【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part24【「第8章 アンザッツ」p89_1行〜p90_14行】
本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第8章 アンザッツ(p89_1〜)に入っていきます。
第8章 アンザッツ(p89_1〜p97_13)
今回の三行まとめはこちらです。
・内外喉頭筋を運動させる原因は2つあり、ひとつは「呼吸器官の衝動」、もうひとつは「想像力」。
・歌唱においてはこの二つの原因が一緒に働かなければならない。
・体の部位の振動は発声器官が働いた結果現れているものであり、声の音色を作る原因ではない。
【前提】英:Placing 独:Ansatz 日:アンザッツという訳について。
まずはこの章題について少しお話しします。
こちらの見出しに書いたように、
原著英語版では「Placing」
原著ドイツ語版では「Ansatz」
邦訳版では「アンザッツ」となっています。
「placing」は置くこと、配置すること、位置を決定すること
「Ansatz」は発端、兆し、手がかり、歌唱法、音の出し方
といった意味であることが解説版でも書かれており、実際調べるとこういった意味がある言葉であることがわかります。
ここで気になる点が2つあります。
①英語版とドイツ語版で言葉の意味が全く異なるという点。
②章題以降はこれらの言葉が邦訳で「声の当て方」という言葉に訳されている点。
まず①について、
ドイツ語版の「Ansatz」は声楽用語として使われており、「歌唱法、音調の出し方」という意味があります。
英語の声楽用語としては「Placing」ではなく「Placement」という言葉があり、意味は「声を位置させること」といった意味です。
解説版によると「Placement」はベル・カントの頃から使われており、当時の意味は『歌声を作り出す原因となる喉頭、及びその周辺の操作感覚を示すもの』だったのに対し、時代を経るにつれて現代では『振動感覚を手がかりとして、或る特定の部分に歌声を感じようとする技法』というものに変化していったと述べられています。
この2つには違いがあり、前者が『歌声を作る原因に意識を向けている』のに対して、後者は『歌声が出来上がった結果に意識を向けている』という真逆の意味を持つことがわかります。
歌声の指導方法が「歌声を作る発声器官(原因)を訓練するやり方」というものから「出てきた歌声(結果)を云々する(変えようとするとも言えます)やり方」に変わり、これはすなわち「原因から結果を正しくしようとする」ことから逆に「結果から原因を正しくしようとする」やり方に変わっていったことになります。
(このように比較すると、後者のやり方は不自然と捉えることができます。)
少し話が逸れてしまいましたが、これらの情報から推察していくと、ベル・カントの時代から使われていた概念(声楽用語)、「Ansatz」の音調の出し方という概念自体が、英語の「Placement」の声を位置させるという概念と近いものであるものの、フースラーにとってはPlacementという従来から存在する声楽用語の概念で説明できるものではなかったためにPlacingという言葉が使われたのではないかと推察できます。
これがPlacingという言葉自体の意味と、Ansatzという言葉自体の意味に食い違いがあるように感じられてしまう理由、というよりはそういった言葉が用いられた理由であると考えられます。
②については、すでに上記の部分からその答えが推察できます。
Placingという言葉が原著英語版で用いられている、そしてそれはおそらく従来から存在する声楽用語のPlacementと近いものではないかと考えられる、そしてそれに相当すると考えられる日本語の声楽で用いられる表現にしていった結果、「あてる」という概念が近いと考え、「声の当て方」という表現になったのではないかと考えられます。
これに対して解説版では「位置設定」という言葉を用います。
ただしこの表現でも不十分であると著者は考えられているようです。
私の感覚としても、「位置設定」という日本語の言葉で、この訓練を100%正しく表現できているかと聞かれると100%ではないと考えますので、解説版でこれを不十分とするのも頷けます。(実際訓練を続けていくとこの訓練を行う時の感覚では「位置」という捉え方ではなくなっていく、つまり発声器官の円熟に伴って「位置」という概念で捉えなくなるのではないかと考えています。)
