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「研究者でもありたい」は贅沢か?

先日、サイエンスメディア「flasco(フラスコ)」さんのシリーズ「研究者の履歴書」に私の経歴を掲載していただきました! 自分のことを「研究者」と銘打って紹介される日が来るとは思ってもおらず、大変嬉しかったです。もし関心がございましたら、そちらの記事もぜひご覧いただければと思います。

今回の記事はflasco(フラスコ)さんに掲載された記事の裏話的なものです。

記事の中で、私は「研究者でもありたい」ということを書きました。これは人によっては大変贅沢にも聞こえる言葉かもしれません。どうして「研究者になりたい」ではなく「研究者でもありたい」のかについて、もう少し深掘りします。

研究者になることだけがキャリアじゃない

記事の中でも紹介されているように、私は大学から大学院へとストレートに進学してはいない人間です。学部から修士課程の間に4年、修士課程から博士課程の間に5年空いています。

大学に所属していないこれだけの期間の間に、知り合った別の大学の学生は大学の先生になった人もいます。その方たちの活躍が全く羨ましくないかといえば嘘になります。私の場合、経済的な理由がストレート進学できなかった最大の理由で、真っ直ぐ上がっていればもっと研究の能力も今よりずっと充実したものになっていたのかなぁと思わない日はありません。

一方、空白の期間をもったことで得たものは、実践の経歴です。

私の専門は教育学です。教育学といっても研究領域は多岐にわたりますが、私の場合は教授ー学習の過程という、応用的で実践的な領域に関心があります。空白の期間、小・中・高の理科教員や科学館の科学コミュニケーターと、幅広く活動する機会を得られたのは本当に貴重な経験をしたと思います。

研究者であることだけがキャリアではないと考えるのは、私にとって単なる批評ではなく、実体験そのものです。資格や経験は持っているので、その気になればもう一度そのキャリアに戻ることも全く不可能な話ではありません。実際、現場に出ることで得られる価値も存在していると思います。

教育実践は、研究の対象であると同時に、自分自身の一部でもあります。研究を行う上で、これは客観性を担保するという点で非常に難しい立場を自分に背負わせているともいえます。けれど、応用「も」重視している私にとって、研究と実践を両立させることは逃げることのできない使命といった印象があります。

研究者であり続けなければいけない理由

ここまで読むと「ならば『研究者でもありたい』という必要はないのではないか」と思われる方もいるかもしれません。

これについては、私自身、かなり不器用な生き方をしているなぁと思う部分があります。教育の実践者と割り切ることができれば、どんなに楽か。

けれど、私はその選択をしませんでした。

これを説明するには、まず私が研究者をどう定義づけているかについて触れる必要があります。

私の考える「研究者」とは、キャリアのことではなく、「科学的な探究の能力を有する者」と考えています。

教育の文脈でいえば、教育実践を客観的に分析したり、批判したりできる能力を有することだと思っています。私がすごくこだわっているのは、良かれと思って行った教育実践で、本当に学習者が学んでいるのかどうか、という点です。授業を行う上でのちょっとしたコツや小ネタについては正直そんなに関心はなく、それよりも本当に効果があったのかどうか、その一点が私の最も関心のある部分です。

しかし、これは言葉で言うほど簡単ではありません。実際、私は理科教員や科学コミュニケーションの活動をしているとき、研究活動をやらせてもらえない期間もありました。あなたの仕事はそれではない。研究している場合ではないと、はっきり言われたこともありました。実践の場で、私のような考えを持っている人間は少数です。煙たがれることの方が圧倒的に多くありました。

私にとってとても信じ難いのは、ちゃんとした批評もせずに、なぜ多くの教育実践者は自分の実践に自信や誇りを持てるのかという点です。

私は基本的に自分に自信がありません。物事を悪い方向に考えることに自信があります(苦笑)。ですから、基本的に自分の経験を最重視はしないのです。経験は自信を裏打ちするものであっても、自信そのものには直結しません。批評をやめることは私にとってはとても受け入れ難い態度です。

このような態度が形成された背景には、大学や大学院でお世話になった先生方の影響が大きいのかもしれません。教育学部に所属する大学の先生の中には、学校現場の授業に対して否定的な考え方を持つ人も少なくありません。特に理科に関していえば、観察や実験すれば理科が好きになるだろうと言う経験主義的な考え方を否定する方がいます。私もどちらかといえばそちらの側です。そちらにコミットした理由は、批判の理由のロジックがしっかりしていたからだと思います。

研究者とは、態度である

日本は他の先進国に比べると、大学院進学率は高くありません。大学院でしか学べないことがあるとしたら、物事に対するクリティカルな態度と本格的な探究スキルではないかと思います。といっても、人文・社会科学と自然科学、学際的な領域から芸術分野に至るまで、それらの態度は必ずしも一致しているものでは決してないので、一括りにしてしまうのはやや乱暴なのかもしれません。が、私はやはり「研究者」とはキャリアのことではなく、自分が取る「態度」のことでありたいなと思ってしまいます。

大学院進学率が高くない以上、この態度はなかなか他の人に共感されにくい嫌いがあります。もし周りが共感してくれる人ばかりだとしたら、その環境は社会全体の様態とはかなりかけ離れていると思うので、要注意です。

それでもこの記事のように文字にして残しておきたいと思ったのは、共感していただける人が少なからずいるのではないかと思ったからに他なりません。

これを読んだあなたはどう思いますか?もしよろしければあなたの考えも教えてください。

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漆畑文哉
最後まで読んでくださってありがとうございます!

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