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6月5日(火)文章で他人の旅を追体験するということー『深夜特急』

『深夜特急』という小説の存在は知っていた。旅をする話で、何となく長い距離を移動する話だというイメージもあった。そんな曖昧すぎるイメージで、なぜか今まで手に取ろうと思ったことは一度もなかった。

読まねば、と思ったきっかけは、このnoteを「深夜特急みたい」と言った人がいたことだった。有名な作品と知っていたので嬉しかったけれど、読まないまま手放しで喜んでいるわけにはいかない。それに、自分の今の状況は、世界を旅するような文章を読むのにちょうどいいと思った。

その矢先、深夜特急が気になっている、という話を会社の上司にすると、全巻持っているという。なんという幸運...... Kindleか何かで電子書籍でも買おうかと覚悟していたが、紙で読むことができるとは。お言葉に甘えて、まずは1,2巻を借りた。

深夜特急がそもそもバスでロンドンを目指す物語であり、その一連のシリーズは国ごとに書籍になっているということは読み始めて初めて知った。

1冊の頭から終わりまで、クラクラするほどディープな内容。文章で綴る旅行記というのは、こういう綺麗でない世界を記そうとするときのためにあるのだなと思う。

1巻を読むと、旅の世界の「沈没」という言葉のイメージだとか、1晩数百円の安宿に集まる人々の間の緊張感が、カジノで何百ドルも溶かしてしまう人間の心情が、ありありと想像できた。そういう写真には残せないような、むしろありのままを記録するのは憚られるんじゃないかというようなものを書けることが、文章の魅力であるように思えた。

深夜特急を読んでいて、ふと、ある1冊の本の記憶が蘇ってきた。辺見庸の『もの食う人々』である。この記事の中での説明が、いちばんよくこの本の内容をまとまって表していると思う。

わたしが『もの食う人々』に出会ったのは、中学生のときだった。確か図書室の、下から1番目か2番目の段にあって、読書感想文か何かに使う本を選んでいたときだったと記憶している。そこで何故かわたしはこの本を手にとり、綺麗なだけでないリアルな異国の風景を知った。

上の記事の紹介に書いてあるが、ダッカの残飯市場の飯とチェルノブイリの放射能汚染のスープのエピソードは、今でもそのイメージが浮かぶくらいには頭の中に残っている。わりと、食に関してよほどのことでは動じないのは、この本の内容が過酷さの天井として張り付いているからかもしれない。

まだ外国へ行ったこともなかった時にこの本に出会い、世界で生きる人々の現実を知ったことが、漠然とした海外への憧れの原体験になっている気がしている。

『深夜特急』、今はまだ、香港・マカオが終わったところ。筆者がロンドンへたどり着くまでには、どんな情景を見られるのだろうか。




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