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超ポストポストモダニズム

導入:そもそもPost-post modernismって何?


「ポストポストモダニズム」という語は冗長である。
しかし、Jeffrey T. Nealonの「Post-Postmodernism or, The Cultural Logic of Just-in-Time Capitalism」(2012)でこれが冗長な名称であるということ自体の必然性について既に論じられている。

ポストモダニズムは本来であれば「新しさへの執着」の終焉を示すものであり、厳密にはその後に何かが来ることはない。
「終わり」を無限に続ける概念である。

それを前提とするため、「 ポストポストモダニズム」はポストモダニズムの完全な克服ではなく、その内部での深化や変異を示す。
ポストモダニズムがモダニズム内部の変異であったことと同様にして、これもまたポストモダニズムの変容を意味する。

つまり、ポストポストモダニズムにおける「ポスト」とは、ポストモダニズムの終焉ではなくその変化や転換点を示している。

ポスト・ポストモダニズムは「価値の再構築と社会的適用」に力点を置いた。

一方で、超ポスト・ポストモダニズムは、そもそも「価値」という概念自体をどのように創発・変容させるかを主題とする。



世界の多層性を直視するということ。

超ポストポストモダニズム(Hyper-Post-Postmodernism )

概念の背景まとめ:
ポストモダニズム(脱近代主義)は近代的な理性、真理、普遍性を批判し、相対主義やアイロニー、多様性を強調した。
そして近年見られるようになったポストポストモダニズム(Post-Postmodernism)はポストモダンの過剰な懐疑主義を乗り越え、部分的に新たな物語性や普遍性を模索する動きとなっている。
しかし、
ポストポストモダニズムもまた新たな普遍性が依然として旧来の権力構造を踏襲する可能性を持ち、ポストモダン的な懐疑により機能不全に陥ることがあるように思える。

また、ポストポストモダニズムの孕む「人間中心主義的な価値観」の部分については
特に、現在進行系で起きている「知能が人類を定義するものでは無くなりつつある」というこの実情を踏まえるならば、既に旧来的である。これら既存の言葉は現在の加速的な社会に対して十分に追いつけていない。

ここで新たに
「超ポストポストモダニズム(Hyper-Post-Postmodernism)」
を提唱する。

ポストポストモダニズム的な人間中心主義に対する自己超克を意味する「超ポストポストモダニズム(Hyper-Post-Postmodernism)」では、単なる「価値の再構築」ではなく、「価値そのものの変容性」を軸にした新たな視点を提供する。

これは、「理性や合理による価値創出の限界」「絶対的な価値を求めるという、人間の本質的欲求」との間に生じる矛盾を統合するべくしてある新たなパラダイムの名称である。


超ポストポストモダニズムとは、言わば「現実」そのものである。

こう言うならば、そもそも超ポストポストモダニズムを語ること自体が無意味に映るという者も多いのかもしれない。
しかし、ソシュール言語学的な視点を根拠としても、人は一般的に名付けられていないものについて明確に認知することは困難である。

それゆえ、現実を認知する糸口としての「現実を表す語」として、超ポストポストモダニズムという言葉は基準的なピースの一つとしての存在意義を持ち得るのでは無いだろうか。

つまり、私自身は超ポストポストモダニズムというパラダイムについて、とりあえず提唱した者ではあるものの「開発した」とまで言い張るつもりもない。

超ポストポストモダニズムというものは、あくまでも現実として実際に現れつつある現在のパラダイムシフト、そしてそこから自然的に推定される範囲の未来、普遍性に基づいて「理にかなうであろう形で、時代に忠実にまとめたという事柄」について
「専門的な分野の方々と自分のような素人との間でのちょうど橋渡しとなる部分」として機能することを期待して命名を行った「それ」についての提唱をしているというだけのものである。 

(私は、現代の社会において、専門性の強い業界の裾野を広げてみること、また学びやコンテンツをインターネットに放流することが教育的・文化的加速に対して大きな意義を持つと感じている。

それは、私自身が非課税世帯で育った等の経済的ハンデを負いつつもインターネットや他言語検索・翻訳を活用する形で、時間的・土地的な境界を超える形で会得した絵画の学習過程により、哲学や心理学に関する主観的な体験の度合いが高まったという経験に身に覚えがあるからである。

