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超ポスポスモダ散文

もちろん過去にも超ポスポスモダ(略)みたいな所にたどり着いている人が沢山いて、特にねこぢる辺りはモロにそうだと認知しているのだけど(彼女もまたインドに惹かれた者だったはず)

結局自死してしまわれていて こういうニヒリズム的な側面に寄っかかりすぎると自死とかの破滅方面にどうしても向かってしまって
自死しないことのタイパの悪さみたいなところさえ肯定的に捉えるみたいな方向に転換していくのが今は必要な気がしてる(ここがポスモダとポスポスモダとが隔てている肯定的な要素だと思う)

となると、確かにちいかわはだいぶだいぶ超ポスポスモダ的かもという気が
あれはニヒリズムに寄りすぎてなくて、結構肯定的だよね

自分は芥川龍之介やねこぢるに憧れはありつつも、自死したらゲームオーバーというルールの中で生きたい。というかそういうネガティブなニヒリズムから脱却したい。

自分は、サブカル鬱病クネクネみたいなのいい加減飽きたもういいよと思ってるので、別のことをしたい。
sickファッションはもう見飽きた。本当に。

確かにねこぢるとか芥川龍之介、太宰とかみたいな洗練されてる方のサブカルうつクネクネはカッケェのよ
でもさ、そのあとの時代の青二才(自分みたいなの)がそれやるとなんかどこかダッサイの。だから自分はそういうのしないししたくないの。

だからサブカル躁クネクネをする。
って思ってしまうけど、なんかもうこれ自体超ポストポストモダニズム的ではないからそういう二項対立自体から脱却したいかも。

↑好きな曲


ポスモダ的な相対感の中にいるとどうしてもタイパ悪いことやめよう!(死)みたいな結論になりかねないし、実際のところ全部意味ないけど
その意味無さを、時に楽しんだりしてやってればわりと生きれそうじゃねみたいなのがポス-ポスモダのPostの部分
(という認知を自分はした)
でもその時に河童の生活教的なものを起点にしちゃうと自家中毒化する的な。

めっちゃ要約すると、超ポスポスモダってそういう、おーい磯野!もう「病み」やめよーぜ!っていう そんな感じのなんだよね

デジタルネイチャーを代表とするような超ポスポスモダ的な東洋哲学の風味は単なるタオイズムの焼き直しではなくて、「空海とコンピュータの合流によるアップデート」なんだけど(これは落合氏も言及しているし、自分も共感している要素)、ここの部分の伝達が難しいみたいなところだと思う

(言語学者としての空海とソシュールと。)


自分の思いつくことって大体先に落合氏が言語化してるので、もっと知りたい。
実は勝手に親近感を持ってる、カレーが好きっぽかったりグミを主食にしたりとか、床で寝るなどの、行動に現れる部分の奇妙な一致が多くて、そこも興味深いと感じる。
(それについて知る前から実は自分もグミを主食にしていたことがあって、床(フローリング)で寝るなどをしてる
知った後は、実際にカレーをストローで吸ってみるなどのリスペクト的行動をした。)




そういえば、2024年の例のメディアアート展示で自分が言った「ハワイ風の曼荼羅」ってワードについて、落合氏が「これは考えたこと無かったな」みたいなことを言っていらしてそれが何か嬉しかった。自分って自分が思ってるより面白いことを考えられるんだマジかっていう肯定感をその時得られまして、こういうのがコアになってくんだろうなって思いましたね。

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