『二人のエレーナ』(1964) カルロス・フエンテス
今日の投稿はさらっと。
集英社文庫『ラテンアメリカ五人集』の中に収められた短篇、カルロス・フエンテスの『二人のエレーナ』を読んだ。(フエンテスはメキシコの作家)
不思議な感覚。
もちろん、ある程度ストーリーは追えるのだけど、大事なのは「ストーリーとしての」ストーリーではないような気がする。
捉えるべきところを捉えることは出来たのか、それともまだ捉えきれていないのか…。
それすら分からなくなってしまうような、捉えどころのなさ。
最初は語り手の〈ぼく(ビクトル)〉に寄り添いながら、一緒に戸惑っていたはずが、数ページすすむだけで、その〈ぼく〉にすらおいていかれてしまった。
それでいて、おいていかれてしまったことに対する、なんの怒りや不快感もない。むしろその戸惑いに、どこか心地よさすらおぼえる。
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小説を書く上で、不要な説明や描写を削ぎ落とすことは、もちろん大切なことだろうと思う。
しかし、この『二人のエレーナ』では、本来「物語の筋を追う」ために必要なはずの説明まで削ぎ落とされてしまったかのようだ。
きっと、読者は問われている。
そもそも「物語を理解すること」に、意味なんてあるのか。
分かりやすい、腑に落ちる、そんな「満足のいく説明」が用意されていなければ辿り着けないような読後感に、どれほどの価値があるのか。
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ところどころの台詞や語りの中から溢れてくる、どこか突拍子もない哲学。
ここでは、登場人物がその哲学に至るまでの背景や思考回路は、描かれてはならないのだ。
このひとは、ここで、こんなことがあって、あのひとからこういわれて、こうなってしまったから、そうおもうようになった…。などと言う説明は、ほとんどが嘘っぱちの後付けに過ぎない。
いくらかの真実味を含んでいたとしても、いつも言い尽くせない上に、どこか過言でもある。
それよりも、突拍子のなさ。戸惑い続けたままの戸惑いのなかにこそ、真実、あるいは真実よりも大切な何かしらの啓示がある。
「掴むべきものが掴めない」という感覚に、誠実に浸っていたい。そんなことを考えたりした。