【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ② 〔序論〕−特に40頁でたてられる問いについて–
今回は〔序論(ポエジーと詩)〕についてまとめようと思っていた。…のだが、諦めた。
〔序論〕における議論は、そこにさかれた少量の頁数からは想像できないほど膨大なので、とてもひとつの記事には書ききれないような気がする。
しかも、僕がここで書きたいのは「要約」ではない。
【弓と竪琴】についての一連の記事においては、僕は「はしょる」ことへの抵抗でありたい。
ゆっくりでも良いから、出来るだけパスが記した言葉に対して誠実さをもって歩けたら…と思っている。
ただ、だからと言って、〔序論〕の冒頭から順番に、一文一語ずつ、つっつきながら進んでいくのも違う。(と、思う。)
本書を通読してみてから改めて思うのは、この〔序論〕は、本論の〈要旨〉のようにも読めるということである。
それゆえに、少数の頁にも関わらず、めくるめく速さで複雑な議論が進んでいってしまう。
そもそも、ここで何のために詩について論じられているのかも分からないまま、胸ぐら掴まれて「どうだ!わかったか!」と言われるような感覚。
(それでも読んでいて楽しいし、興奮しちゃうから怖い)
更に問題がある。
次の引用は、もしキツかったら読まずに眺めるだけでよい。雰囲気だけ掴んでもらえたらと思う。
これが冒頭なのか…と思う人もいるかも知れない。
17p-18p辺りは最早、理路整然とした論述というよりも、これ自体「詩」に近い気がする。
これから読者を、そしてパス自身を『詩論』に引き込んでいくために、まるで〈勢いづけの儀式〉でもしているかのようだ。
(もちろん、本書の概要を掴んだあとであれば、この冒頭部分の記述も、しっかりと意味を持ったものとして感じられるようにはなるのだが…。)
そう。まさしく、これがパスの〈論述としての読みにくさ〉に繋がっていると言ってよいだろう。
【弓と竪琴】は、頁のあちこちに、非常に感動的な、詩人たちを勇気づけるような言葉が散らばっている。
しかし、それが全体として500頁にもわたってしまうと、魅力的な言葉の宝庫でありながら、最終的に「あれ?結局なにが言いたかったんだっけ?」となってしまう。
筆力のある、乗りに乗ったスリリングな記述に引き込まれ、読み通したとしても「この本から自分は何を得たのか」と再言語化しようとすると、それが非常に難しいことに気付かされる。
僕は今回、やはりなんとかそれを「再言語化」したい。
「詩を愛する勇気をもらいました!」という自己啓発だけにはおさまらない『詩学』が、この本には確かにあるはずなのだ。
そのために、様々な超速の議論や、説明のない断言が詰め込まれた《〔序論〕の迷路》を、敢えて避けて通ってみようと思う。
(ここから先の記述を見ていくなかで、その時々に「振り返るための作業」として、〔序論〕へと引き返すことはあるはず。)
とは言え、その〔序論〕の最終部で提示される問いについては、ここで押さえておく必要があるだろう。
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〔序論〕の最終部(40p)において、オクタビオ・パスは大きく三つの問いを提示している。
(ここからは、それを僕なりの言葉で言い直し、以下①〜③として順番に説明させてもらう。)
① 詩という表現形式の〈独自性〉についての問い
② あらゆる詩的発話における〈普遍性・本質〉に対する問い
③ 詩が「詩として体験される」際の、〈独特の作用機序〉に対する問い
詳しくみていこう。
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① 詩という表現形式の〈独自性〉についての問い
このパスの言葉は、逆に言えば、「詩は他の表現に代替されてしまうようなものなのか?」となる。
音楽、絵画、造形美術、舞踊…それら他の芸術領域における「感動体験」や「ポエジー」は、詩作品から得られる体験の質と、本質的に異なるものなのだろうか。
この問いにうまく答えられなければ、詩人は「なぜ○○ではなく詩作品を創造するのか」という問いにも答えられなくなる。
そうなれば、詩人たちは「楽器が弾けないから、代わりに詩をつくっています」「身体を動かすことは苦手なので、仕方なく詩で我慢しています」と言うほかなくなってしまうのではないか。
さらに、ここでパスが敢えて「他のいかなる芸術形式」ではなく、「他のいかなる表現形式」と言っているのも気になる。
