【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ④
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前々回の記事で、【弓と竪琴】における問いを、①~③として示した。
① 詩という表現形式の〈独自性〉についての問い
② あらゆる詩的発話における〈普遍性・本質〉に対する問い
③ 詩が「詩として体験される」際の、〈独特の作用機序〉に対する問い
膨大な議論になるので当分、これからの記事では①の問いを中心に扱うこととする。
(②③の問いに関しては、直接は扱わないが、間接的には関係してくるかもしれない。)
今回の記事では、特に〔序論〕を中心に読みながら記述していく。
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前回までに、①の問いにおける「表現形式」という言葉が、「芸術表現」と「言語表現」の両方を指すだろうことを確認した。
それゆえ、「詩という表現形式の〈独自性〉」について探るためには、以下のような二方向的なアプローチが必要になるのだった。すなわち、
①-1)「他の芸術表現活動に対する詩の独自性の模索」
①-2)「他の言語表現活動に対する詩の独自性の模索」
である。
①-2)に関しては、本論でも膨大なページ数を割いて述べられていくことになるため、今回の記事だけでは扱いきれない。しかし、導入程度には触れることができると思う。
対して、①-1)に関しては、主に〔序論〕でしか登場しない議論であるため、今回の記事で扱いきれるだろう
…と思っていたのだが、実はこの記事を書いているうちに、「他の芸術に対する詩の独自性」に関して、パスが(すくなくとも序論で)示した論理は、破綻しているのではないか…?と思うようになった。
(今回の記事を書きはじめるまで気付きもしなかったのだが。)
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パスが〔序論〕で示した考え方に基づいて読み進めていくと、最終的に、詩をそれ以外の芸術との相関関係のなかで「独立」させることには、失敗してしまうように思える。(※1)
ただ、それに関しては次回以降の記事で、いずれ詳しく触れることにして、まず今回の記事では、パスが「他芸術と詩との関係(差異や類似性)」についてどのように考えているのか、その主張そのものについて深めていこう。
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先ほど、パスの論理は、詩を他の芸術から独立させることに「失敗してしまうように思える」、と書いたが、実はその言い方は正確でない。
なんと、パスはそもそも、音楽や絵画など、「様々ある芸術活動に対して、〈詩の独自性〉を主張すること自体」に、あまり意欲的でないように見える。(※2)
それどころかパスは、他芸術を詩に引き寄せて、「それらも詩だ」と言うのである。
パスは、詩と他芸術との相違点よりは、むしろ一致点に着目する。
またここで、詩を他の言語活動に寄せるのではなく、他芸術の側を「それらも詩だ」と言っているのも、注目すべきポイントである。
つまり、パスはここでの議論において、「言語」というもの自体を非常に幅広くとっているのである。
(繰り返しになってしまうが、この点については、パスの主張の粗が目立つところだ。しかし、詳細な議論の検討は次回の記事で行うことにして、今は、たとえ論理が通っていないと感じられる部分があったとしても、あくまでパスの主張を追ってゆくことに専念しよう。)
28-29頁において、パスは、アステカ人が認識していたであろう色の指示性や、音楽用語が音楽以外の場面でも用いられることなどについて説明する。
そしてそれらを根拠に、色や音もまた、発話と同じく、いやむしろそれ以上に大きな喚起力をもつ「言語であろう」と言いたがっているのだ。
しかし、やはりこれはあまり論理的とは言えないだろう。(※3)
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では、そもそも、どうしてパスは(論理的な無理をしてまで)、〈「詩」と「他芸術」との統一性〉を強く主張しようとするのか?
そこには、ある興味深いテーゼが関わっているように思える。
これには、ある意味なるほどな…と思わされる。
パスがここで着目しているのは、その作品を形成する〈素材そのもの〉というよりは、その作品が《発している「詩情(ポエジー)」の〈質〉》であろう。
たとえば「和風」「洋風」という概念で、本来なら一緒くたにされるのは憚られるような多様な営み(料理、文学、音楽、衣装、美術等)が括られる場合がある。
料理も音楽も一口に「和風」と語ってしまうのは、ナンセンスな側面があるにも関わらず、「和風」「洋風」という概念は、(少なくとも「なんとなく」は)了解可能な概念としてある。
もしかすると、それらの雰囲気を区別しているのは、〈発せられたポエジーの質の違い〉とでも言っていいかもしれない。
では、その〈ポエジーの質〉とは、何に依存しているのか?