また、ラマヌジャンのような「アカデミックの外から現れた一見突飛な発想」にも実は強い価値があるといったことは、普遍的に起こり得る現象であり、それも含めての本質なのでは無いだろうか。
既に学びの本質はオープンソース化しつつある。
私の魔術学院では、このような学習の手法について基礎の部分から体系的に丁寧な指導をし、生徒が自力で加速する力を付けていけるように努めている。)


以下に超ポストポストモダニズムの概要についての解説、そして関連する他者の理論や文献に基づく考察を行う。

 超ポストポストモダニズムの核となる思想

多次元的リアリティの受容(Multidimensional Reality Acceptance)

近代(Modern)=「一つの真理」
ポストモダン(Postmodern)=「すべては相対的で流動的」
ポストポストモダン(Post-Postmodern)=「新しい価値の再構築」超ポストポストモダン(Hyper-Post-Postmodern)=「すべての真理は並存し、複数の次元で交錯する」

現代の人間を取り巻く世界は、すべての価値観や知識体系が異なる次元で絡み合いながら、相互的な影響を与え続けている。
それ故、すべての真理が並存し、複数の次元で交錯するのである。

自己変容性(Meta-Adaptive Identity)
ポストモダンは「アイデンティティは固定できない」とし、ポストポストモダンは「新たなアイデンティティの構築」を試みたが、超ポストポストモダンは「アイデンティティを流動的に変容させ続けること」こそが本質的な生存戦略であると捉える。

これは単なる「流動性の受容」ではなく、「自己を変容する能力を高めること」が重要視される。

イメージとして、「自らの脳を不要なものとして、環境適応のため消化してしまうというホヤの生態」はその象徴に相応しいと言えるだろう。


実際のところ、平均的なホモ・サピエンスの脳の大きさは狩猟採集時代をピークとして以降、縮小している。(サピエンス全史参照)
人間がテクノロジーや社会構造の変化に適応するためには、人間としてのアイデンティティそのものがメタ的に進化し続けるほか無いのだろう。

ポストモダニズムは、モダニズム(近代主義)の行き詰まりを打開しようとする動向であり、既存の価値観や大きな物語の解体、相対化を重視した。特に、ジャック・デリダによって発展された「脱構築(deconstruction)」は、テキストや概念の前提や思想的基盤を批判的に分析し、内在する矛盾や隠れた意味を明らかにする手法として知られる。
ポストポストモダニズムは、ポストモダニズムの相対主義や解体主義の限界を認識し、新たな価値観や意味の再構築を試みる動きとして理解される。具体的には、信頼、対話、誠実さなどを通じて、ポストモダニズムのアイロニーを超越しようとする傾向がある。

このように、ポストモダニズムが「解体」を重視したのに対し、ポストポストモダニズムは「再構築」を志向する動きとして捉えられる。

しかし、超ポストポストモダニズムは「解体と再構築を繰り返しながら、常に進化し続ける」ことを前提とする。
完結することのない「無限の変容」こそが超ポストポストモダニズムの本質である。
「デジタルネイチャー」は超ポストポストモダニズム的なパラダイムにおけるその具体的な実行の手段や論証として機能する。

超ポストポストモダニズム芸術はシュールレアリスムに類するものではなく、しいて言うならば新たな「写実」主義に位置する。
何故ならば、超ポストポストモダニズムにおいて「夢(虚構)と現実」「コンピューターと人間」といったの見かけ上の二項対立について、それらを区別をする必要はないといった立場を取るためである。
超ポストポストモダニズムは二項対立を本質としない。
これはジャック・ラカン的な現実の捉え方や計算機自然の美学との間で共有可能な価値観である。

(「リアリティ」は、言わば現実界や集合的無意識の領域に位置するものを含む。もはや物質と実質の境界は消えつつあるため、敢えて今更区別するような視点に立つ必要はないだろう。)

ホモ・サピエンスは未知を恐れる故に変化を拒むという生き物であるが、歴史の中には万物は移ろうものであるという大原則がある。この移ろいそのものを普遍性と捉えることが超ポストポストモダニズムの根幹であり、超ポストポストモダニズムは現実そのものであるという論拠となるのである。

