『私に似た女』(1943) フェリスベルト・エルナンデス
ウルグアイの作家、フェリスベルト・エルナンデスの短篇、『私に似た女』を読みました。
訳者は平井恒子。
作品は、野々山真輝帆[編], 彩流社の『ラテンアメリカ傑作短篇集〈続〉 中南米スペイン語圏の語り』(2018)に、収められています。
冒頭の引用は、この作品の書き出し。
『私に似た女』というタイトルからは想像出来ないような、不可思議で、驚異的で、でもちょっぴりユーモアも感じてしまうような文体。
設定だけを説明しようとすると、
「今は人間になっている《私》が、自分が馬だった時代を振り返って語るはなし」
…という、とんでもないことになってしまうのですが、全体を通してよめば、とても魅力的な作品です。
馬の時はこんなことが辛かった…みたいなことや、主人(飼い主?)が嫌いだった…みたいなことがつらつら語られていきます。
ただ肝心の、「何故《私》は馬だったのか」「何がきっかけで、いつ人間になったのか」という疑問は、最後まで解消されません。
何故「変身」したのかも分からず、しかもそれが「当然のこと」であるかのように語られる不気味さ…という点では、例えばフランツ・カフカの『変身』もそうかも知れません。
しかし、カフカのそれよりも、「〈救いようがないという要素〉すら無い」ために、この作品は余計、地に足がつかず、ふわふわしているような印象があります。
「人間から虫になってしまう」。
そしてそれによって、〈今まで自分のことを頼っていたはずの家族から寧ろ恨まれ、蔑ろにされてしまう〉というのは、悲惨です。悲惨な不条理です。
ただ、「馬から人間になってしまう」のは、不条理と言えば不条理なのかも知れませんが、それが〈悲惨〉なのかどうか、僕らの価値観では上手くはかることが出来ないような気がします。
人間になったあとの《私》が、どのような生活を送っているのかもまったく語られていない…ということもあって、読者は「《私》の変身」に対して、「どのような印象を持てば良いのかすら分からない宙吊り感」の中で、ひたすら語りに付き合うしか無いのです。
『私に似た女』というタイトルを象徴するような女性もこのあと登場しますが、その人もどこか捉えどころがなくて(僕の読解力不足が原因の可能性もありますが)、全体的に価値判断がしにくくなる物語だと感じました。
そして、その「読者の価値判断を鈍らせること」こそ、フェリスベルトが狙っていた「効果」なのかな、と思います。
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今回、僕は初めてこの作家の作品に触れました。
個人的に、とても好きなタイプの語りだったので、興味が沸いて調べてみたところ、面白い論文に辿りつきました。
『ラテンアメリカ研究年報 No.30』(2010)に収められた、浜田和範の『「漠としたもの」の詩学-フェリスベルト・エルナンデスにおける記憶と幻想』という論文です。
J-Stageにもあがっているので、インターネット上のPDFでも読むことが出来ます。
浜田は、フェリスベルトの作風が一概に「幻想文学」という枠に収められてしまうことに対して否定的です。「幻想」という言葉は、あまりにも広範で、作家の独自性を説明できなくなってしまうからです。
そこで浜田は、フェリスベルトの作風や創作原理について、より明確に解説するために、“漠としたもの”という概念を提示します。
それは、“AかBかという二項対立を前提とした「不確かさ」incertidumbreや「曖昧さ」ambigüedadという概念以前の、もやもやした世界観、あるいは雰囲気”のことで、それを創出することこそが、フェリスベルト文学の基層を成しているのだと、浜田は述べています。
まさに!!
僕はまだ、フェリスベルトの作品はこの『私に似た女』しか読めていませんが、それでもとても腑に落ちる解説だと思いました。
他の作品も読みたい〜!!
実はフェリスベルトは、小説家としての仕事よりもピアニストとしての仕事の方が世間では評価されていた…というような側面もあるらしく、そのあたりも興味深いなあと思いました。
死ぬ前後にようやく評価が進んで、ルルフォやコルタサル、ガルシア=マルケスにも影響を与えたのだとか。
決して明るくは無いけれど、あからさまな悲壮感でもない不思議さ。
現実感があるのに着地出来ないような感覚…。
後付けみたいになってしまいますが、どこか「音楽的」でもあるような気がしました。
特にクラシックだと、エリック・サティのような不思議さを連想させられます。ジョン・ケージ的な《前衛》ほど、あからさまに尖っている感じはしないのだけれど、「結果的には類稀」…という感じ。
少しだけダークなサイケデリック味も感じました。
いやあ、面白いな〜。どんどん他の作品も漁っていきたいと思います!!