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【舞台鑑賞】ピナ・バウシュ「春の祭典」 ー アフリカン・ダンサーによる”生贄の踊り”とは ー

2024年9月11日〜15日、東京国際フォーラムで行われた、ピナ・バウシュによるダンス・シアター「春の祭典」を観てきました…!

ピナ・バウシュ(Pina Bausch 1940-2009)はドイツの振付家・舞踏家。
元々はクラシック・バレエのダンサーとしてキャリアをスタートしながら、コンテンポラリー・ダンスの振付家として道を拓き、ドイツのヴッパタール舞踏団の芸術監督としてダンスの可能性を演劇にまで広げたとされる人物です。

一方「春の祭典」は、1913年にロシアの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971)が、当時ヨーロッパを席巻しようとしていたロシアのバレエ団、バレエ・リュスのために作曲した音楽。
伝説のダンサー、ニジンスキー(Vaslav  Fomich Nijinsky 1890-1950)が振付し、その斬新さのあまり初演の際に”暴動”が起きたというエピソードが有名です。

ピナ・バウシュは1975年、この「春の祭典」の曲に新たに振付を施し、世界的な評価を手にしました。

「春の祭典」は、若い女性が生贄となって死ぬまで踊る異教の儀式を描いた作品です。ピナ・バウシュはこのモチーフはそのままに、死刑宣告される女性の観点から独自の解釈を成しています。

今回の舞台は、これまでヴッパタール舞踏団等ヨーロッパのバレエ団が踊ってきたピナ・バウシュの「春の祭典」を初めてアフリカン・ダンサー(しかもクラシック・バレエ出身ではないダンサーたち!)が踊るという新たな試みで、従来のピナ・バウシュ版「春の祭典」ともまた違った印象が与えられます。

いまは亡きピナ・バウシュが、アフリカン・ダンサーを通じて届けてくれたものは一体何なのか?考えていきましょう。


ピナ・バウシュ版「春の祭典」と原典となったロシアの儀式

ここで改めてピナ・バウシュ版の「春の祭典」がどのような作品なのか知るために、ヨッヘン・シュミット氏の『ピナ・バウシュ 怖がらずに踊ってごらん』(Jochen Schmidt “Pina Bausch-Tanzen gegen die Angst”)から、この作品についての説明を引用してみましょう。

 …一九七五年の終わりに初演された〈ストラヴィンスキーの夕べ〉において、ピナ・バウシュはもう一つの最高峰を達成。国際的レパートリーの中でも難解でしかし重要だとされるダンス作品の一つ、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』である。これは、ダンス文学のエベレスト山のようなものだろう。もっぱら純粋なエロスの祭として解釈される流行に対抗して、ピナ・バウシュの『春の祭典』は、本来の〈犠牲〉という筋を拠りどころにし、それを死刑宣告される女性の観点から描く。それは不安と同情に満ち、しかしはじけるようなエロティシズムと性であふれていた。

  舞台は、床に泥が厚くばらまかれ、人工的につくられた森の空き地。中央に置かれた赤く輝く布の上に、一人の若い女性が横たわっている。曲の最初の何小節かで、アンサンブルは次第にフルメンバー(初演の時は十三組の男女)に達する。初めはかなりの間、それぞれ神経質に踊る女性たちだけ、その後でようやく男のダンサーたちが加わる。赤い布はしだいに重要な役割をおびてくる。それは犠牲(いけにえ)のシンボルであり、いけにえになる、あるいはいけにえを決定する、つまりは死刑執行人になるということが、男たちと女たちに呼び起こす感情のすべての触媒となる。魔術的な魅惑の混ざった恐怖、絶望、戦慄、最後に、その布はいけにえのための赤い衣裳となり、一人の女性から他の女性へとおどおど、おずおず手渡され、ついに不幸な最後の女性の手に残ってしまう。その女性がフィナーレで、荒々しく抗うように、死の舞踏を踊るのだ。その周りでは世界が硬直していくように見える。
 その死との闘いの踊りにさなか、透明の赤い衣裳がダンサーの身体から滑り落ち、乳房がむき出しになった。初日の観客は不(幸)運な偶然だと思い、それが集団から死刑宣告された少女の寄るべなさをいっそう効果的に際立たせた。しかし上演が続くにつれ、それは女性の運命への観客の緊張と関心を高めるための、抜け目のないドラマトゥルギー上の手段であることが判明する。内部事情は知らないが、もちろん、初日に衣裳がずりおちたのは実際に計画されてはいなかったことで、ピナ・バウシュが偶然に与えられた機会を意識的につかまえたのだ、という可能性もある。のちに彼女はよく、偶然や事故すらドラマトゥルギー上で効果的に利用できるし、振付に組み込むこともできる、と語っている。

