07:自由な巡回スピッツ(片口鰯の章)
「あ、煮干ししかない……」
台所の棚をごそごそと漁って、風間浩也(かざまひろや)は思わずつぶやいてしまった。自分しかいない一人暮らしのアパート。たまの休日、だらだらと過ごし、真っ昼間からビールを飲もうとしたまではいいが、つまみになりそうなものがない。やっと見つけたのはカタクチイワシの煮干し……
「まぁ、いいか……」
買いに行くのも面倒臭い。
カプシ!
缶ビールを開け、グビグビと飲み干す。
ぷはーーーっ!
ボリボリと煮干しを噛みながら「煮干し……正解かも」と一人うなずく。
口の中に旨味がじわじわひろがる。
スマートフォンを取り出し、料理レシピ・アプリで「煮干し」と検索してみた。
あっという間に「煮干しのピリ辛漬け」というレシピが画面に現れる。
「おいしそうだなぁ〜。簡単だし……」
フライパンで煎った煮干しを、酢、醤油、粗びき韓国唐辛子、ごま油の調味料とざく切りの万能ネギと混ぜ、馴染ませる。煮干しがしっとりしたら出来上がり。
(これは酒にもご飯にも合うだろうな、きっと……今度、韓国唐辛子を買いに行こう。あ、家庭訪問のついでにアメ横で探すとするか)
今日の天気は悪くない。溜まっていた洗濯物を干したらどこかに出かけるのも何だか億劫になってきた。
それに休日とはいえ、上野御徒町(うえのおかちまち)中学校の教師が昼間からアルコールを入れて、ふらふらと散歩しているところを誰かに見られるのも面倒臭い。
独り身だからいいものの、妻子がいたら日曜日も家族サービスで大変だろう。四〇代で独り者というと生徒の保護者からも同僚の先生達からもまるで欠陥人間のように見られることが多い。だが、何よりも気軽で気ままに生きていられるのがいい。浩也の大好物は「自由」だった。のんびり屋で、一人でいることを好んだ。
ヒラヒラと揺れる洗濯物を見るのも飽きてきた浩也は、何気なくテレビをつけてみた。
「……のように、ワンちゃんに人間用の味付けのされたサバやイワシの缶詰などを食べさせてはいけません」
ペットの情報番組らしいがいきなり注意事項から見てしまった。
「うちのプリンセスちゃんはそんなもの食べないから大丈夫です」
太った中年女性が、服を着せたポメラニアンを抱えて、上品そうに答えている。
浩也は煮干しをバリバリとかみ砕きながら、ある犬のことを思い出した。
「チロは何でも食べてたな〜。それに服どころか首輪もほとんどしてなかった……」
* * * *
昭和四〇年代、北陸の田舎町。
街中に野良犬はうろうろと歩き回っていた。普通に路上で暮らしていた。人間もそれが当たり前のことと捉えていた時代。野犬騒ぎも狂犬病もどこか違う世界での話だった。保健所も野良犬を捕まえていただろうが、首輪さえ付けていれば見逃してくれていたような気がする。良くも悪くも管理されてない、大らかな時代でだった。
当時、チロは何歳だったのだろう。浩也は小学生だった。
チロは野良犬ではなく、飼い犬だった。
それも、浩也が飼っていた犬ではない。
日本スピッツが混ざった雑種犬だが、うるさいイメージとは違い、全く「キャンキャン」と吠えるような犬ではなかった。どちらかというと、どっしりと構えて落ち着いており、「ひとの話が聞ける男」だった。とはいっても、見た目は可愛く、目がくりくりっとつぶらで、小首をかしげてジッと見られると抱きしめたくなる容姿も人気があった。
チロは町のアイドルだった。だが、彼の飼い主のことや住まいなどの詳細はあまり知られていなかった。
色は真っ白でもっふもふ……だが、どんどん薄汚れてくる。すると飼い主がたまに洗ってやるのだろう。当時、犬用のシャンプーなんて田舎の人間に知識があるわけがない。チロは人間用のシャンプーでゴシゴシと無造作に洗われていた。チロにとってはたまらない拷問だったらしい。何せ、犬の嗅覚は人間の千倍から一億倍といわれる。香料がタップリ入った人間のシャンプーで洗われた日には、体中から人工的な臭いがまとわりついて離れない。
ある日、浩也が町中でチロを見かけた時のこと。チロは猛ダッシュの真っ最中だった。こんなに焦ってる彼を見るのは珍しい。チロのあとからついていくと、チロは雑草が生い茂る空き地に横になり、背中から全身を地面にこすりつけている真っ最中だった。先ほど真っ白になったばかりなのに、あっという間に汚れてしまった。体中に猫じゃらしと呼ばれるエノコログサがくっついていた。今、思い返しても浩也はおかしくなる。あれは臭いを取りたくて必死だったんだな……。
