から「持続」という言葉で捉えておくと理解しやすいかと思います。


  『筋肉の「もちこたえる仕事」(長く続きながらゆっくりと弱くしていくような筋肉の収縮の仕方)は特別難しいことであり、それは個々の筋肉別でみた時でさえ難しいのだから、たくさんの筋肉が共同作業で作り上げる「発声器官」という広い目線で見た時は最高級の問題であることがわかるだろう』

突然登場した「持続」や「もちこたえる仕事」という言葉。
これらが理解の妨げとなりますが、これは「メッサ・ディ・ヴォーチェ」という技法が、発声器官に強いていることであると考えると理解しやすいです。

先ほど『「難解な音高(難しいピッチ)」や「複雑な旋律の流れ(難しいフレーズ)」であろうとそれらを「自由」で「滑らか」に表現する声楽技法であった。』というのが「メッサ・ディ・ヴォーチェ」とは何かのまとめとして述べましたが、この中には広い範囲のスラーを歌い通したり、フレーズを断ち切らずに歌うといったことが含まれています。
これらの技術を実現するためには、発声器官をどのように働かせるのか?
という目線で見ていくと、「自由」で「滑らかに」表現するためには、発声器官という一時的に作られたひとまとまりの器官を、歌っている最中に一切バランスを崩さず、「持続させる」、あるいは「たえる」必要があります。
発声器官はたくさんの筋肉、器官で構成されていますから、それらの筋肉の働きを維持しながらゆっくりと働きを弱めたり、あるいは強めたり……そう聞くと当然「最高級の問題」であることは容易に想像がつきます。

このように捉えると、フースラーがこの「メッサ・ディ・ヴォーチェ」という技法と「もちこたえる仕事」と表現することに納得がいくかと思います。

こういった話を展開しているのだと一度理解できれば、続く記述については難しく感じずに読むことができます。
それを踏まえてp107_10〜23の段落でフースラーが述べていることを要約すると以下のようになると考えます。

・「もちこたえる仕事」を、発声器官の筋肉を硬直させずにやり遂げるという能力、そんな難しいことを実現する能力こそ、「声楽的訓練の最終目的」ではないか。
・かつてこれを実現した歌手がいたということは、18世紀の偉大な歌手の人々の業績に関わる資料で明らかである。
・現代の人々の多くは、かろうじて数秒間だけ発声器官を持続できるだけで、持ち堪えることができる時間が短いから、何度も新しく発声器官を立て直さなければならない。
・今日の比較的良い歌手ができることは、「声をある程度膨らませること」「声の強さを弱くすること」「ピアノとフォルテを並べ立てること」だけだ。(それでも大いに尊重されるのだが)

続く段落でも内容は続いており、

・「メッサ・ディ・ヴォーチェ」のような、発声器官の最高の支配(ポジティブな意味なので、読みやすい日本語にすると『最高に良いパフォーマンスで「扱える」』といったところでしょうか)を重視する考え方は、現代は色褪せてしまっている。
・時の流れとともに声楽芸術的な評価も移り変わってきた。(他の芸術同様)
・以前の芸術は技量的能力から導き出されるものだったが、今の芸術は精神的なもの(感情など)から導き出されるものとされている。
・声楽芸術ではこの動向(精神的な表現とするもの)によって不健康などうしようもない自然主義で終わってしまっている。

「自然主義」という言葉は少し混乱を招く可能性があります。
なぜならフースラーはこの本の冒頭で、大前提として「自然歌手」という言葉を用いています。
これは、簡単に言えば「周りに特別な指導などを受けることなく発声器官がとびきり良い状態である歌手」を指していました。
ですが、ここで述べられている「自然主義」は、このフースラーが本の冒頭で述べた「自然」とは全く違う意味の言葉です。
ではこの「自然主義」がどういう意味の言葉なのか、それは続く文に書かれております。


  『現代の自然主義とは歌手にとって何を意味するか?それは「多かれ少なかれ情熱を込めてある楽器で音楽を奏する」ことである。』

ここでいう「ある楽器」というのは我々人間自身、発声器官のことを指していると考えて良いでしょう。
その上でもっと平たい言葉にしてしまいましょう。

『心を込めて、歌います』

一般的にもよく宣言されるこの言葉が、フースラーがここで述べている「自然主義」と同じ概念であると言えると私は考えています。

そしてフースラーは「ただし」と続けていきます。


  『現代の人々の発声器官は、数多くの欠陥を抱えており、本来あるべき自然の姿から遠く隔たっている。』

『その楽器(発声器官)は、正常の発声器官が持っているすべての欠陥か、そうでないとしても数多くの欠陥にとりつかれており、その器官の本来あるべき自然の姿からは遠く隔たっているのである。』

