【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part15【「第4章 解剖と生理」p53 1行〜p56 5行】『第3部 呼吸器官』その4
本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第4章 解剖と生理 「第3部 呼吸器官」の続き(p53_1〜)に入っていきます。
第4章 解剖と生理
今回の三行まとめはこちらです。
・「声の支え」と言われているものは、実際のところ「のどの支え」である。
・呼気による「空気の柱」でのどを支えようとした場合の声は、生理学的に正しい発声をした時の声とは異なる。
・のどと呼吸器官の協力が必要な理由は、協力ができていなければ呼気圧迫などでその穴を埋めようとしてしまうからである。
第3部 呼吸器官(p45_19〜)
「声の支え」
私自身の理解や一般的な使われ方については、Part12、原始的機能の第1の傾向性で述べておりますので、そちらを参照ください。
ここではフースラーの記述を追っていく流れで説明させていただきます。
・「声の支え」とは「のどの支え」である。(p53_1〜7)
『いわゆる「支え」は「声に安定を与える」と理解されているが、実際のところは声は音響現象でつかみどころがないということを考えると、その声を生み出す器官の安定が、結果として歌声に安定を与える。
故に支えられるべきものは、のどであるというわけだ。』
そのようにフースラーは書き出します。
が、次の文では
『ではその支えによって「歌手にはとある感覚が生じ」「聴衆にはとある感銘(印象)が生じ」るというのは一体どういうことか。』
と問題提起のように続けます。
邦訳ではこの続きに”「支え」られるべきものは、のどだろうか声だろうか”と述べていますが、先ほど「支えられるべきものはのどである」と断言した直後にこれでは話が通じていません。
これについては原著英語版を見ていきますとわかります。
”Now what is it that gives the singer the sensation, and the listener the impression, that the tone, or the throat, is 'supported'? ”
『さて、トーンや喉が『支えられている』という感覚を歌い手に、そして聴き手に与えるのは何だろうか?』
(トーン=声の音色)
つまりは
『「支え」られるべきはなんなのか?』ではなく
『「支えられている」という感覚を歌い手に生じさせたり、聴衆にそういった印象を与えるのは一体何なのか?』です。
これで話がつながりました。
そして続く文も混乱を招きます。
”それについて知っている必要のあることは全て、既述の諸章にいいつくされている。”
つまりこれまでにすでに「声の支え」と言われているものがなんなのか……実際にはフースラーは「支えられるべきものはのど」と言い切っているので、どちらかというと「のどの支え」とはなんなのかはすでに説明してきた、とフースラーは述べています。
これについては実際にズバリ声の支え、のどの支えとは、とかかれている場所はありません。
が、これまでの記述から推察することはできます。
私の本ブログではその推察をすでに述べました。
今回の冒頭で述べたようにpart12です。
簡単な言葉にしてしまえば、「発声器官を構成する筋肉や器官」、これが「のどを支えている」ものであると私はここまでのフースラーの記述から推察しています。
「発声器官を構成する筋肉や器官」
これは内喉頭筋や外喉頭筋、喉頭懸垂機構、舌骨筋群が含まれるのは当然ですが、それ以外にもこれまでの「第3部 呼吸器官」で述べられてきた呼吸に関係する筋肉や器官も含まれます。
たくさん登場してきたそれらが、最終的にのどの支えとなり、歌手に支えられているという感覚を与え、聴衆に支えられているという印象を与えていると考えると、「既述の諸章に言い尽くされている」と述べられていることにも納得がいきます。
そしてこの見出しの内容はここがメインではありません。
ここまでの話はいわゆる前談です。
次の文、
”われわれは今や、何がこの問題をこんなに混乱させているのか、ということの中心へ向かって進もう。”
つまりフースラーの述べたい話はここから始まります。
・いわゆる「呼吸力」なるものは「支え」ている要因ではない。(p53_8〜p54_2)
声に安定を与える、のどを支えているものは「呼吸」や「呼吸力」なるものではないとフースラーは述べます。
また、ここでの「呼吸」は、「空気としての息」を意味していると解説版で解説されています。(原著英語版、原著ドイツ語版では、これらは名詞の形で用いられており、動詞ではないためとしています。)
次の文は全てに「声帯」がかかっているように原著英語板で記述されています。
『確かに歌を歌う時に息は圧縮された形で流れ出るけれども、それは声帯を動かしたり、声帯の筋肉運動の能力を高めたり、声帯の振動を増やしたり、声帯の弾力性を高める要素ではない』
長い間支えについては反対のことが教えられていたと書かれているように、逆に息を操作することで「支え」を獲得するとされてきていたようです。
