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『=創造の小径= マヤの三つの太陽』(1971) ミゲル・アンヘル・アストゥリアス

“あたり一面が骨肉の争いを演じていた。椅子は椅子に突き当たった。ナイフはナイフに、フォークはフォークに、スプーンはスプーンに、ソース入れはソース入れに、皿は皿に、盃は盃に、コップはコップに、(中略)音もなく……それがみんな音もなく、音もなく、音もなく……死にものぐるいの戦いだ……”

10頁

こういう「魔術的リアリズム」もあるのかあ…と。

ガブリエル・ガルシア=マルケスとも、アレッホ・カルペンティエルとも違う、よりシュルレアリスムとの親和性が取れたような文体。それは同作家の『グアテマラ伝説集』を読んだ時にも感じたことだったが…。

「魔術的リアリズム」というジャンルで、多様な作家をひとまとめにしてしまうことの危うさ。

そして、アストゥリアスの代表的な長篇『大統領閣下』も含めて、「この作家の作品にはこういう特徴がある」と、一概に論じてしまうことの危うさも改めて認識した。

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「一概に論じてしまうことの危うさ」を認識した上で、それでも僕がなんとなく、一貫してこの作家から受ける印象がある。

それは、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスは、きっと他の中南米の小説家と比べても「原語で読むことに価値がある」作家なんだろうな…ということ。

オクタビオ・パスや、ガブリエラ・ミストラルといった「詩人」の〈訳詩〉をよむ時に似たもどかしさかも知れない。

よく、詩は小説以上に翻訳が難しいと言われたりする。
それは「意味や筋書きの彼岸(向こう側)」にあるものを他言語に置き換えることの困難さ、と捉え直しても良いだろう。

そういう意味では、この『マヤの三つの太陽』という作品は「小説」というより「詩」なのかも知れない。

日本語で読んでいる自分に、どこか不甲斐なさを感じる。もちろん、訳が素晴らしいことは前提として。(ところどころ音の面白味を、カタカナの振仮名付きで表現してくれたりと、翻訳者の配慮と熱意が伝わってくる)

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自分がスペイン語を理解出来ないことに苛立ちつつも、日本語でもところどころ、印象に残る語り口はあったので引用する。

“第一の太陽は、五千歳という青年であったが–たった五世紀ではないかといわれるとその火の光線全体で笑ったものだ–他の惑星を認めるやいなや唾が口に上ってくるのを感じた。(中略)彗星はたべるにはもってこいで、ぽってりと肥って、うぬぼれやでぴちぴちしている。”

40頁

“頭蓋骨は神々の手中にある。その小さな頭蓋骨は。神々はそれを蒔いた。それを蒔いた、《道化師》がそうしてくれと頼んだ通りに。神々の弱いところだ、このような人間事に加担するという弱さは。”

111頁

“動いている。動いている。そこらじゅうが不動で、かつ動いている。大地と大気が。(中略)客間では、そこらじゅうのものが不動で、かつ動いている、やっと聞きとれるほどのグランド・ピアノの区切るようなメロディのリズムにあわせて揺れ動く大地の乱舞に、逆上した絨毯の波の上で……ファ・ファ・ファ・ファ……ファ・ファ・ファ・ファ……ソファがすっ飛んでゆく途中で……ファファファファ…誰かに運ばれたわけではなく……ファファファファ……自分で飛んでいったのだ……自分で飛んでいったのだ……”

122-124頁

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冒頭でも述べたように、アストゥリアスは、他の中南米の小説家と比べても、かなりシュルレアリスムの影響力を引き継いだまま、自身の「魔術的リアリズム」的な文体を構築していると思う。

カルペンティエルが明確にシュルレアリストたちと訣別したのに対して、アストゥリアスは代表作のひとつ『グアテマラ伝説集』をシュルレアリストの仲間たちから絶賛されたりもしている。

末尾で、訳者の岸本静江はこのように解説している。

“その文体は、シュルレアリスム、あるいはモダニズムのそれだと言われる。しかし、あえて言うならば、マヤ神話の、またそれを受けつぐ中南米インディオの、神々と霊を交換し、文明人から見れば呪術的、幻術的としか言いようのない世界が、日常生活の隅々まで遍在している宇宙を描くとしたら、それを写実的に描こうとすればする程、シュルレアリストにならざるを得なかったのではないだろうか”

158頁

なるほどなあ…と。
実際アストゥリアスも、自身の文体はフランスのシュルレアリストたちよりも、マヤ族キチェ族の原始的な物語に影響を受けたものだ、と語っているらしい。

その主張をそのまま真に受けるかは別として、僕は重要なのはむしろ、シュルレアリスムとの違いよりも、他の「魔術的リアリズム」作家たちとの相違点であると思う。

他のガルシア=マルケスやカルペンティエルの作品群と比べても、《「ストーリー」を追う必要がある》という大前提から外れているのが、この『マヤの三つの太陽』(や、『グアテマラ伝説集』)の特徴ではないだろうか。

この作品くらいになると、ストーリーはもうどうでも良いのだ。話の筋を追えているのか、追えていないのか…と考えることすら馬鹿馬鹿しくなってくる。
それでもなお、面白い。そんなことってあるのか?って感じだけど、あるのだ。

ここまで純粋に神話や民間伝承を取り込んだ創作としては、むしろ日本の民俗学者、柳田國男による『遠野物語』と近い側面もあるかも知れない…と考えたりもした。

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とにかく、あまり「真面目」によまないこと。

大事なのは、空気感。神話的な雰囲気。
幻想よりも幻術に近いような、その語りに身を任せて、意味を掴もうとはせず、ただただページを繰る。

文章、句は〈読む〉以前に〈眺める〉。
「理解しないこと」にそのまま価値がある。

もちろん、「解釈」をするのは個々の自由だと思うが。

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出来ることなら、「シュルレアリスム」という言葉にも「魔術的リアリズム」という言葉にも引っ張られないまま、アストゥリアスの作品群を楽しみたいものだ。

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