ニーチェと芥川龍之介に見る、超人主義の限界について

【 ニーチェの発狂】

ニーチェの「超人(Übermensch)」思想は、既存の価値体系を否定し、人間が自らの力で新たな価値を創造し、自己を超克することを求めた。
しかし、ニーチェ自身は精神崩壊に陥り、結果として「超人主義」が個人の精神に耐えうるものではなかったことを暗示している。

「神の死」=絶対的価値の崩壊
ワーグナーとの関係から考察するに、ニーチェが「神は死んだ」と述べた時、それは単なる宗教の否定ではなく従来の絶対的価値体系(道徳・倫理・普遍的な善・憧れ)そのものの崩壊を意味していた。
ニーチェはかつて、ワーグナーについて「アイスキュロスが現代に生きている」と語ったとされる。
ニーチェにとって、ワーグナーは古代の悲劇詩人が現代に生まれ変わったような「文化改革者」に映っていたことが伺える。
ニーチェにとってのワーグナーは、現代で言うところの「推し」に近い存在であったと言って良いのではないだろうか。

弱冠24歳でバーゼル大学の古典文献学員外教授に就任したニーチェはそのアカデミズムでの信頼を失うリスクを冒しながらも「悲劇の誕生」等を通じ、ワーグナーの芸術のために弁じてきた。
これは究極の「推し活」といえるのではないだろうか。
(ワーグナーの芸術のために弁じるニーチェという構造は、「推し、燃ゆ」(河出書房新社、2020年)にて描かれた、「推しの作品と人物を解釈し続け、ブログに記し続ける」という主人公の行動とも重なるように思える。)

しかし、1876年。
ニーチェはバイロイト祝祭劇場での第1回バイロイト音楽祭および主演目『ニーベルングの指環』初演を観に行くが、各国の国王や貴族に囲まれて得意になっているワーグナーを見たことにより自身とのあいだに著しい隔たりを感じ、そこにいるのがかつての「文化改革者としてのワーグナー」でないことを確信することとなる。
ニーチェは失望のあまり上演の途中で抜け出したとされる。
※『ニーベルングの指環』自体も出来が悪く、新聞等で報じられた舞台評も散々なものであり、ワーグナー自身がノイローゼに陥ったという。
そして2年後の1978年、
「人間的な、あまりにも人間的な」でついに決別の意を明らかにし、公然とワーグナー批判を始めることとなる。
現代的に言うならばこれはまさに「反転アンチ」的な行為である。
この書より両者は決別し、再会することはなかった。
しかし、晩年のニーチェは「私はワーグナーを愛していた」と語っていたそうだ。
超人の概念は「価値の崩壊を超えて、新たな価値を生み出す存在」として期待された。
しかし、結局のところは個人の精神がそれに耐えられないという矛盾を孕んでいたことがニーチェ自身の発狂という出来事によって示唆されている。ニーチェはワーグナーという「背骨」を失ったのである。
まさにこのような時、「価値を創造する存在」としての超人ではなく、「価値を創造しつつも、変容する価値の概念そのものを受け入れる存在」へと進化しなければならないのでは無いだろうか。
つまり「絶対的な価値」を新たに作るのではなく、価値の変容プロセスを「絶え間なく適応・進化するもの」としてまず認識することが求められる。

【 河童の生活教と「欲望の合理化」の限界】

芥川龍之介の『河童』の世界観では、河童たちが「従来の道徳や倫理を否定し、欲望を起点にした合理的な価値観」としての「生活教」を生み出した。しかし、その価値観自体が彼らを狂わせていくという矛盾を孕んでいるということが物語を通じて描写されている。
生活教は快楽・効率・合理性を基盤とする。

しかし、その合理性が極端に進むと、最終的に自己崩壊へと至る。
欲望の充足のみを追求すると、人間の精神は「拠り所のない空虚さ」に飲み込まれる。
つまり、「欲望を基盤にした合理性」ではなく、「変容する欲望を前提とした合理性」 へと進化させる必要がある。

芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」の末に自死した。この不安はポストモダン以降の「価値相対主義」にも通じる部分がある。

すべての価値は相対的であるという考え方は、安定した拠り所を失うことを意味し、それが「ぼんやりとした不安」を生む。人間は「絶対的な何か」を求め続けるが、それが喪失された状態にあるといった自己認識に置かれた際には不安が支配するのである。