しかしあえて日本語にするのであればやはり「Placing」と原著英語版で書かれていることからも「位置させる」「位置設定」という言葉たちが最も近い概念となるのではないかと考えます。
ただし、私の意見としてはやはりこれらの言葉は日本語に直す際も「アンザッツ」というドイツ語のカタカナ読みとしておくことが最もフースラーの述べようとしている概念に近いのではないかと考えています。
つまり無理に日本語に直そうとしなくて良いということです。
その理由として2点
・ひとつ、「声の当て方」や「声の位置設定」という日本語に直すと日本語の言葉の枠組み自体に囚われてしまうのではないかということ。
確かに声が出た「結果」としてそういった「位置」を感じる事実はあっても、私たちが声を発していく中で意識を向けるのはその「結果」ではなく「原因」である発声器官の方であるから、「結果」である「位置」に囚われてしまうと本来目指すところである「原因」である発声器官の訓練として適したものにならないのではないかと考えているのです。
・ふたつ、原著英語版でも従来からある声楽用語ではなく「Placing」という新しい言葉が用いられていることから、この訓練の概念は単純に従来からある声楽用語で100%表現できるものではないのではないかということ。
こういった理由から私は「声の当て方」と表現されるものは「アンザッツ」という未知の概念であるとして読んでいくのが最も理解しやすく、最も誤解がないと考えています。
さて内容に入る前に訳出についての記述が長くなってしまいましたが、こういった訳の問題があることを念頭において読み進めていきましょう。
前段(p89_1〜22)
『歌手がその喉頭、すなわち喉頭の内筋と外筋を運動に導くための動因には、根本的に異なった二つのものがある』
『ひとつは呼吸器官から出る衝動であり、他はその歌手の想像力だけである。』
『その想像力とはいわゆる「音感覚」のことであって、それによって発声器官を刺激し、制御するのである。』
この導入は理解しにくい文かもしれません。
簡単に変換するとこうです。
『喉頭内筋や喉頭外筋を運動させる原因は2つあり、ひとつは「呼吸器官の衝動」、もうひとつは「想像力」。』
『想像力とは「音感覚」と呼ばれるもののことであって、それによって発声器官を刺激、制御する。』
完全な歌唱、或る意味理想的な歌唱とも言えるであろう「歌唱」においてはこの二つの原因が一緒に働かなければならないが、歌手個人個人も、発声訓練教師の流派においても、どちらか一方へ偏っているのだとフースラーは述べます。
前者の「呼吸器官の衝動」を原因として歌うというのはより原始的なタイプで、赤ちゃんの心理状態とそんなに遠くなく、叫び声に近いものである一方、
後者の「音感覚」を原因として歌うというのはより精神的なタイプで、想像力から強い刺激を受けて、声楽的な本質を生き生きと表現しながら歌おうとすると説明されます。
前者については非常にわかりやすいですが、後者の方は少しわかりにくいです。
これについてはこれまでの記述からの推察、あるいは考察とも言える内容ですが、
おそらく発声器官の状態の想像や、音色の想像という意味の「想像力」であると考えられます。
「聞き分ける」という概念もこれに近く、音色から発声器官がさも見えているかのように正しく想像することができるか、これが重要です。
自分の頭の中で歌うことができないとリズムや音が狂う、上手に歌える人はみな頭の中で音楽を鳴らして自分の歌を鳴らすことができるというのはよく言われることですが、或る意味これと同じ話で、鳴らしたい音を鮮明に想像できるか、その音を鳴らしている時の発声器官を鮮明に想像できるか、そういった意味の「想像力」であると考えることが最も文脈的に適していると考えられます。
そう捉えると、「こういう人が、本当の歌手なのであって、われわれはそのさい彼がやっている不思議なやり方についてただちにもっと正確な知識を獲得したいと思っているわけなのである。」というフースラーの記述にも納得がいきます。
自分の体の中、自分の目に見えない自分の発声器官を正しく想像できる、そしてそれをもって想像した通りの声が出せるというのは最も望ましい状態であり、誰でも歌手はそういった能力を欲し、発声訓練教師はそういった能力について正確な知識を獲得したいと考えるわけです。
「声の当て方」(【前提】より、「アンザッツ」)(p89_23〜p90_14)
今回冒頭の【前提】で述べた通り、声の当て方、それすなわちアンザッツです。
『歌手は、頭頂部・前頭部・鼻根部・上顎部・歯列部などに振動を感じ、それを「声を当てる」といったり、声に「置き所」をあたえるなどという。』