フースラーが誤っている学説と述べているのは
『最大の吸気によって蓄えられた力が胸郭筋によって自由になるか、あるいは横隔膜によって自由になるか』
といった内容です。
つまりはこれが当時の一般的な発声訓練における「支え」の考え方であったと考えられます。
次にこういった誤っている学説がどのように成立していったのか説明しよう。と続けて述べられますが、成立された過程が説明されているのは23行以降です。
その前に18行〜、前提としてフースラーの考える「支え」について、支えによってどうすると実現できるのかの説明が展開されます。
例えば声帯を活発に働かせることは、のどと呼吸器官が完全に協調し、ひとつの機構(=発声機構)として一体となって、(意義深い)引っ張り合いで協力し合えば、直ちに実現するだろう、と述べられます。
簡単に言ってしまえば、これまで繰り返し述べられてきた理想的な、生理学的に正しい働きを発声器官ができていれば、「支え」は直ちに実現するといっているのと同義です。
ただし、言うのは簡単ですがこれが完全に起こるのは極めて稀な場合だけです。
それこそフースラーの述べる「自然歌手」、何もせずとも素晴らしい歌を歌うことができる、そんな場合のことを述べています。
では「才能豊かな器官」=発声器官の性質として、それがうまくいかない時には呼気の「空気の柱」によってその「支え」が実現していないことを補おうとします。
その方法で「支え」を補おうとした時、のどに抵抗感を感じ、それが発声器官の上部(のど側)と下部(呼吸器官側)の間に接触感が生み出され、その結果として「のどと声が下から支えられているような感覚を生じる」とフースラーは述べます。
この部分が、なぜ誤った学説が成立してしまったのか、を説明している部分です。
間が空いてしまったのでもう一度述べると
『最大の吸気によって蓄えられた力が胸郭筋によって自由になるか、あるいは横隔膜によって自由になるか』
これがフースラーの述べる誤った学説です。
実際に頑張ってたくさん空気を蓄えた状態からの発声は、確かにのどに抵抗感を感じやすく、肺から上がってくる「空気の柱」によって「のどが下から支えられているような感覚」を感じることができます。
しかし、これはいわゆる体感にだまされているようなもので、本来の発声器官の成立よりはるかに体感しやすいがためにこういった誤った結論が生じたのだとフースラーは述べていると考えられます。
・呼気による「空気の柱」によってのどを支えようとした場合に生じる声の音色には、正しい発声の持つ特徴は無い。(p54_3〜9)
このように「支え」ようと試みても、叫び声の出し方の一種となってしまうとフースラーは述べます。
この空気の柱によって支えようとしているという状態を取り払って、のどと呼吸器の同期的な活動ができるように発声指導を行わなければならない。
つまり、空気の柱なるものによって支えようと試みることは、のどと呼吸器官の連動を作っていく、あるべき状態にもっていく上で不要なものということになります。
・なぜのどと呼吸器官の連絡を回復しようとするのか?それは発声器官の機能的脱落に対して呼気圧を加えたりすることでその穴埋めをしようとしてしまうからである。(p54_10〜25)
”なぜ、声楽発声に必要な、のどと呼吸器との連絡が、概してほとんど全般的に断たれており、そのために呼気圧迫によって骨を折った末ようやくそれ(のどと呼吸器の連絡)を回復しようとするのか?どのような欠陥がその責を負うのか?”
のどと呼吸器官の連絡を回復しようとする理由はなぜか?とここでは質問から始まります。
まずは「どのような欠陥」によってその責(連絡が絶たれた状態になってしまう責)を負うのかが説明されます。
それはすでに述べられており、「その原因が喉頭を吊っている筋肉の故障によることは明らかである。」
つまり喉頭懸垂機構はのどと呼吸器官の領域をつなぐ役割を持っているのに、喉頭懸垂機構の神経支配が悪い故に、「この連絡」がうまくいかないのだとフースラーは述べます。
ここまでに述べられてきたのは「どのような欠陥」が「のどと呼吸器官の連絡」がうまくいかない状態になってしまうのか、です。
この先に述べられることが、では「なぜのどと呼吸器官の連絡を回復する必要があるのか?」です。
逆説的に言えば、「のどと呼吸器官の連絡がうまくいかないとどんなことがおこってしまうのか?」です。
のどと呼吸器官の連絡がうまくいかなかった結果は様々に異なった状態があるとしつつ、典型的なものとして
”発声器官のどのような機能的脱落に対しても、呼気圧を加えることや、あるいは呼気の過剰使用によってその穴埋めをしようとするからである。”
と述べます。
つまりこうなってしまうことを避けるために「のどと呼吸器官の連絡を回復する必要がある」ということになります。
こういった体の使われ方は器官を硬化させたり無力化させたり……この辺りの言葉だけでも、呼気圧を加えることや呼気の過剰使用によって、発声器官が本来できるはずのことを「穴埋めしよう」とした先に起こることがいかに良く無いことかが説明されます。
とくに後者、「呼気の過剰使用」こそ多くの声楽発声の流派において「支える」という概念のもとに教えられているとフースラーは述べます。