ここも誤解を生んでしまう可能性がある表現があります。
「正常」なのに「欠陥」?となってしまう方もいらっしゃるでしょう。

「正常の発声器官が持っているすべての欠陥」、ここでいう「正常」は、現代の人々一般を「正常」としています。
フースラーは前提として、現代の人々の発声器官は本来あるべき能力を発揮できていない状態であり、それが現代の「正常」となってしまっているという主張をしています。
それを前提に読むと、『現代の人々の発声器官は、数多くの欠陥を抱えており、本来あるべき自然の姿から遠く隔たっている。』
これで十分内容は伝わる説明となります。


  『歌手にとって、発声器官の自然の法則声にしたがって出来上がった「技量的能力」こそ、完全に解放された純粋の自然』

技量的能力、という表現がややこしさを感じさせます。

これは、以下のように私は捉えています。
・本来発声器官が解放されていれば「技術」などは必要なく、難解なテクニックとされている表現を自在に行うことができる。
  →この章におけるここに至るまでの主張
・その「発声器官が解放されている状態」こそが「完全に解放された純粋の自然」
  →ここでの主張
結論:「完全に解放された純粋の自然」の力(解放された発声器官)をもって、難解なテクニック(=技量的能力、表現)とされている表現を行うのだ。

最後の結論ができるようになれば、先ほどフースラーが否定した「自然主義」なるものを克服でき、真の意味で「精神的なもの」を表現することができると述べている、そのように理解しています。

最後は「自然主義」あるいは「自然主義者」を痛烈に批判し、本章最後の「ベル・カント」へと続きます。

『「精神的」な野望を抱いて歌っている「自然主義者」などというのは、馬鹿げた考えであって、その連中の芸術的、音楽的な試みも、苦しそうで不愉快な産物以上のものではない。』


・ベル・カント(p107_8〜p110_20)

  『「ベル・カント」の概念は、本来「メッサ・ディヴォーチェ」の概念と大体において一致する』

さて、この見出しは先ほどの「メッサ・ディ・ヴォーチェ」と分かれて独立していますが、実は話がつながっています。

そもそも「ベル・カント」とはイタリア語で「美しい歌」という意味がある言葉ですが、この概念がどういったものであるのか、フースラーはそれを『「メッサ・ディ・ヴォーチェ」に関して述べられてある概念と、大体において一致する。』と述べています。

・「メッサ・ディ・ヴォーチェ」と「ベル・カント」の概念は大体において一致する。(それは「美しく滑らかに結ばれた歌い方」に必要とする前提条件と同じ)
・しかし、今日においては、全く誤った考え方が「ベル・カント」という概念と結びついてしまっている。

実際の記述順とは前後しますが、上記の順の方が理解しやすいです。
「美しく滑らかに結ばれた歌い方」という表現は、「メッサ・ディ・ヴォーチェ」で説明されていた「広い範囲にわたってスラーをかける」などの表現とも共通するもので、「メッサ・ディ・ヴォーチェ」と「ベル・カント」の共通点を感じます。
これについては「メッサ・ディ・ヴォーチェ」という技術を用いて「美しい歌」=「ベル・カント」を表現するといったニュアンスであると私は理解しています。

この概念が「美学的欲求」と「発声器官でまもられていなければならない生理的法則」と合致しているとフースラーは述べます。
つまり、美しいと感じる歌声=発声器官が理想的に働いている状態の声だったのだと述べているのです。
ここでフースラーは発声器官が理想的に働いている状態の歌唱を「正しい歌唱」と呼び、以下の式のように話を展開します。
「正しい歌唱」
 =「健康を維持できる声(喉を痛めつけたりしない、という意味で)」
  =「美しいと感じる歌声」
   =『誤った考え方と結びついてしまう前の、本来の「ベル・カント」』