まず、「振動を感じ」は意訳であり、原著英語版だと”The singer generates vibrations up….”となっており、直訳すると「振動を生み出す」となっています。
発声器官によって声が作られた結果、それらの部位に振動が生み出される……何度も述べるようですがこれは「結果」です。
振動を感じる、振動を生み出す。
この二つには大きな違いがあります。
発声器官、体を操作することで声を作り出し、その結果として様々な部位に振動を生み出す……原著の表現の厳密さにあえて逆らうと、「生み出される」と受動にするのが最も日本語としては自然と考えます。
振動を感じる、だと自分で体を操作した結果である、ということが少し薄くなる印象を感じるため、これは「生み出す」あるいは「生み出される」という表現の方が適していると考えます。
そして、「声を当てる」についても先ほど述べた通り、「声を位置設定する」、あるいは「声を位置させる」、です。
「位置させる」と表現していますが、実際の物理学を考えると振動をその場に置くというのは不可能です。
音や振動は空気や物体に起こる物理現象で、例えばペンをその場に置くのとは訳が違います。
しかし「位置させる」ということによって生じる音響効果は歌手自身も聴く人もだれでも感じ取ることができると述べられますが、ここは注意して読んでいきます。
『「位置させる」ことによって生じる音響効果』、この日本語だと、
『「位置」によって音響効果が起こっている』という文にも読むことができてしまいます。
わかりやすく例を出すと、「頭頂部に位置させることによって音響効果が生じる」というと、「頭頂部の振動が音響効果を起こしている」と読めてしまうということです。
つまり聞き手に届く声、空気の振動…この空気の振動を生み出している要素の一つとして頭頂部の振動があると読めてしまいます。
私はこの読み方は誤りであると考えます。
なぜ誤りなのかは間髪入れず続く次の文からわかります。
『声の音響的研究では、この振動が声の響きを作り出しているということは否定されており、確かにそれは当然である。』
つまりは、「声の響き」、聞き手に届いているであろう空気の振動の要素として、こういった部位が振動を作り出しているということは否定されていて、それは当然であると言われているのです。
さらに続く文で『けれどもなお、そういう音響現象があることには変わりはない。』と述べられますが、これは声という空気の振動が起こった「結果として」その部位に振動が生み出されるということ自体は、そういった音響現象であることには変わりないということと捉えています。
この様々な部位に生み出される振動は、発声器官の特定の働き方の現れであって、その働き方を決定できるもの、わかりやすく言えば、「この部位に振動が生み出されている、ということは発声器官はこういった働き方をしているのだなという決定(判断)ができる」ということになります。
これは「聞き分ける」能力で、自分の体の中が見えているような、そういった概念とつながる一つであると考えられます。
『「アンザッツ」は決して作り事ではない』というフースラーの文は、ここまで第8章で述べてきたことのまとめとも言える内容です。
・振動は感じているだけでなく、実際に生み出されている
・様々な部位に振動が生み出されるのは、発声器官(内外喉頭筋)の働き方の現れ
発声器官の働き方、その結果として振動が生み出される、こう捉えると「アンザッツ」という「声を位置させる」「音調の出し方」という概念は、人間の中にある感覚的な話(すなわち作り事)ではなくて、実際に起こっていること(事実)であるということを強調したかったのだと考えられます。
この過程で「聞き分ける」能力が必要とされ、必要になることで訓練され、聞くことで自分の体の状態(すなわち発声器官の使い方)を理解していく必要があります。
それが「聴覚による科学」「耳を通しての生理学」です。
「客観的な形」、すなわち実際の筋肉の物理的な状態を生きている人間、例えば自分の体で観察できなくとも、「聞き分ける」能力で自分の体を理解し、それに従って行動できるのだと述べられます。
実際生きている自分の発声器官がどう働いているのか、実際に自分の目で観察することは完全に不可能です。
一方、働き方への理解と「聞き分ける」能力、生理学を理解していくことによって自分の体の状態を自分で理解することができる、それがフースラーの理想とする姿であることがこれらの記述から推察できます。
今回はここまで、第8章のアンザッツについて理解していく上で重要な考え方や、「アンザッツ」という言葉、その周囲の概念の訳出についてのお話でした。
次回、種々のアンザッツの説明に入っていきます。
次回の更新をお待ちください。