絶対性への普遍的な渇望

芥川龍之介が死の直前まで枕元に聖書を置いていた事実は、彼が最終的に「絶対的な何か」を求め続けたことを象徴的に示している。
この絶対性への渇望は、現代においても根本的な問題として残り続けている。

ポストモダンと絶対性の問題
ポストモダン以降、あらゆる価値が相対化され、絶対性は否定された。しかし、人間の精神は常に「普遍的な拠り所」を求め続ける。

超ポストポストモダニズムの視点
「絶対性は存在しない」という立場ではなく、「絶対性は変容し続けるもの」という新たな立場を取る。

つまり、普遍的な価値を一つに固定するのではなく、「時代・環境・個人の経験ごとに動的に変化する絶対性」を持つことが重要。

これは「動的な信仰(Dynamic Faith)」とも言える概念であり、個人が状況に応じて「変化する拠り所」を持つことを意味する。

日本人に多く見られる「宗教嫌い」という認知的不協和について

「日本人の宗教嫌い」と「普遍的な絶対性への渇望」

日本人の多くは「無宗教」と称しながらも、実際には神社へ初詣に行き、冠婚葬祭では仏教や神道の儀式を受け入れ、クリスマスやハロウィンを祝う。推しを推すための「祭壇」を作る。
これは「宗教そのものを拒絶する一方で、無意識的に何らかの超越的なものやそれを共有するコミュニティを求めている」という認知的不協和の現れである。
特に、「宗教嫌い」と「普遍的な絶対性への渇望」という矛盾が、日本人の精神構造において非常に興味深い形で表れる。


超ポストポストモダニズムは、この「宗教嫌い」と「絶対性への渇望」という対立をどう乗り越えるか」に焦点を当てることで、新たな価値観の枠組みが見えてくる。

日本人は本当に「無宗教」なのか?
多くの日本人が「自分は無宗教だ」と語るが、実際には以下のような宗教的・スピリチュアルな要素が社会の基盤に組み込まれている。

神社仏閣への参拝
縁起担ぎ(験担ぎ)
お守り・厄払い・初詣
霊的な概念(幽霊・先祖供養・因果応報)
伝統行事(七五三、盆、正月)

このことから、日本人は「組織化された宗教」を忌避しつつも、「目に見えない力や超越的なもの、あるいはその虚構を共有する共同体そのもの」を心のどこかで求めていることが分かる。

特に現代の日本では、「スピリチュアル的なもの」に対する冷笑主義が強い。
スピリチュアル=「根拠のないもの」
宗教=「バカの信じるもの」
神秘主義=「非合理的であるから無価値」
といった価値観が、インターネット上では一見マジョリティ的である。

しかし、その一方で「絶対的なもの」としての「推し」に心を託す者は非常に多い。
これは、「意識の中では絶対性を拒絶しつつ、無意識には宗教的絶対性を求めている」という矛盾した心性の表れである。
結局のところ我々の多くは「人間」であることを辞められない。

それは、そもそもホモ・サピエンスという種が「虚構の共有能力」という他の人類種や生物とは異彩を放つ言語的能力によって集団での協力を行い生き延びてきたという、DNAに刻まれたものによる作用に他ならないであろう。

逆説的に考えるならば、例えばイエス・キリストとは最古レベルのVtuberでありアイドルであると言えるだろう。
彼はその死後も尚、現代においてまでも現役で仕事をし続けているという点において筆頭すべきプロフェッショナルだ。

超ポストポストモダニズムは「絶対性を固定するのではなく、絶対性の流動そのものを受け入れる」という視点を提案する。
絶対性とは「動的」なものである。

絶対的なものは一つではなく、時代・個人・環境によって変化する。科学的合理主義と神秘主義は対立するのではなく、共存しうる。

デジタルネイチャーの理論と超ポストポストモダニズムの包括する範囲についての差違について

博識かつ聡明な読者の方々の中には、必然的にこのような疑問が浮かんだのでは無いだろうか。

「結局、超ポストポストモダニズムっていうのはデジタルネイチャーやマタギドライヴを異なる言葉で再び説明したものに過ぎないのでは?」

これは部分的に正解であり、部分的に誤りであると思う。

確かに、私が超ポストポストモダニズムに気づいたきっかけであり深く影響を受けたもののうちの一つとして落合陽一氏による「デジタルネイチャー」や「マタギドライヴ」がある。