  『「「ベル・カント」はイタリア音楽、イタリア語に限って歌うことができる。」という意見も見受けられる。』

p108_18〜25、この段落を読むと非常に混乱します。
これは次の段落で述べられることに向けて「世間にはこういった意見もある」といった話をしているのだと考えるのが最もしっくりくると、私は考えています。
述べられている内容をまずは列挙した上でその理由について考えていきます。

・イタリア語以外で「ベル・カント」という概念と一致する声で歌うことはできない。
・これによって「ベル・カント」の概念に対する誤解が明らかとなる。
・こうなると必然的に次の結論が生まれる。すなわち「イタリアの声楽曲をイタリア語以外で歌われたすべての解釈は誤った結果にしかならない」
・イタリア語でない声楽曲は、誤った働き方をしている発声器官によってのみ解釈されることができるのだというのである。

最後の一文に全てが詰まっています。
つまりイタリア語以外は理想的な発声器官の働き方をしておらず、誤った働き方をしているため「美しい歌声」にならないのだと。
これはイタリア語話者ではない人間からすると「メチャクチャなことを言っていないか?」となってしまう話です。

これをただ突っぱねるだけであれば簡単ですが、客観的に見ることで学びを得ることもできます。
・そもそも知性的な脳の使い方をしなければいけない「言語」というものを扱う点
・母語とする言語によって子音母音が異なる点
この2点は「歌詞が存在する歌」である以上、どう足掻いても避けることができない点です。
そして子音母音が異なるということは、脳に与える影響が異なり、発声器官にそれらが与える影響も異なるということです。

音象徴というものがあります。
詳細な説明はまた別の機会としますが、語弊を恐れず簡単に表現すると人間が発する子音母音からイメージする傾向があり、例えば
・「い」は小さく「お」は大きいイメージ
・「sの子音」は鋭く、「mの子音」は丸いイメージ
のようなその子音母音から特定のイメージが想像される、そういった現象です。

このようにその子音母音の音、あるいは音を作る時の人間の体の使い方自体が脳に影響を与えることを考慮すると、同じメロディラインでも子音母音が違う歌を歌うと、発声器官の使い方が変わってくることは実際に起こりうるのではないかと、こう考察することができます。

(母語が異なっていても同様のイメージを喚起するなどの実験結果もあるため、言語の音が近い場合は歌詞の内容が同様のイメージを想起させうる子音母音となる可能性もありこの限りではないとは思いますが、その子音母音が異なる場合影響自体は大きいと考えています。どういった言語の成り立ちなのかによっても子音母音が似るかどうかの影響があったり、文化によってそもそもイメージ自体が異なる可能性がある等、影響しうる要素が非常に複雑であるため、あくまで「言語が異なれば子音母音が元の歌詞から変わってしまって、結果発声器官の使い方に影響を及ぼすかもしれない」という程度の考察に留めておいて頂けますと幸いです。言語学専門家などではない為、誤っている点などあればご指摘いただけますと幸いです。)

さて長くなってしまいましたが、この段落(p108_18〜25)については次の段落以降でフースラーはこの考え方を「否定している」と私は考えています。
次を見ていきましょう。


  『伝えられている資料、生理学的な知見等から、ベル・カント時代の偉大な歌手たちの発声器官の使い方を再現することができる。』

順番は前後しますが、先ほどの見出しの、「イタリア語でのみベル・カントで歌うことができる」という意見に加えて、
 『ベル・カントが実際にどんなものであったのか、現代でそれを知る術が無い為、ベル・カントについて議論するわけにはいかない』
という意見もあることをフースラーは続けて提示し、
こういった意見たちがなぜ生まれたのか理解に苦しむと述べます。
これが私がこれらの意見をフースラーが否定していると捉える理由です。

p109_1からの記述については素直に読んでいくと少々理解しにくい話の展開となっているように見受けられますので、コアの内容を太字に、それ以外を補足情報として少し要約しながら読み進めます。

・(いわゆるベル・カントで歌えるような)素晴らしい歌手なら、決して呼気を浪費してしまうことはないだろう。
   
→素晴らしい歌手とは、例えば「一息で50秒以上歌えたり」、「大きなスラーのフレージング、パッセージ、メリスマを思うままにやれる」ような歌手のこと。
(*パッセージとは、フレーズと同一の意味で用いられたりもする旋律の塊のことを指すようです。一般に速いテンポで演奏されるものであることを考慮すると、おそらくコロラチュラ、コロラトゥーラで演奏されるフレーズと考えられます。)