飼い犬でありながら一日中、町中で過ごし、歩き回るチロ。見かけると町の人たちは「チロ、おはよう。今日は寒いねー」などと普通に声をかけた。
チロは巡回犬だった。別に彼の任務ではない。気に入った家を好きで回っているのだ。
一日かけて町中を回り、立ち寄る家が13件ほどあるようだった。
家によっては、顔を出してすぐ帰る家、昼寝する家、ご飯を食べる家と分けて考え、それによって彼の中で優先順位も存在した。立ち寄る家の人間も観てのことだろう。彼は決してひもじくてご飯を貰いに行っているわけでもない。だから、へりくだったりしてるようにも見えなかった。どちらかというと誇り高い犬だったのだ。
チロの巡回コースの中に浩也の家も入っていた。
浩也の母親は、犬を「愛玩」ではなく、「労働する者」か「子分」と考えていた。何故なら、浩也の母親は北海道の山奥にある小さな牧場で育ったからだ。実家はとにかく貧乏で、子供の頃に「仲良しの馬や牛が売られていく時、トラックを犬と一緒に泣きながら追いかけた」という話を聞かされた。浩也はその話を「ドナドナだよ。リアル・ドナドナの世界が日本にもあったんだよ」と友人に披露した。
そんな経験がある母親だから、犬の扱い方は決まって「上」からいく。立場がハッキリしている。猫なで声は出さないし、犬目線までしゃがんだりしたこともなかった。
そういう扱いの方が犬からの信用を得るのか、チロは浩也の実家によく来ていた。毎日ではないところが彼の気まぐれさ、自由さを表していたが……。
浩也の家に来ると、玄関先の土間で寝ていた。引き戸が閉まっていても自分で開けて入る。そんなことは朝飯前だ。そして、浩也の母親が現れるとサッと立ち上がり、キラキラした眼になる。母親は「煮干し」を食べやすく折って、チロに投げてよこす。食べ物は、時にハムだったり、せんべいやおかきだったりもした。チロはどこに投げても上手く空中でキャッチした。一つの芸になっていた。浩也は自分も投げてみたくてしょうがなかった。母親に「ボクもあげたい」というと「煮干し」を渡された。それを空中に放り投げると、どんなにノーコンでもチロはパクッとキャッチしてくれる。天才だった。別にどこで芸を仕込まれたのではなかった。彼にとっても浩也の母にとっても普通のことだったようだ。テレビ番組に「芸をする犬」が登場すると、浩也の母親は「あんなのチロは普通に軽々できる。チロの方が頭がいい」と、まるで自分の弟を褒めるように言っていた。
「煮干しってそのまま食べてもいいの?」
浩也にとっては「煮干し」は出汁をとるもの。そのまま食べたことがなかったから、母親に素朴な疑問をぶつけてみた。
「カタクチイワシなんだから当たり前だよ。栄養もタップリだ。お日さまに当たって、もっと栄養が上がってるよ」
母親は「栄養」としか言わなかったが、大人になってからそれが、脳細胞を活性化し、老化や動脈硬化を防止する「DHA」だったり、中性脂肪を低下させ、がん細胞を抑える働きがある「EPA」ということを知った。もちろん、疲労回復、貧血防止、美肌にもいいなんて子供の頃にはピンとくるはずもない。
「あ、だからチロは頭が良かったのかも!」
「煮干し」の栄養が犬にも効果があるかどうかなんて、それは教師になった今でも分からない。
チロはひとしきり食べ終わると、玄関の土間で昼寝をしていく。時には浩也が帰宅するとすでにチロがお昼寝中だったこともあった。まるで、飼い犬が「おかえり」と言ってくれるかのような日々だった。
またある日、母親と歩いている時にチロを見かけたことがある。チロはリヤカーを引いている痩せたおばあさんと一緒だった。一緒というよりも、おばあさんのお手伝いをしていた。痩せたおばあさんがよたよたと弱々しく引いているリアカーを後ろから押していたのだ。前足二本をリアカーの端に置き、後ろ足二本で立ち、よちよちとついていく。
「お手伝いで押しているつもりなんだ!」
小学生の浩也は感動した。いや、そのよちよち歩きがカワイイのなんの……衝撃の光景だった。なんて、健気なんだろう!