デジタルネイチャーと超ポストポストモダニズムは、共にポストモダン以降の知的・美学的フレームワークを超えようとするものであるという点において共通するが、それぞれ、要素や事象の包括範囲とアプローチに決定的な違いがある。

超ポストポストモダニズムの特異性は、その包括範囲の広さにある。

超ポストポストモダニズムは、これら複数の概念の上位概念として位置するかなり抽象的なものである。
つまり、超ポストポストモダニズムの中にデジタルネイチャーやマタギドライヴは確実に含まれる。しかし、デジタルネイチャーやマタギドライヴの中に超ポストポストモダニズムをまるごと格納することは今のところ出来ないと思う。

これはつまり、例えば猫がプランクトン等を含めた「動物」の中に格納される概念であることは成立するが逆にプランクトンが猫であるとは言いにくかったり、プランクトン=動物は成立しても動物=プランクトンとは言いにくいのと同じような構造である。

超ポストポストモダニズムの持つ、高度に抽象的で包括範囲が広く応用性の高い概念であるという特性に対し、デジタルネイチャーはより具体的・具象的かつ実践的である。
これらはそれぞれ異なった機能をする語であると見なすことが可能であるため、それぞれを独立させて存在させる意義は、十分にあるといえるのではないだろうか。
また、それぞれを補完的に見ることにより、より新しく普遍的な視点で論じることが可能になってくるであろうと思われる。



脳の右側で描くことと集合的無意識、再魔術化の接点(マタギドライヴ的学習の推奨)

ベティエドワーズ氏の「脳の右側で描け」では、一般感覚では難しい作業とされている「見たままを描く能力」を飛躍的に上達させるアプローチとして「言語的な物の見方に囚われないこと」(=右脳的能力の活用)が推奨されている。

私は主にこの理論に基づいて描画の技能についてコーチングしているが、確かにこの手法で生徒たちの「見たままを描く能力」が飛躍的に成長しているということを実感している。

例えば模写をした際、見本とした作品との差違(どこに違和感があるか)について、どの箇所が上手くいかなかったかについて具体的箇所が生徒たち自身により具体的に述べられるようになってきた。
これは「見たまま描けた部分とそうでない部分について客観的に深く認知できるようになった」ことを直接的に示唆する。

また、同氏の「内なる創造性を引き出せ」では言語的枠組みを超えることにより普遍的な創造性へアクセスするようなプロセスが述べられており「利き目を使って描け」の中でもナザールボンジュウといった普遍的モチーフについての言及がある。

これら普遍的モチーフへの言及は、絵画的学習において一般的には無視される心理学や哲学領域へとリンクする。
まず、カール・ユングは普遍的モチーフとしてのマンダラについて研究したり、普遍性に深く係る概念「集合的無意識」を提唱した。

また、ベティ・エドワーズ氏による「言語を超えることによってリアリティが知覚できる」というアプローチはジャック・ラカンの理論を彷彿させる。
そのジャック・ラカンの理論はフロイトの理論から発展している。
ユングもまたフロイトからの影響を受け、その後に独自理論を打ち出している。

さらに、デジタルネイチャーの理論が生まれるきっかけとなったという「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」という本の中では、その論に依拠する存在の1人としてカール・ユングの名が実際に挙げられている。カール・ユングの著書の中ではニーチェの名が挙げられている。

このようにして、何かしらの学びに関する本質や抽象的な部分を広く汲み取り発展的であろうとするならば、様々な学問の「分野」の枠組みによって分散された部分が必然的に芋づる式に現れてくることとなり、これらのように分野を自主的にまたぐことにより狩猟的に学ぶという姿勢は「マタギドライヴ」として落合陽一氏によっても提唱されている。

「何故ユヴァル・ノア・ハラリ氏がヴィーガニズムを推奨するのか」と「デジタルネイチャー的世界観により生じる倫理」との接点について、それぞれを素人視点から噛み砕いて解説してみる

サピエンス全史やホモ・デウスの中で虚構のリアリティ性について述べたユヴァル・ノア・ハラリ氏はヴィーガニズムを推奨している。

これは、一見突飛でラディカルな主張に映るかもしれない。しかし、これはとても重要な点であり過激な政治的主張としてのみ捉えるならば見えなくなる要素が大いにあると感じる。

