【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ③ 〔序論〕 –詩情(ポエジー)と詩作品(ポエマ)–
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今回は、前回の記事で説明しきれなかった、「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」の区別について扱う。
【弓と竪琴】における、パスの主張を理解するためには、この「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」という概念の区別と整理が必要不可欠となる。
なぜか?
それは、前回の記事で示した問いのひとつである、①詩という表現形式の〈独自性〉についての問いに答えるためである。
より正確言うと、(「表現形式」という言葉は「芸術表現」と「言語表現」の二つを指すのだったが、なかでも)①-1)「他の芸術表現活動に対する詩の独自性」について考えるために、「詩作品」と「詩情」の区別は欠かせないのだ。
一体どういうことなのか。
これに関しては、パスの言葉よりも、吉本隆明の言葉から引いた方が分かりやすい。
たしかに、吉本の言うように、詩作品以外の芸術作品や芸術分野、芸術批評において、「詩」「ポエジー」という言葉が使われる現象は、よくある。
他の芸術表現活動から、〈詩の独自性を探ってみよう〉としている時に、あらゆる芸術分野全域において、「詩」・「詩情」・「ポエジー」…といった表現が用いられているのは、非常に厄介なことであり、それらの言葉を整理しないまま議論していけば、のちのち混乱を招きかねない。
それゆえ、〈あらゆる芸術領域における詩の独自性とは何なのか?〉という議論のためには、まず、この「詩作品(ポエマ)」と「詩情(ポエジー)」という概念を明確に分けて考える必要があるのだ。
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では、実際この「詩作品」と「詩情」とは、何によって異なっている概念なのか?
それは恐らく、根本的には、「詩作品(ポエマ)」と「詩情(ポエジー)」、互いの発生条件、依存対象の幅や質の違いによってである。
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第一に、「詩作品(ポエマ)」とは、〈具体的な作品〉である。
「詩作品」が発生するためには、最低限「言語という素材」に依存することになる。もっと言うと、「詩作品(ポエマ)」は「言語」から逃れることはできない。
(コンクリート・ポエトリーにおいて用いられる「図形としての文字」も、結局は言語に違いない。)
もっと言えば、言語が連なり作品になっていく過程、つまり〈創作過程〉にも依存することになる。なにかによって「作られなければ」、やはり「詩作品」は存在しないのだ。(※1)
詩作品はさらに、「ポエジー(詩情)」にも依存している。
これは要するに、日本語で言えば、七五調で書かれたものすべてが、詩というわけではない。ということである。(※2)
「ポエジー」を帯びていなければ詩作品ではない、ということは、「詩作品」は、《「詩作品」として存在するために》、必ず「ポエジー」に依存するという宿命を背負っている。
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一方、「ポエジー(詩情)」は〈詩的なるものの情感〉である。
区切りの悪い引用になってしまったが、大事な部分だ。
ここから読み取れるのは、そもそも〈情感〉であるところの「ポエジー」は、(何らかの「具体的な作品」としての)『形をもっていない場合もある』ということである。
その発生は、「〈情感〉を生じさせるための何か」に依存してはいるのだろうが、実際、その対象は必ずしも「言語」に限定されてはいない。
「詩作品(ポエマ)」が「言語」と「詩情(ポエジー)」から逃れられないのに対し、「詩情」は「言語によってつくられた詩作品(ポエマ)」だけには依存しない。
風景や事実が、しばしばそれだけで「ポエジー」であり得る…ということは、(「詩作品」は発生条件として〈創作過程〉にも依存していたのに対し、)「ポエジー(詩情)」にとって〈創作過程〉は発生条件ではないことになる。
つまり、「ポエジー」にとっては「作者(詩人)」すら、絶対必要条件ではない。
パスはこうも言っている。
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では、「ポエジー」の側からしてみれば、最早「詩人」や「詩作品」は〈あってもなくても良いような存在〉でしかないのだろうか。