アッポジアーレ・ラ・ヴォーチェ(イタリア語で「声の支え」)
・最も良いイタリア流派では、以前から「アッポジアーレ・ラ・ヴォーチェ」という概念で生理学的に正しい支えのやり方を教えている。(p54_26〜p55_18)
この範囲で言われていることは以下の4点、
・イタリアの声楽家、発声指導者はこれまでに述べてきた「支え」を「アッポジアーレ・ラ・ヴォーチェ」という概念、言葉で理解し実行していること。
・「アッポジアーレ」とは、なにか支えてくれるものに寄りかかるという意味のイタリア語で、イタリアの歌手は背中の下の方から胸の前上の方に向かって、「ある空想上の力」で支えるという考え方をしており、それによって呼吸筋と外喉頭筋、内喉頭筋との関連を生じさせる。
・適切な筋肉活動と呼気圧迫を区別していることの証拠として、イタリア歌手が練習する「コルポ・ディ・ペット」という練習の仕方で明らかである。
・「コルポ」とは発声に必要な筋肉をひとまつめに掴むことを非常な速さでやること、すなわち「呼吸器官の基本的循環運動」の項でのべたものと同様である。
ここで述べられていることで大事なのは
「最も良いイタリア流派」では「アッポジアーレ・ラ・ヴォーチェ」(=イタリア語で「声の支え」という意味)という概念で、ここまでに述べられてきた「生理学的に正しい支え」が教えられていたのだということ。
それを証明するように「コルポ・ディ・ペット」という練習で「発声器官をパッと作り上げる練習」を行なっていたのだということ。
この2点です。
ここまで見ていくと、簡単に言ってしまえば「イタリア流派ってすごい」という情報が述べられています。
ただし「最も良いイタリア流派」と限定されている点は意識して読んでいくと良いかと考えます。
・イタリア流にも「変わっている」点があり、それは内側の胸筋(図46)を過度に働かせること。(p55_19〜p56_5)
「変わっている」というのは、時間の経過とともに変化した、という意味ではなく、イタリア流派特有の、他と違う、という意味で「変わっている」ということです。
それは内側の胸筋=胸横筋(図46)を過度に働かせること。
そしてその理由は、そうすることで声の音色がイタリア人の歌手と聴衆の趣味に合うようなやや明るい音色になることであるとフースラーは述べます。
この「やや明るい」は原著だと「より開いた声」「前に出た声」と言った言葉が用いられています。
イタリア流派は高音域でも声門は閉じていて、
フランス流派は音が高くなると声門間隙はいつも軽く開いているという点で、
このふたつが対照的であるとされています。
そして、このイタリア流派、先ほどの話からも理想的なよい指導法であると考えられるのですが、ここでフースラーは”警告の必要がある”とします。
その警告とはどのような内容か、
「イタリアを含む南欧の人々は肉体感覚が強く、神経支配の行き届いた胸横筋や肺、および外喉頭筋あるが故にこういったイタリア流派が可能なのであって、北欧人が実際にやるのは初めのうちは推奨しない」
こう述べられます。
すなわち、人種の違いによる難しさをここで述べているのです。
南欧の人々のように神経支配が行き届いている胸横筋や呼吸器官、外喉頭筋がない人がこういったイタリア流派の「支え」を真似しようとしても、それはイタリア流派のいう「アッポジアーレ」とは異なったものになってしまい、
”あまりにも容易に、単に呼気圧搾だけに誘導されうる”
それでは生理学的に正しい「支え」の状態になることはないというのがここで述べられています。
ではなぜイタリア流派が優れている話を引き合いに出したのかと考えられるかもしれませんが、これについては「声の支え」や「支え」といった概念で実際に発声器官を上手く使える「場合」があるということを述べてくれている部分であると考えられます。
なぜ「支え」という概念が発声指導の現場で使われるのか、その理由が、良いイタリア流派が「それで上手くいっている」という事実がここのフースラーの記述から見えてきます。
今回はやや中途半端に終わったように見えますが、ここでフースラーが言いたかったのは今回の三行まとめの内容と考えて問題ないと捉えています。
再度述べますと以下です。
・「声の支え」と言われているものは、実際のところ「のどの支え」である。
・呼気による「空気の柱」でのどを支えようとした場合の声は、生理学的に正しい発声をした時の声とは異なる。
・のどと呼吸器官の協力が必要な理由は、協力ができていなければ呼気圧迫などでその穴を埋めようとしてしまうからである。
今回のブログの後半、「アッポジアーレ・ラ・ヴォーチェ」の記述は、実際にイタリア流派で行われていた「支え」は生理学的に正しかった優れた概念であったことが述べられていますが、これは生理学的に正しい概念の「支え」が優れているのだということをフースラーはここで述べたかったのではないかと、つまり前半部分の裏付けとも言える部分と考えています。
さて、次回は「では生理学的に正しいのどと呼吸器官の連絡、協力が行われた時はどうなるの?」「誤った「支え」のやり方をおこなうとどうなるの?」と言った内容が展開されていきますので、更新をお待ちください。
よろしくお願いいたします。