すると母親は「あれはチロを飼ってるおばあさんだよ」と教えてくれた。
浩也は再び感動した。
「やっぱり、ご主人様のおばあちゃんが一番好きなんだね!」
すると、おばあさんとチロの様子を見かけた町の人たちが次々と手を貸し始めた。
「チロ、オレも手伝ってやるよ。お前の仕事とっちまうぞー」
「ばあちゃん、替わってやるから休んでなよ」
チロをきっかけに、みんな優しい人になる。チロはそんな存在だった。
浩也にも忘れられない出来事があった。
ある日の学校帰り。いつも一緒に帰るクラスメイトや下級生の子達から浩也はポツンと離れて歩いていた。ちょっとしたことがきっかけで仲間はずれに遭っていたのだ。一日、口も聞いてもらえない。無視される。
いつもは仲が良いリーダー格の孝(たかし)がわざと大きな声を出した。
「浩也が来たからあっち行こうぜー」
「誰かさんがあとからついてくるけど、知らんぷりしようぜー」
方向が同じ子供四、五人はぶらぶらしながら浩也の先を歩く。浩也は背負ったランドセルの肩ベルトを両手でギュッと握りしめながら、うつむいて歩いた。
急に駆け出したら負けのような気がする。泣くのも違う。こびたところでもっと情けなくなるだろう。所在無げな気持ちをぶつけるために浩也はいつの間にか石ころを蹴って歩いていた。
その時、前方の子供達が声を上げた。
「あっ、チロだ!」
「チロー、来ーい、来い、来い、来い……」
浩也は心の中で「チロに犬っころを扱うような、そんな言い方……」と鼻で笑った。だが、考えてみればチロも犬なのだから、まぁ、間違いではないのだろうが。
リーダー格の孝は得意げに「チロ! お前、元気だったか〜。近頃来ないからさぁー」とチロに手を伸ばした。孝の家もまたチロの巡回コースに含まれているらしい。孝はそれを自慢げに胸を張っている。回りの子供達も孝を「すげー!」と尊敬の眼差しで見ている。
ところが、チロは孝が伸ばした手を嫌そうに避け、ずっと後ろにいる浩也を見つけると急にダッシュした。
「あっ、チロ! どこ行くんだよー!」
チロは浩也の前に行くと、浩也に向かって「オン!」と吠えた。
嬉しそうにしきりに尻尾を振っている。浩也の回りを尻尾を振りながら回っている。
チロは普段、吠えたりしない。だから、鳴き声なんて聞いたことがなかった。スピッツはキャンキャン吠えるものと思っていた浩也も一瞬戸惑った。だが、「自分一人に来てくれたこと」と、まるで「浩也ぁ、元気出せよぉ!」と言ってくれてるようで嬉しくてしょうがなかった。チロの様子を見ているうちに自然に笑っていた。
「チロったらぁ〜! 目が回っちゃうよ〜!」
すると今まで前方を歩いていた子供達が浩也の回りに集まってきた。
「浩也、すげー!」
「チロと仲良しなんだねー」
「チロ、すっごい嬉しそう」
今まで鼻高々だった孝も悔しがるどころか、チロの様子にあっけにとられて、浩也に話しかけてきた。
「浩也と一緒にいるとチロと遊べるなー。何たって、仲良しだもんなー!」
どうやら「仲間はずれ」はチロのお陰で終わったようだった。
浩也は笑いながらも心の中で「実はお母さんのお陰」であることに何となく気づいていた。
チロの中の優先順位では、浩也の母親は、飼い主のおばあさんの次ぐらいなのだろう。