これについて噛み砕こうと思う。

この、ヴィーガニズムにたどり着く倫理的な流れとして、まずデジタルネイチャー的世界観における倫理についてから考えると理解に繋がりやすくなるのではないかと思うためそこから説明する。

デジタルネイチャー的な価値観において「生物」と「人間」の共通言語として「電気」が存在しており、生物の神経活動や植物の電気的信号伝達など、生命体は電気的な信号を用いて情報を伝達している。
例えば、キノコ類は電気的なスパイク活動を通じて情報を伝達し、これが言語的な特徴を持つことが示唆される。
一方、人間は電気的な信号を利用してコンピュータやデジタルデバイスと相互作用し、情報を処理・伝達している。


これを煮詰めると、AIを中心とした「機械の権利」という未来的な概念は現在もなお議論されている「動物の権利(アニマルライツ)」の概念が同様の構造を持っているということが見えてくる。

どこまでが人間であるかといった理論は、動物の種ごとの扱いをどこで線引くかという問題と地続きなのだ。

(その問題に関しては植物も、ではあるが。)

↑参照

この、人間の定義について考えた場合に展開されるであろう倫理的問題や脱人間中心主義的なパラダイムへの整合性によってユヴァル・ノア・ハラリ氏がヴィーガニズムを選んだとも考えるのであれば、この場合のヴィーガニズムは極端にラディカルな思想とも言い切れなくなってくるのでは無いだろうか。

かつてのホモ・サピエンスたちがダーウィンの進化論を拒んだことと同様、現代に生きているホモ・サピエンスである我々は既に「知能」や「創造性」が人間の専売特許では無くなったという事柄について、なかなか受け入れようとせず激しく抗っている。

そして、「知能や創造性こそが人間を定義している」という信仰や、人間中心主義的な思想からの脱却をなかなか受け入れないという者が依然としてマジョリティであるように見受けられる。

しかし、それについても次第に慣れ、受け入れる日が来るのかも知れない。
その時、ヒトや「ヒト以外の存在の権利」はそれぞれどのように扱われるだろうか?

そもそも、その時が来た際に「我々」こそが「ヒト」であるという保証は、一体どこにあるのだろう。

(かつてこの地球上にて滅んだ人類種たちの存在に想いを馳せながら。)



参考文献一覧

(私のnoteを読んで「うーん、わからん!」と感じたのであれば
これらの本を買って先に読んでみてください。
Amazonリンクも貼っておきます。

これらを全て読めば何を言ってるのか分かるようになると思います。
特にデジタルネイチャーがおすすめです。

あるいは、このnote本文をコピペしてAIに学習させちゃって良いので、AIに助けてもらってください。)


1.落合陽一「デジタルネイチャー」(PLANETS、2018年)
2.Jeffrey T. Nealon「Post-Postmodernism or, The Cultural Logic of Just-in-Time Capitalism」(Stanford university press、2012年)
3.C.G.ユング 松代洋一訳「創造する無意識」(平凡社ライブラリー、1996年)
4.モリス・バーマン 柴田元幸訳「デカルトからベイトソンへ世界の再魔術化」(文藝春秋、2019年)
5.ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳「サピエンス全史 上」(河出書房新社、2023年)
6.ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳「サピエンス全史 下」(河出書房新社、2023年)
7.ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳「ホモデウス 上」(河出書房新社、2022年)
8.ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳「ホモデウス 下」(河出書房新社、2022年)
9.ベティ・エドワーズ 野中邦子 訳「決定版 脳の右側を使って描け」(河出書房新社、2021年)
10.ベティ・エドワーズ 野中邦子 訳「内なる創造性を引き出せ」(河出書房新社、2014年)
11.ベティ・エドワーズ 野中邦子 訳「利き目を使って描け 左右それぞれの目の特性を活かす」(河出書房新社、2021年)
12.芥川龍之介「河童・或阿呆の一生」(新潮文庫、1968年)
13.宇佐見りん「推し、燃ゆ」(河出書房新社、2020年)
14.C.G.ユング 林 道義 訳「個性化とマンダラ」(みすず書房、1991年)



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