今回は、『ごんぎつね』であまりにも有名な新美南吉の作品群の中で、彼が晩年に残した「少年もの」を中心に取り上げていきます。
また、スタイルを変えながらも彼が一貫して表現しようと努めてきた「悲しみ」とはどのようなものだったのか等も、あわせて辿っていきます。
主な作品と執筆年
まず、29才という短い生涯における南吉の作品群を、初期・中期・後期と、大きく三つの時代に分けてみます。(太字は、今回言及するものです)
初期
南吉は、愛知県の半田町に生まれました。4歳で母を亡くし、6歳のとき継母を迎え、8歳で亡き実母の実家へ養子に出されました。さびしく、孤独な生い立ちだったとされています。
旧制半田中学校(5年制)へ入学した彼は、2年生のころから童謡、童話をつくりはじめ、さかんに雑誌に投稿しました。たくさんの作品が掲載され、彼は創作の力を伸ばしていきます。
北原白秋が主宰する有名な「赤い鳥」にも作品が取り上げられるようになります。
また、旧制中学を卒業してから、小学校の代用教員の職に就いた経験も、南吉の創作人生に大きな影響を与えます。
最も初期の「巨男の話」は、こんな物語です。
彼は多くの作品を残しましたが、恵まれていたのは、そのあらゆる段階において「読者」や理解者・協力者がたいへん身近にいたことでした。
『巨男の話』を子どもたちに朗読したときのことを、南吉はこう記しています。
また、『ごんぎつね』は南吉18才の時に『赤い鳥』に掲載されますが、その原稿を大幅に赤入れしたのが、「児童文学の父」と呼ばれる鈴木三重吉でした。ここで南吉は、最高峰の添削指導を受けることにより、創作上の技術を磨くことができたのです。
この「ごんぎつね」でも知られるように、すでに初期から、南吉の主な作品の中心には深い「悲しみ」があります。そしてその味わいは徐々に深まり、純度を高めていく感があります。
中期
東京外語大に進学した南吉は、英文学を中心に西洋の文化を学び、ドストエフスキー等に感銘を受けます。
また、ここでも彼は文学仲間たちに恵まれます。
「かきねの かきねの まがりかど」で知られる童謡「たきび」の作者巽聖歌と知り合ったのもこの頃でした。
聖歌は南吉の死後、大戦が終わってから、たいへんな労を注いで南吉が残した作品を全集に編纂し、彼の名を世間に知らしめたのでした。
早期から漂うペシミズム
多くの童話や詩、小説を残した南吉ですので、様々なタイプの作品がありますが、童話を発表し始めた10代から、根底にある「悲しみ」は、ある面頑固なまでに彼の以降の作品群に表れています。
この時代に書かれた『でんでんむしのかなしみ』は、こんな話です。
若くして、読者である生徒に相対し自作を朗読した経験を通し、南吉の中に確信が生まれます。
それは、こどもたちが何に心を動かされ、何がその心に深くのこるのか、ということでした。
当時のことばに彼の生涯を貫く創作の核が記されています。
大戦の最中にあって、当時は、このような悲観的な内容のものは異質でした。国威を高揚させる教育が掲げられる中、反骨心の強い南吉は、我が道を貫きます。
彼は、国策に準じる同年代の作家たちに辛辣な言葉を投げています。
彼にとって、「読者に向けて書く」ということは生きることそのものであり、国政や状況が変わればコロコロと表現や主題が変わるべきものではない、という文学的な志が人一倍強かったのでした。それだけ真剣に、読者であるこどもたちに向き合い、一途に文学に取り組んだのでした。
後期(晩年)~この世界にただよう、原初的な「悲しみ」
南吉が大学を出るころ、日本はちょうど太平洋戦争に向かっているさなかでした。景気は悪化し、南吉もなかなかよい職にありつけず、苦労をします。
しかし、そんな彼を見かねて、彼の才能を確信していた教育関係者らの尽力によって、彼は愛知県安城市の女子高校(当時は小学校を卒業すると、女子は4~5年の「高校」に進学した)にて国語と英語の教職に就きます。
この約5年間は、結果的に南吉にとって晩年となってしまいます。
しかし、創作に集中するための経済面及び環境面に恵まれた、最も幸福な時代でもありました。
生徒たちとの交友は生涯続きました。中でも各生徒への作文指導に力を注ぎ、手製による交換詩集を6冊出しています。