* * * *
それから数日後の夏のはじめに、浩也は海岸通りでチロを見つけた。
浩也は「チロー!」と手を振ると、急に海に向かって駆け出した。それに気づいて、チロもすごい勢いで走ってくる。
夏休みの始まった日。雲ひとつ無い絵に描いたような青空。太陽がジリジリと照りつけ、アスファルトからの熱気が浩也たちを包んでいる暑い夏。セミたちも「暑いよ、暑いよ」と一斉に鳴いている。
浩也は防波堤を乗り越え、海にせり出した桟橋に向かった。チロも猛スピードでついてきた。と思ったら、あっという間に浩也と並んでしまった。
桟橋から浩也は思いっきり海に飛び込んだ。
すると、同時にチロも一緒に海に飛び込む。
真っ青な空の下。澄み渡った青い海。まだ海水浴客も誰もいない海岸。眩しい夏の陽射しを浴び、浩也は真っ白な犬と一緒に泳いだ。チロは必死に犬かきだ。
浩也とチロはひとしきり泳いだら海岸に戻った。海から上がった途端、チロはブルブルとすごい勢いで体を振り、水を飛ばす。
「わわわっ! やめろよ、チロ!」
そして、二人っきりで海岸の日陰で横になった。浩也は大の字だ。
「チロ……こないだは……ありがと……」
チロは浩也を見ているが、はっはっと舌を出しているだけで、もちろん答えるわけがない。だが、浩也を小首をかしげて見てくれている。
浩也は、ポケットから「煮干し」を取り出した。濡れてしまったから「煮干し」はふにゃふにゃだ。それをポンと放るとチロは上手く空中でキャッチした。はむはむと嬉しそうに食べている。
浩也もふにゃふにゃになった「煮干し」を食べてみた。
意外にもとても旨かった。
母親は出汁を取った後に「煮干し」を取り出さずにそのまま味噌汁の具にしていた。
浩也はそれが嫌いで絶対に食べずに残していた。なんか、ビンボー臭い。うちは貧乏じゃないのにさ……。でも、これからは食べてみよう。わりとおいしいな。
チロが目の前で次の「煮干し」を期待するかのように浩也を見ている。
「チロ……これはお礼だよ。ナイショのお礼……男同士の秘密だよ!」
チロはただ、はむはむと「煮干し」を食べ続けている。
そして、食べ終わると急に浩也に向かって小さめに吠えた。
「オン」
何か、答えているように浩也には思えた。
「気にすんなよ、浩也……」って。
伏せの体勢でキリリと顔を上げているチロ。胸を張って雄々しく見えた。浩也はそんなチロを見ながらふと気づいたことがあった。
「チロってさぁ〜。レオみたいだなぁ。ジャングル大帝だね」
浩也は再び、大の字になって、いつの間にか青空に一つだけ浮かんでいた大きな雲を見つけた。チロは隣に座っている。
(あの雲も……チロに似てるなぁ〜)
チロが雲を眺めながら浩也に向かって、何か言っているような気がした。
「浩也! 誇り高く、自由でいようぜ!」
(チロ、お前の教え通りに生きてるよ。良いのか悪いのか分かんないけど……な)
二缶めのビールを開けた浩也は、「煮干し」をかじりながら苦笑した。
(やっぱり明日、アメ横に韓国唐辛子を買いに行こう)
揺れる洗濯物の隙間からスピッツの形をした白い雲がゆっくりと流れていった。その雲に、亡くなった妻が乗っているような気がした。
(片口鰯の章 ◆ 終)
表紙イラスト:布施月子(日本画アーティスト)