「詩作品」は〈「ポエジー」から与えられているだけ〉で、「ポエジー」に対しては何も与えていないのだろうか。
そうではない、とパスは言う。
「ポエジー」は、発生ための最低必要条件においては、詩作品に依存していないが、それが「まとまりをもった形で」つまり、「より完全な形」で人間に感じられるためには、作品という形を持っている必要があるだろう…ということ。
ここでは、詩情(ポエジー)が、詩人の手によって触れられ、詩作品として結実し、その後読者に〈向かっていく〉様が語られている。
「ポエジー」を詩作品に変性することで、それは、〈より多くの人に感じとられるために向かっていく性質を獲得する〉のだ。
次の引用も、そのことについて言っている。
詩作品はポエジーを「保存する入れ物」になり、それを比喩的に言えば「発酵」させたり「培養」させたりすることもできる。
そして、それを詩作品の外(作品の鑑賞者)に向けて発射する。
詩作品とは、それ自体で完結しきった無機的で静的なものではなく、〈つくられる〉、〈よまれる〉という行為の中において、「ポエジー」を、〈作品以前よりも、人間にとってより豊かなもの・感じやすいもの〉にしていく。
当初は詩人にしか感じとられていなかった「ポエジー」だったとしても、それが詩人の手を通じて詩作品となることによって、そこに包含された「ポエジー」は、読者に向かっていく。
そして読者は、その作品からでなければ受け取れなかったであろう「ポエジー」を、引きだすことができる…かもしれないという〈可能性〉を有する。
(これがあくまで〈可能性〉であることも大事だと思う)
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つまり、「詩作品」と(その創作に大きく携わることになる)詩人は、「詩情(ポエジー)」をより刺激し、より完全な形で発現させて、それを更なる外側(たとえば読者)にむけて発射していく。
その機能を有している限りにおいて、「詩作品」も「詩人」も、ポエジーに対して、決して無能ではない、とパスは言っているのである。
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互いの依存関係の質を整理しておこう。
「詩作品」は、それが〈詩作品になるため〉に「詩情」に依存する。(※3)
「詩情」は、それが〈より完全なかたちで発現されるため〉に「作品」に依存する。(※4)
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今回はここまで。
次回は実際に、この「詩情(ポエジー)」という概念を使用しながら、以下の問いについて深めていく。
すなわち、
「他の芸術表現活動に対する〈詩の独自性〉の模索」
及び
「他の言語表現活動に対する〈詩の独自性〉の模索」
である。
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(※1)
ここで、「詩人によって作られなければ」ではなく「なにかによって作られなければ」と書いたのは意図的ではある。それは、詩作において関わってくる〈他者性〉(詩人が必ずしも詩作そのものをコントロール出来ているわけではないこと)を意識しての記述だったが、現時点での大まかな理解としては、「詩人によって」と思ってもらって構わない。
なお、言うまでもないだろうが、この「詩人」とは、職業的な意味に限定されたものではない。
(※2)
例えば短歌や俳句などの定型詩は「ポエジー」を帯びていなければ、(たとえ基準となる音節数には則っていたとしても)詩ではない。
むしろ音節数は定型から外れている山頭火の句は、その「詩情」からして〈俳句〉である。
それに対して五七五で書かれた、交通マナーの標語や、政治的スローガンなどは、「詩情」から考えた時に〈俳句〉とは言えない場合が殆どであろう。
パスは次のように言っている。
(※3)
ここで示したのは、あくまで「詩作品」と「詩情」の二者に絞った、依存関係の質である。
本文でも言ったように、詩作品の依存対象には、詩情(ポエジー)の他にも、「言語」、「創作過程」などがある。
本論313頁で、パスもこのように言っている。
(上記引用部一文目は、〈ポエジーとは異質の何かに「も」支えられていなければならない。〉ということ。)
(※4)
ここで、注意しなくてはいけないのは、「詩情(ポエジー)」の依存対象であるところの「作品」とは、必ずしも「詩作品」だけではないということである。
次回の記事で、その話については詳しく扱われることになるだろう。