どういうことか。
僕らは日常生活においても、会話や思考において言葉を用いている。(ちょっと恥ずかしいが、僕自身はよくひとりごとを言ってしまったりする。)
そのような言語運用は「芸術」とは呼べないかも知れないが、ある意味では立派な「表現である」と言うことができる。
つまり、ここで生じてくるのは、会話や議論などにおいて用いられる言語は、〈いわゆる「詩語」〉と異なるものなのか?という問いである。
美しい景色をみて「きれいだね」という時、その呟きは詩作品ではないが、呟きとしての言語表現のなかで「ポエジー」を帯びる可能性がある。
では、その「呟きとしてのポエジー」は、詩作品が発現する「ポエジー」とどのように異なるのか、また同じなのか。
つまり、パスは①の問において
1)「他の芸術表現活動に対する詩の独自性」と同時に、
2)「他の言語表現活動に対する詩の独自性」についても探ろうとしているのだ。(※1)
(ちなみに、この二方向的な問いの設置面として、「芸術表現活動でもありながら言語表現活動でもあるところの《小説》が現れてくる。《小説》と《詩》は違うのであろうか?)
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② あらゆる詩的発話における〈普遍性・本質〉に対する問い
抒情詩・叙景詩・叙事詩・劇詩、文語詩・口語詩、定型詩・自由律詩・散文詩・視覚詩、ロマン主義、象徴主義、シュルレアリスム、ダダイズム…。
一言で「詩」といっても、その内実やスタイルは実に多様である。
もし詩という〈形式自体〉に独自性があったとして、こんどは自らが抱えている、その多様なスタイルをひとくくりに「詩」と呼ぶことの困難さに見舞われる。
すべての「詩」と呼ばれている作品たちが共通に放っているものはなんなのか。
もっと言うと、「詩」と「詩ではないもの」を区別することはできるのか。
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③ 詩が「詩として体験される」際の、〈独特の作用機序〉に対する問い
詩以外の場面で体験される言葉と、詩の場面で体験される言葉とに違った性質もあるのだとして、では一体どのように異なるのか。なぜ異なるのか。違った性質もあれば、同様の性質もあるのか。
そしてなぜ人は詩に感動できるのか。
もっと言えば、なぜある人はこの詩に感動しないのに、この人はその詩に感動することができたのか。
前回の記事で引用した〔初版への序〕にもあるように、“ポエジーにおける普遍的感応は可能であろうか?”(p9)
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①〜③で問われたこれらの問いは、結局「〈詩でなければできないこと〉は何なのか?」というものに集約できる。
ある種、とても切実な問いであり、前回引用した〔初版への序〕(p7)におけるパスの逡巡も、これを表していたと言えるだろう。
この【弓と竪琴】は、これら〈詩人たちにとっての途方も無い問い〉に答えようとする『詩論』なのである。
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今回の記事はここまでとする。
だが、実は〔序論〕における主要なテーマでもある、「ポエジー」と「詩(ポエマ)」の区別については、まだ話せていない。
ただやはり、まずは、問いそのものを提示できて良かったように思う。
ここが分からないと、序論も本論も結論も、どこを読んでいても軸がなくなり、〈雑学の断片〉に触れているだけのような心地になる。
(むろん、それはそれで面白く読めてしまう…というところがこの本の驚異的なところでもあるのだが)
とにかく、まだこの段階においては、漠然と「〈ポエジー=詩情〉で〈ポエマ=詩・詩作品〉なのだな。」というくらいの理解でよい。
そして、パスは「敢えてその二つの概念を分けて考えようとしたのだ」ということさえ覚えておけば、そんなに問題ないように感じる。
次回は問①の1)
「他の芸術表現活動に対する詩の独自性」の模索について、扱いたいと思う。
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※1)実際、パスは【弓と竪琴】の後に書いた詩論、【泥の子供たち】において、この問いを
と、置きなおしている。
ここからも、単に「芸術分野としての詩」の位置や独自性だけを想定していたわけではないことが窺える。(まあ、訳者が違うだけって可能性もあるが…)