ヨッヘン・シュミット著 谷川道子訳
『ピナ・バウシュ 怖がらずに踊ってごらん』より


元々の「春の祭典」、すなわち1913年にパリで初めて上演されたニジンスキー振付の「春の祭典」は、ロシア正教以前のスラヴ人たちによる太古の儀式を描いた作品でした。

ストラヴィンスキーが見た「長老たちが”若い娘が死ぬまで踊る様子”を見守っている幻影」をもとに台本を作成したのは、美術家で友人のニコライ・リョーリフ(Nicholas Roerich 1874-1947)。

その筋書きでは、ある2つの部族の争いと太陽神イアリロの怒りが記され、長老たちによって選ばれた生贄の乙女が力尽き息絶えるまで「生贄の踊り」を舞い、神に捧げられることで幕を閉じます。
わかりやすいストーリーがあるわけではなく、古代の儀式そのものを”踊り“として表現していると理解した方がいいのかもしれません。

ここで括弧つきの”踊り”としたのは、その振付が従来のクラシック・バレエと比べあまりにも異質なものだったためです。
足は内股に曲げ、傾げた頭を右手の甲で支える、腰を曲げてよちよち歩く、茫然と立ち尽くして動かない等の振付は従来の伝統を全く無視した動きでした。加えてリョーリフがデザインした衣装も土着の民族衣装をモチーフにした地味なもので…
今ではコンテンンポラリー・バレエの黎明期の作品としてその革新性が高く評価されていますが、当時、初演を見た観客が動揺を隠せなかったのも無理はありません。

こうしたニジンスキー版の「春の祭典」と比べると、ピナ・バウシュ版はぐっとシンプルで、洗練された印象を受けます。
ニジンスキー版には2つの部族の男性たち、女性たち、長老、熊の毛皮を被った祖先の霊などが登場するのに対し、ピナ・バウシュ版は基本的に男性と女性だけ。衣裳も女性が淡いベージュのスリップドレス、男性は黒っぽいスラックスのみとごくシンプルです。

ピナ・バウシュは「これは儀礼ではありません。儀礼についてのダンスなのです」と語ったと言われています。古代の儀式そのものを舞台に現そうとしたニジンスキーに対し、ピナ・バウシュは儀式・儀礼にまつわる男女、そして生贄となった女性の発するうごめきを捉えようとしたのだと言えるでしょう。


生贄にまつわる感情 ー 生贄になって初めて人格が芽生える?

では、生贄の女性の死で終わるこの儀式の間、そこにいる男女は何を、どのように感じていたのでしょうか?

答えはわからない…というか、個々の感情や人格といったものが見えないのがこの作品の特徴なのではないかと思います。
ここからは私の感想になりますが…ピナ・バウシュは「春の祭典」で、儀式にまつわる男女の不安、怯え、興奮、絶望、怒りなどの感情を表現しながら、それを個人のものとしては描いていないのです。

作品の冒頭、舞台の端からはじけるように魅力的な女性が現れます。
瑞々しくのびやかな動きに心打たれ目で追っていくのですが、その間にも舞台の反対側に別の女性が現れる。その新しい女性に気を取られている内に、もとの女性はいつの間にか集団に紛れてしまって誰が誰だかわからなくなってしまうのです。

これは何も、舞台が遠いからだとか、ダンサーが皆同じ衣裳だったからだとかいうわけではなく、振付家によって意図されたものだと思われます。

女性の集団、男性の集団、男女の集団という形で踊りが展開される中、ダンサーたちはふいに集団から外れ、短いソロを踊ります。しかしすぐまた元いたところに戻り集団の一部と化していく…。
例えるなら、コップの水が揺れるような感じでしょうか。水面が揺れた際に、しずくが外にこぼれることがある。でも、コップに戻せばしずくはただの水になる。

「春の祭典」のソロは、クラシック・バレエのソロと違って個々のキャラクターを特徴づけるものでは決してなく、あくまでも個は集団の一部として、集団の中に埋没している存在でした。
そこには集団としての感情のうねりは存在します。しかしそれは人格のある個人の集まりではなく、あくまで集団そのもの、共同体という一つの生き物を見ているような大きな大きなうねりなのです。

皮肉にも、一人のダンサーが他のダンサーと区別されるようになるのは生贄が決まってからです。
ピナ・バウシュ版「春の祭典」では、生贄の女性は、赤い衣裳を身につけることではっきりと他の女性たちと区別されます。そして舞台の中でもう二度と、集団に入ることはありません。

生贄に決まってから彼女の存在は次第に鮮烈なものになっていきます。
最初はぼんやりとうなだれているようだったのが、やがて抵抗を見せ、取りすがり、絶望し、怒りを露わにしているように見えるのです。
最後の「生贄の踊り」(これを私は”怒りの踊り”だと思っていたのですが)では、彼女を取り囲む集団がうつろで感情が見えないのに対し、生贄の女性は非常にエネルギッシュで感情的に際立った存在です。

