今回は、有名な『檸檬』を中心に、梶井基次郎の作品といくつかのエピソードをあわせて紹介していきます。
野性の「詩美」
夜の果物屋に陳列された果物たちを、彼はこんなふうに描写します。
文庫版で10頁ほどの『檸檬』は、「私小説」とも「掌編小説」とも言えます。あるいは、「起承転結のある散文詩」というのがより具体的かも知れません。
既存のどんなジャンルも枠をも超えたエネルギーと独特な詩情が、『檸檬』には満ちあふれているのです。
この異才に対して、多くの文学者が様々な賛辞を送ってきました。中でも評論家の 井上良雄が梶井の本質を的確に表しているように思われますので、先に紹介しておきます。
つきまとう「えたいの知れない不吉な塊」
『檸檬』の内容はすでに広く知られているかと思いますが、まずは簡単に紹介しておきます。
本文からの引用をまじえながら、さらに詳しく彼の足どりを追っていきます。
熱に浮かされ心を病んだ彼は、自分を癒してくれる「みすぼらしく美しいもの」に強く心惹かれています。
しかしやがて、そのようなものたちでさえも、彼を愉しませてくれなくなります。
そしてあの「不吉な塊」に追い立てられるように、病んだ胸で息を切らしながら、あてもなく京都の街路や裏道を歩きまわります。
ある晩に彼は、前から気に入っていた寺町通の果物屋の前で足を止めます。
そして、闇の中に浮かぶ果物群の美しさに目を奪われます。
黄色い不思議なかたまり
そこには珍しく、彼が好きなレモンが並べてありました。彼はそれをひとつ買います。
そのレモンを握っていると、不思議なことに始終心を抑えつけていた憂鬱が軽くなり、彼は高揚した気分で街路を闊歩します。
彼は久しぶりに、かねてからのお気に入りであった丸善に立ち寄ってみることにします。
しかし、店内をめぐるうちに、歩き過ぎた疲労からなのか、憂鬱のもやが再び立ちこめてきます。
大好きだった画集のどれを開いてみても、重い気分は晴れません。
ふいに彼は、買ってきたレモンを思い出します。
ある奇行が頭に浮かびます。
・・・高く積みあがった画集の頂点に、その檸檬をそっと置いてみてはどうだろうか・・・
『檸檬』は、試作を重ねた末、梶井が25歳のとき文芸誌「青空」に発表されました。作品は、当初は全く売れませんでした。
肺には卵大の穴が空いていたと言います。それでも吐血しながら彼は放浪を続け、触覚に触れてくる事物や体験を独自の感性によって描き続けます。
周囲に愛された、心優しい「熊」
梶井は、そのごつい体躯や風貌から友人らに「熊」と呼ばれていました。
彼は、その破天荒さでも有名でした。
泥酔してラーメン屋の屋台を引っくり返したり、家賃が溜まった下宿から逃亡したり、料亭の池に飛び込んで鯉を追ったり、また、街中での大喧嘩も一度や二度ではありませんでした。
病と貧困にあえぎながらの破滅的な日々でしたが、彼の僥倖は、文芸誌の同人らをはじめとする友人たちに助けられてきたことでした。
荒くれな反面、彼は人懐こく心優しい好漢でもありました。
茶目っ気やユーモアがあり、それは作品のちょっとしたところにも顔を出しています。
浮浪する彼を、様々な知人友人たちが自宅に泊めてくれます。
2歳年上の川端康成にも可愛がられ、「伊豆の踊子」の校正を任されたほどでした。
また、そこには、野放図さとはかけ離れた彼の繊細さと才能の片りんが記されています。
他にも多くの作家や文学者が、追想の中で、その才能のみならず彼の人柄に触れています。
恋
梶井は、歌会で知り合った作家の宇野千代に、終生片思いの恋情を抱き続けました。宇野は彼より4歳年上で、夫(尾崎士郎)がいました。
二人の仲を勘ぐった尾崎との間は険悪になっていきます。
尾崎は当時のこんなエピソードを遺しています。
宇野千代とは、終生結ばれることはありませんでした。
叶わぬ恋ではありましたが、彼女が遺した回想記に、男女を超えた二人の絆が覗えます。
彼は、子どもたちにもよく慕われました。
貧しい五人兄弟の次男であった彼には、幼い腹違いの妹もいました。この子も彼にたいへんなついていましたが、3歳で病死してしまいます。
梶井の悲しみの表現は、ここでもどこか常人離れしたものが感じられますので、挙げておきます。
病状がさらに悪化するにつれて酒量は増え、素行も荒れていきます。鯨飲の末の大立ち回りも茶飯事であり、ヤクザにビール瓶で頭を殴られたりもしました。
そして彼の作品は死の色をさらに濃くしていきます。
死への猛進
『檸檬』以降、彼の作品の闇は広がっていきます。それでも彼は疾走を続けます。そして闇に呑み込まれるにつれ、作品は妖しい発光を帯びていきます。
短編『冬の蠅』では、温泉地に療養に訪れた際の暗澹たる体験が綴られています。
彼は、その温泉地の郵便局へ行った後、気まぐれに乗り合い自動車に乗り、でたらめに山中まで走らせてから降車します。
無人の山道を歩くうちにやがて陽は落ち、彼は完全な闇の中に埋もれてしまいます。
燃え尽きる
残された最後の生命を絞り出すように、彼の彷徨は加速していきます。
そして遂に倒れ、生地である大阪の病床にて力つきます。
最期は母らに看取られ、「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌し、涙を流しながら息絶えたといいます。
極限まで張り詰めた流浪の日々が、ようやく終了したのでした。31歳の若さでした。
全編が緊密な詩の塊ような作品なので、抜粋を続けるとそれは「全編」になってしまいそうです。ですので、ここでは割愛しがたい描写をあといくつか紹介するに留めます(注・ただし、エンディングも含まれます)。
梶井の作品は、その短命もあって20編ほどしかなく、ほとんどが発行部数の少ない同人誌に書かれたものでした。
当時は、芥川、谷崎、志賀、島崎らが華々しく活躍していた時代でした。
彼はその遠く離れたところにおり、「文壇」からは無視され続けました。
しかし、三好達治ら友人たちが力を合わせて梶井の作品集『檸檬』を刊行したのでした。そしてやがて、世間は梶井の存在を知るようになりました。
死と隣り合わせに生きる中で研ぎ澄まされた感受性、そして鬱と躁の両極が強く引き合う緊迫から発火したような幻想的なイメージ群・・・
それらは、「原人」梶井基次郎の無垢な目がこの世界に観た、ありのままの景色だったのでしょう。
最後に、『檸檬』の結末を挙げておきます。
梶井基次郎 (1901-1932~大阪・小説家)
早くから頽廃的な生活を送り肺結核に罹患したが、作家の中谷孝雄らと知り合い、文学への道を志した。その中谷らと雑誌『青空』を創刊し,同誌に『檸檬』『城のある町にて』(1925)など後に梶井の代表作とされる作品を発表したが、文壇からは注目されなかった。26年から伊豆の湯ヶ島温泉に転地療養し、その間に『冬の日』(1927)や『冬の蠅』(1928)など、生と死の極点を凝視した作品を書いた。その後病状が悪化し、『交尾』(1931)、『のんきな患者』(1932)を発表したのちに他界した。ボードレールの『パリの憂鬱』を座右の書としていた。
(記事では『檸檬』本編の1/5近くも抜粋してしまいました。どこを切っても同様な美しさが味わえますので、是非全編をお楽しみ下さい。朗読版もいくつかあります~個人的には上掲 のものがお勧めです。)