それに対する答えは、〔序論〕からだけでは扱いきれない。
しかし、少なくともパスはここで、〈ポエジーの質の違い〉が、単に音や色、そして(厳密な意味での)言語といった、各芸術作品が必要とする「〈素材そのものの違い〉だけで生じた差異ではない」のだと主張している。
色や音も、人がなんらかの手を加えて作品になった時点で、なんらかの「意味」を発するようになる。そういう意味では、それらもまた言葉であろう、というわけだ。
そうなった時に、例えば「シュルレアリスムの詩」は、おなじく〈素材としてのことば〉に依存した「象徴詩」よりは、素材としては遠いが、〈ポエジーの質〉が近い「シュルレアリスムの絵画」に近い作品になる。
「作品が発する言語性」が、素材としての同質性と差異性を逆転させるという、面白い発想ではある。
それゆえパスは、それらの作品すべてを詩というのである。
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ところで、ややこしいのだが、パスはそれら「すべてが詩である」と言ったあとに、結局、詩作品も音楽も彫刻も建築も含めて「芸術作品」という概念で括っている。
やはり「すべて詩である」と言うだけでは詩を扱えないことにパス自身が気付いているように思えてしまう。(※4)
しかし、文句を言っても始まらない。とにかく、パスはそれらを「芸術作品」として改めて括りなおした…ということである。
ただ、この辺りからようやく、少しは分かりやすい議論になるかもしれない。
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パスはここから、「芸術作品」という概念の対立軸に「道具」という概念を置く。
そして「詩」を芸術作品の側に、「散文」を道具の側に置いて議論をはじめる。
つまり、①-2)「他の言語表現活動に対する詩の独自性の模索」が、ここから開始されるのだ。
しかし、今回の記事は、ここまででもかなりの文量になってしまった。
ここから先の議論は次回の記事で扱うことにする。
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ここからは本文中の(※)マークを扱う、注釈部である。
次回の記事では「芸術作品と道具」を主題とする。そのため、パスが「色も音も言語である」と主張したことに対する批判的検討は、まだできそうにない。
しかし今回の注釈は、期せずして、その批判的検討に向けたイントロダクションのような形をとっているようにも思う。
もしよかったら、こちらも面倒くさがらずに読んでいただけたら幸いだが、
いずれにしても、どこかしらのタイミングで詳しく触れることになるはずなので、読み疲れた方は無理しなくても良い。
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(※1)
端的に言うならば、パスは言語が有している「記号性」と、色彩・音・形などが有している「象徴性」を混同しているように思われる。(あるいは「指示性」と「意味性」を混同しているように思われる。)
次回以降の記事で、いずれ詳しく論じたい。
(※2)
【弓と竪琴】においては、
と記されていた問いが、のちの詩論【泥の子供たち】において、
と、言い換えられているのも興味深い。
【弓と竪琴】における、「他のいかなる表現形成」という言葉は、〈言語表現〉のニュアンスよりも、〈芸術表現〉のニュアンスが強いようにかんじる。
しかし【泥の子供たち】における、「他のいかなる発話」となると、〈芸術表現〉のニュアンスよりも、より〈言語表現〉が重視されているニュアンスがある。
(※3)
パスは、28頁で、アステカ人にとっての「黒色」を例に挙げている。そして色が様々な事物や抽象的なものごとを“指示している”と言っているのだが、これはどちらかと言うと〈指示〉ではなく、「〈象徴〉している」と言った方が正確であろう。
“音や色は発話よりも大きな喚起力を持っている。”と、パス自身が語っている。
つまり、それら音や色といった素材は結局、それらが発話的言語よりも「指示対象を限定できない(しにくい)」ことを意味しているだろう。
そこにこそ、われわれが普段「言語」と呼んでいる、まさに「詩作品の素材としての言語」の独自性があるように思われる。
(※4)
そもそも「詩作品」と「詩情」の区別をなぜ行なう必要があったのか、と言えば、このような混乱を避けるためだったはずだろう。
しかし結局、全般的な芸術領域の中で言われている「詩的なるもの」や「ポエジー(詩情)」と、「詩作品そのもの」を、パスはここで明確に整理できていない。だから必要以上にややこしくなる。