・このような発声器官では、声楽発声に必要な能力が最大限に開発されて(=目覚めて)おり、完全に一体となって共同作業をしているに違いない。

・なぜこう考えるか、それは「呼気が浪費される状態がどのように起こるか」から、逆説的に考えていくことで推察できる。
  
→ここで例を挙げる。
     ①声門閉鎖をするための機能が悪いと、呼気が無駄に浪費される。
     ②声帯内の筋肉を自由自在に緊張させたり緊張を解いたりできないと、声の増強をするために圧迫呼気しなければならない。(いわゆる力んで息を吐く状態のイメージ、こうなると呼気が無駄に浪費される)
     ③声帯伸展筋(輪状甲状筋)や喉頭懸垂機構全体の発達が悪い場合も息の短さを来してしまう。
   このように色々な要因で呼気が浪費されたり息が短くなったりしてしまう。
   逆に考えると、これらができる状態、声門閉鎖するための機能が良い、声帯内筋を自由自在に操ることができる、輪状甲状筋や喉頭懸垂機構の発達が良い、といった状態、つまり発声器官全体の解放具合が良い状態だと、おのずと呼吸器官も良い状態であると考えられ、そうなると呼気を無駄に浪費することがなくなり、50秒間も歌うことができるという可能性が成立するのだ。
(多くの人が信じているような、不思議なやり方(特殊な技術)によって大量の空気を溜めているのではない)

・このような素晴らしい歌手を完成させるには9、10年という長い訓練期間を必要とする。

長くなりましたが、これが
『実際に17世紀に「ベル・カント」と呼ばれた歌手たちがどう言ったものであったのかを知ることはできない』としても、
『伝えられている資料や生理学的な知見、論理から再現することができる』
と述べるフースラーの推察の内容です。

要約を一文で振り返ると、以下のような内容になります。
『素晴らしい歌手は呼気を浪費しない、そのためには発声器官全体が目覚めている必要があるため、自ずとベル・カントの歌手たちの発声器官全体が良い状態で働いていたと言う証拠である。(このような歌手になるためには9、10年という訓練期間が必要)』


  『北欧諸国では「ベル・カント」を軽蔑的に扱うことが多いが、本来の「古典的な声楽の流派」が考えていた元々の「ベル・カント」とは違ったものの話をしているのである』

この段落では本が書かれた当時のヨーロッパ諸国の声楽事情について述べられています。
・フースラーはアメリカ生まれですがスイスの声楽教育者であったこと、
・そして、オランダ、ドイツ、スイスは文化的特徴が北欧と近いとのこと(少なくとも今の日本語における「北欧」にはスイスは含まれないようですが)
・さらにはこの「うたうこと」がドイツ語でも書かれていること、
これらのことから、フースラーは特にドイツやスイスなどの中央ヨーロッパとされる地域を含む声楽事情、について特に指摘していると考えられます。
つまりは当時の中央北ヨーロッパなどの地域においては、古典的なイタリア声楽の「ベル・カント」という概念が軽視されていたと、このように推察できます。

これだけ聞くと「そんなことある?」と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも人間の外見に関する美的感覚の違いが日本や韓国、中国といった近い範囲でも異なっていたり、さらに離れた海外に行くとよりその美的感覚に違いが現れることを考えると、人間が「美しいとするもの」という概念は国や文化が違えば自ずと変わってくると考えられます。
(統計的なデータなどを目にしたことはない上に、核心をついた例えではないかもしれませんが……関東と関西で「モテる人」「異性に求めるもの」という考え方が違うというものと似ているかもしれません。)

それらの地域では「ベル・カント」は「ちょっと可愛らしく歌う」というようなやり方で行われており、これがよく開発されていない発声器官によって作り出される、そのため「いくらか有能な自然歌手」たちはそれを厳正に拒否するとフースラーは続けます。
国や文化にネイティヴレベルで馴染みがなければ、完全に一致する単語が無い場合も多いです。
日本語にも他の言語に翻訳できないとされる言葉があります、例えば「わびさび」のような言葉。
多くの日本人にとってはおそらく具体的に意味を説明できなくともなんとなく感覚的にぼんやりとイメージ自体ができるかもしれませんが、日本の文化や言語がネイティヴレベルでなければ同じようなイメージを思い浮かべるのは難しいかもしれません。
(他にも、こういった話ではよく「もったいない」が挙げられますが、これは英語で"What a waste"や"wasteful"といった表現、単語があたるようで、この場合は適切な例では無いかもしれません。)