この時代に並行的に書かれたのが、「久助もの」を中心とした、少年たちの日常と心理を描いた一連の小説群でした。
ここで南吉は、これまで日本の児童文学になかった領域を開いていくことになります。
南吉は、20過ぎに結核を発症します。この時代、結核は死病として恐れられており、特に青年が早逝することが多い病でした。
南吉は結核によって母を29で亡くし、叔父も同じ歳に同病にて他界しました。自分も同様に早逝することを予感していたのかも知れません。
この時期も、南吉は童話を発表し続けました。しかし、この頃から後に「少年もの」と呼ばれるようになる作品群を集中的に書きます。
これらの「少年もの」は、小学校高学年の主人公「久助君」のシリーズが中心となります。
設定は様々なのですが、どの作品の主要シーンを切り取っても、同様の空気が漂っているのです。まるで画家が、同じモチーフを何度も繰り返し描き出そうと試みているように・・・その「本質」を、「純度」を見極めるために。
その「空気」とは、「ばくぜんとしたかなしみ」のようなものでしょうか。評論家の谷悦子氏は、以下のように端的に表しています。
少年もの①「久助君の話」
例えばまず、26歳の時に書いた「久助君の話」は、以下のような内容です。
世界(他者)と自分との間に垣間見える「違和感」のようなものでしょうか。
少年もの②「川」
次の年に書かれた「川」では、同じ久助君と兵太郎君が登場します。
しかしここでは、現実離れした、少し不思議な話が展開します。
少年もの⓷「疣」
あるいは、『疣』でそれ・・・「悲しみ」は、以下のような設定で表されます。
このような景色や感情は、程度の差こそあれ、誰しもが体験するものではないでしょうか。普通はやり過ごされるものですが、後になって振り返ってみると、人生に大きな意味を持っているものなのかも知れません。
また、「小さな太郎の悲しみ」では、さらに幼い少年が主人公ですが、早くから「諦念」さえ感じさせます。
そして、こう続きます。
これはもはや、単なる「子どもの悩み」の域を超えています。
南吉の作品は当時、「このような少年は子供らしくない」として一般の文学的評価は低かったと言われています。
しかし、子どもであっても、このような体験をしたり世界の不条理をうっすらと垣間見る瞬間があるのも、事実ではないでしょうか。
そして南吉は、こんな考えも綴っています。
南吉の詩
この晩年の数年間は、南吉にとって創作上、最も幸福な時期でした。
高校教師として安定し、かつ、好きな文学をその生徒に直に指導できるという環境の中、南吉のインスピレーションは大いに発揮されたのでした。
この時期に、先に挙げた複雑な心理を扱った「少年もの」が書かれています。登場するのは主に少年たちですが、きわめて文学的な内容を理解する辛辣な「読者」として、女学生の彼女たちは適していたのかも知れません。
また、この時期に南吉は、生徒たちに「詩」を指導するとともに、自身もいくつかの重要な作品を残しています。
生徒たちとの平穏な文学的交流の時期でもあって、南吉のあたたかい心情が素朴に語られた以下のような作品があります。
しかし、その一方で、いかにも暗く不気味な「現代詩」を同時期に残しているのも、南吉らしさと言えるかも知れません。
南吉の志は半ばにしてついえてしまいましたが、彼はそれまでの児童文学に、かつて誰も踏み込もうとしなかった表現領域を切り拓いたのでした。
新美南吉(1913―1943 愛知・児童文学者)
10代の末にすでに『赤い鳥』に「ごんぎつね」その他が掲載された。1932年(昭和7)東京外国語学校英語部入学、小説、童話、童謡を書く。卒業後、貿易商に勤務したが喀血で帰郷。不遇な時代を経て、38年安城高等女学校教諭となる。また巽聖歌編の『新児童文化』に「川」「嘘」などを発表。41年『良寛物語・手毬と鉢の子』を、42年第一童話集『おぢいさんのランプ』を刊行。同年5月には「牛をつないだ椿の木」「百姓の足・坊さんの足」ほか数編の傑作を集中的に書くが、翌年3月咽喉結核で没。死後、第二童話集『牛をつないだ椿の木』、第三童話集『花のき村と盗人たち』(ともに1943)が刊行された。その作品は第二次世界大戦後高く評価され、宮沢賢治と並び称せられるに至る。