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"世界を広げる"が意味すること。

世界を広げようとする人たち。
生きてる人、皆がそうだろうと私は考える。

いやいや、僕はそんな上昇思考じゃない。
毎日ほぼ同じの繰り返し。
とりあえず生きているんです、という人。
今から伝えるのは、意識的な話ではない。
私に自己啓発本を読む趣味はない。
「広げよう」という言葉遣いに、なんだか前向きなニュアンスを感じとってしまうけれど、そもそも世界とは大それたものじゃない。
簡単に広がるし、ひっくり返る。
また、人は無意識でも多くの願いを常にもっている。

現に、世界自体は広げようとするまでもなく、常に広がり続けている。
AI技術の発展。円安。梅雨入り。地球温暖化。少子高齢化。
様々に社会は変化し、生活に影響する。
そして生活が個人の世界観を変え、広げていく。日本にいて、生きるだけでこんなにも。

ただ無為に過ごす日々が無意味であると、証明できる人はいない。
では意味があるのか?
それを証明できるのは、少なくともそこで嘆いている誰かではない。どこかでいつか会えるかもしれない誰かだ。
希望をもつと、希望が叶わなかった場合も想像する。
最初から望まない方が楽だと、もたないことを選ぶ日もあるだろう。
私が思うのは「人はなぜ失った日が最初であると信じ込んでしまうのだろう?」ということだ。
辛かった日。裏切られた日。お金がない日。辞めた日。独りの日。傷をつけられた日。
そういった経験から、楽になりたい。
もう望んだりしない。そう言って捨てた日。
大人になっても、何か些細なことで苦痛で耐えられなくなる日。
「まぁ私最初から辛かったし、何もいらないしな…途中楽しかったり、幸せだって感じられた日もあるけど」
こういうのは防衛本能によるもの。
その日、心を守るために捨てたつもりでも、本当に願っていた部分は叶うまで消えてくれないと私は思う。
そして人の願い事はどれも、大変おおまかな表現でまとめてしまえば「世界を広げる」になる。

心優しい人と優しくない人で世界の見え方は違う。
本を読む人と読まない人で世界の見え方は違う。
勉強する人としない人で世界の見え方は違うし、運動する人としない人で世界の見え方は違う。
例をあげればキリがない。

絵を描く人と描かない人で世界の見え方は違う。
推しがいる人といない人で世界の見え方は違う。
お酒を飲む人と飲まない人で世界の見え方は違う。
体が大きい人と小さい人で世界の見え方は違う。
お金がある人とない人で世界の見え方は違う。
猫が好きな人と嫌いな人で世界の見え方は違う。
音楽を愛する人と愛してない人で世界の見え方は違う。
障がいがある人とない人で世界の見え方は違う。
香りにこだわる人とこだわらない人で世界の見え方は違う。
エンパスの人とそうでない人で世界の見え方は違う。
暴力を受けた人と受けなかった人で世界の見え方は違う。
友達がいる人といない人で世界の見え方は違う。
家がある人とない人で世界の見え方は違う。
仕事する人としない人で世界の見え方は違う。
SNSする人としない人で世界の見え方は違う。
料理する人としない人で世界の見え方は違う。
子供がいる人といない人で世界の見え方は違う。
親がいる人といない人で世界の見え方は違う。
旅行する人としない人で世界の見え方は違う。
現実に満足している人と不満がある人で世界の見え方は違う。

気をつけたいのは、できる人と思わないこと。できない人と思わないこと。
する、しない。世界はバリエーションに富んでいる。
もう一つ、ここまで読んでくれた人に汲んでいただきたい…正しさを語るリスクについて。
個人として在り方をもし突き詰めたなら、その世界に生きるのは一人ということになる。

仲良くいられるのは共感できる人。
協力するのは理解できる人。
共感も理解も難しい人と仕方なく関わり続けるときは、我慢が生じているだろう。
職場でも、家庭でも、我慢は避けられないものと力説されたことがあるけれど、私は人によると考えて納得していない。
生きるために我慢も必要だという人が、その世界を守ればいい。

正論の押しつけを実行する人は、自分の正しさをもっと認められるようになりたいのだ。
SNSは唯一無二の世界が数限りなく溢れていて、しかも干渉しあえる。
本当に恐くて、その危うさが楽しい。
生き物を最も腐らせることは、停滞だ。
退屈に慣れるうちに、最初にあった本当の願いを忘れてしまう。(無意識には残る)
私たちは腐らないために、弱りきって希望をもてなくなっても腐らぬよう、傷つけて傷ついて痛がって、休んで癒す。
そうして、消化されない悲哀を持て余さずに済ましている。

自分の正しさ一つ一つが通用するのは、私だけだと知る。
その時なぜだか心強くて、もう大丈夫だと思えた。不思議なことだ。
正しく在りたいと思うことで、誰かを否定するのを避けてきた。
自分で自分を認めてあげる気力はなかった。

この世界にただ自分一人でいることを、本当は寂しいと思っていた。
そう口にしたことはなくて、けれど滲みでたのか、鋭くて優しい人たちが不意に気遣ってくれる。
寂しさに苛まれなくなったのは、世界が広がり始めてからだ。
私の世界で出会ってくれた、認めてくれた一人一人の世界を知って、もっと見たいと思った。
これから私は、共感できない理解できない世界にも沢山行きたい。
そこでは仲良くならなくて、協力もない。
知らない人を知り興味をもちたい。
あぁ見たくない、見られたくないともしなってしまえば避けていく。

君の世界は君一人だと、私は思う。
だから世界は一つじゃない。
感情は素敵であるほどに言葉で表しきれなくなる。
今日は蜜柑のジャムを煮て、私の世界を染めている。

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