集団に埋没していた女性は、そこから孤立し、死を宣告されることによって初めて個としての人格を確立することができたのでしょう。


共同体から切り離された生贄 ー 孤独な生贄と、孤独でない生贄

ピナ・バウシュ版の「春の祭典」の生贄の女性は、どこまでも孤独な存在です。

生贄なのだから孤独なのは当然だろうと思われるかもしれませんが、ニジンスキー版、あるいは1975年当初のピナ・バウシュの「春の祭典」では、“生贄“は必ずしも孤独ではなかった、という気がいたします。

生贄は犠牲者ではありますが、聖なる存在でもあります。
若い女性たちにとって、生贄に選ばれるということは自分が他の女性たちとは違う特別な存在になれるということです。

ニジンスキー版「春の祭典」の女性たちは、生贄が決まるまでの間ソワソワと落ち着きがなく、どこか興奮しているように見えました。彼女たちはまるで、生贄の神聖さや特異性に気を取られるあまりその犠牲性を忘れ、生贄に選ばれたいとすら思っているようなのです。これは、1975年のピナ・バウシュ版でも同じ印象でした。
長老によって生贄に選ばれ死に直面する中で、その犠牲性に気づくこともあるでしょう。しかし彼女は最後まで生贄の役割を演じ切り、儀式を完成させます。
そこでは生贄の女性は共同体の犠牲となりますが、その死は共同体に役立てられます。その点で彼女は最後まで共同体の一員であり続けるのです。


ところが今回の舞台では、印象が違いました。

生贄が決められる際の女性たちには興奮や誇りといった表情はなく、ただただ怯えているように見えたのです。
女性たちは生贄の象徴である赤い布を順々に手に取りながら次の人に渡していくのですが、最後の女性は、赤い布を持ったままおずおずと前に進みでます。
その間、長老的な役回りの男性は彼女が自分の目の前に来るのをただじっと待ち、それ以外の男性たちは舞台の隅で後ろを向いて立っている。
女性は生贄に選ばれたというよりも、自らの手で自身を生贄にしたように見えるのです。

生贄の女性が息絶える瞬間も印象的です。
赤いドレスを着た女性が「生贄の踊り」を踊る間、他の男女はただ生贄の女性を取り囲みじっと時間が過ぎるのを待つだけです。最後に女性が力尽きた後、その死体を屠ることすらしないのです。

今回の、アフリカン・ダンサーたちが踊る「春の祭典」では、生贄の女性は自らの意思で犠牲者となり、勝手に死んだように見えました。共同体の誰も彼女に対し責任を負うこともなく、手を汚すこともありません。従って、生贄の女性には名誉や誇りといった拠り所(=ごまかし)が一切与えられません。
その点において彼女は共同体から完全に切り離されており、より決定的な孤独を感じることになるのです。

私たちは日々社会や集団に紛れながらも、自分の感情は自分のものだと思い込み、なんとなく人格や個性を確立した気になっています。
けれどこの「春の祭典」を見たとき、本当にオリジナルの個や人格が立ち顕れるようになるにはここまで厳しい孤独が必要なのかと思い知らされることになるのです。


カーテンコール ー あどけない笑顔のダンサーたち

けれど、私がこの舞台で一番感動したのは、カーテンコールの瞬間でした。

生贄の女性が死に、幕が閉じた後、拍手で迎えられて舞台に登場したダンサーたちが横一列に並んで隣の人とすっと手をつなぎお辞儀をする…。
その様子が思ったよりずっとあどけなくて可愛くて、とても自然で…なんだかほっと感情が緩んでしまったのです。

今回のアフリカン・ダンサーたちが踊った「春の祭典」は、原典であるニジンスキー版よりも、1975年のピナ・バウシュ版よりも、さらに厳しく緊張に満ちたものでした。
人間社会の儀礼をめぐるピナ・バウシュのメッセージは絶望的といっていいほど救いがないようにも思われます。

けれど舞台の上で没個性的に見えたダンサーたちも、カーテンコールでは一人ひとり違った魅力的な存在として見えてくる。
ピナ・バウシュ自身もそうでしょう。作品の中で厳しく問いを追究し絶望的な答えを提示しながらも、ヴッパタール舞踏団のダンサーたちと密なつながりをもち作品を発表しつづけていたのですから。社会や人生に希望も感じていたのだと思うのです。

この度のピナ・バウシュ版「春の祭典」の来日公演は18年ぶりとのことでした。
次、また日本で「春の祭典」が踊られるときは一体誰が舞台に立つのでしょう?そして私たちに何を伝えてくれるのでしょう?
今からとても楽しみにしています。


【参考】

「ストラヴィンスキー作曲『春の祭典』 ——春を葬る祭り」鴻英良(演劇批評家)(2014)フェスティバル/トーキョー『春の祭典』当日パンフレットより

ヨッヘン・シュミット著、谷川道子訳(1999)『ピナ・バウシュ 怖がらずに踊ってごらん』フィルムアート社


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