  『「新しい法則」を作り出すことによって古典的な流派を否定する試みは成功した試しがない。』

最後の段落はここまでの話に限った話ではなく、あらゆる指導に共通した話が展開されます。
若干要約した内容を上に書きましたが、もう少し細かく解説しますと以下のような内容です。
『「新しい法則」とされるものを作り出して「これが新しい声楽(あるいはその指導)のスタンダードです!従来の古典的なやり方は古い!!」といった感じで「古典的な声楽の流儀」を否定しようとする試みがしばしば行われているが、それらは成功した試しがない』

フースラー曰く、それは古典的なイタリア流派の巨匠達は聴覚を通した素晴らしい直感によって「発声器官が天から与えられている法則を認識した」上で、その「古典的な声楽の流儀」を作ったからだと述べられます。
語弊を恐れずに解説しますと、
『古いイタリアの素晴らしい歌手(あるいは指導者)は素晴らしい聴覚をもっていて、それで感じ取ったもの+直感によって、「発声器官」の本来の働き方の法則を認識し、その上で「古典的な法則」を作ったのだから、例え「新しい法則」なるものを作り出したとて、人間の体の構造(発声器官)が変化していない以上その法則を否定することはできない。』
といったことがこれらで述べられていると考えています。

「新しい法則」を作り出そうとした ヨハン・マッテゾンという歌手及び指導者は、当時の北欧の歌手達に次のようなやりかたを勧めたと紹介されます。
『野原の人のいない所へいって、土の中へ小さくてもよいが深い穴を掘りなさい。その穴に口を持っていって、たいした無理をしないで、高く、長く、その中へ向かって大声を出しなさい。それによって、あるいはそんなふうにしてしばしば行われる練習によって声の道具は、ことに声変わりの最中の者には、管楽器と同様に非常に滑らかで綺麗になる。管楽器は使われれば使われるほど空気で綺麗にされてよく鳴るようになるのだ。』
このように紹介されたと言うことは、これも人間の体の構造に則った法則ではないということ。
そして、このやり方を勧めたマッテゾンという歌手及び指導者は、「力強いドイツの流儀によって、いつかはイタリア人をやっつけてしまいたいと思った」らしいと述べられます。

ここまででフースラーはこれで何が言いたかったのか、あくまで私の推察をまとめたものですが、つまりこうです。
『如何に偉大な歌手、指導者であっても、古典的な「イタリア流派」は生理学的に正しく考えられているのだから、たとえ「ドイツ流派」こそが正しい!と言いたいがために新しい法則のようなものを作り上げたところで、人間の体が変わっていない以上、古典的な「イタリア流派」を否定することはできないし、それを否定するための「新しい法則」のようなものを作り出すことに意味はない。』

そして段落は変わり、最後に「そもそも優れた歌唱の故郷ってどこなの?」といった話をしてこの章は終わります。

それは古典的声楽時代のもっと以前、8ー9世紀ごろのフランク王国の北方の国(地域?)の話です。
当時のフランク王国のカール大帝がキリスト教会の歌のために、メッツ(現在のフランス北東部のメス、Metzのドイツ語読み)に歌のスクールを創設したとされており、そこにはイタリア、ローマの大家(たいか、つまりは優れた技能や見識を持つ人)の指導があったと言います。
当時はその生徒達の指導者としてイタリア人の先生が置かれたことにヤキモチを妬く人もいたようですが、カール大帝は以下のような問答をしたと言います。
カール大帝「河の水は、その源と河口とではどちらがきれいだろう?」
生徒「もちろん源です。」
カール大帝「それは歌でも同じなのだ、それが生まれた場所が最も純粋なのだ。」

このエピソードから、フースラーは、その生まれた場所、源こそがイタリアなのだと締めくくります。
『声楽の源流であるイタリア流派は、現代で古典的声楽とされる16、17世紀どころか、もっと大昔、8、9世紀頃ですら既にイタリア流派が源流とされていたのだ』
といったことが述べたいと考えられます。



さて、これにて10章が終了となります。

次回からは第11章、声種に入っていきます。

よろしくお願い致します。

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