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岡田泰紀
2021年5月3日 01:13
その日の朝、いつものように公彦の弁当を作っていると、早朝にもかかわらずインターホンが鳴った。刹那が出ると、相手は警察だった。「林公彦さんはいますね?」「いますか?」ではなかった。刹那は来訪の理由も解らぬ、招かざる客に激しく不安を覚えながら、朝食中の公彦のところにかけ戻った。「お父さん、警察が来てる。ねぇ、何かあったの?」公彦は少し驚いたようだが、不安げな眼差しと曖昧な表情を浮
2021年5月3日 01:15
その日、公彦は警察に出向いたまま、帰ってくることはなかった。それはおそらく、望んでいない事態になりつつあることを示している。実家から絆を保育園に迎えに行き、自宅に戻って夕食を作ってはみたが、家の主がそれを口にする機会はなく、二人で先に食事を済ますしたものの、気持ちは定まりはしない。何一つ確かなものが不在であることの不安は、ほとんど恐怖に近い感情になった。刹那は連絡を待ち続けたが、夜中にな
2021年5月4日 10:59
40代とおぼしき、背が高く、一重の眼が無感情を醸し出す担当刑事は、刹那が去る直前に絶望的な助言をした。「林さん、帰ったら身の回りの必需品を早急にまとめ、しばらく家を離れてください。明日の新聞に実名で事件が報じられるでしょう。有名人でもありませんし、過度の傷害や強盗容疑はないとはいえ、多分今までと同じ生活は送れないと覚悟された方がいい。あと、マスコミには一切取り合わない方がいいです。
2021年5月5日 00:38
遅い昼食を終えて、隣の部屋で絆をブロックで遊ばせることにして、サキと刹那は居間で向かいあった。刹那は警察で聞いた、公彦の犯した詳細を話し、逮捕を受けて明日の新聞で実名報道されることを伝えた。サキは黙って聞いていた。刹那の話が終わって、二人は沈黙した。何を話していいのか、二人には皆目検討がつかなかった。しばらく考えた末、サキは重い口を開いた。「お母さんは、こんな時、何を言っていいか
2021年5月15日 23:23
林の両親の電話を着信拒否にしている刹那に代わり、サキが会って話を聞いてきた。サキに連絡があったからだと言う。「あんたの人生だから、私がとやかく言うことはないけど」買い出しに行く以外籠りきっている娘の部屋を訪れて、サキは机の上の離婚届けを手に取った。「終わりにするのはいいけど、話もしなくていいのね?後悔しない自信があるなら、それ以上は何も言わないそれと、聞きたくなければ、お義父さん
2021年5月16日 23:14
浮世から身を隠し、親子で寄り添って生きる暮らし。いや、寄り添ってなどいない。息子はまだ4歳。母親にすがることしかできない生き物。息子が私に寄り添って、では、私が寄り添える、私を支えられる人は誰?お母さんは、そうかもしれない。でも、それは、ほんの一部。お母さんも自分でわかっている。私のことがよくわからないことを。私は、親しい友人を作ってこなかった。人が、苦手だった。みんなが思うよ
2021年5月19日 00:33
離婚届けと共に送られてきた封書には、林の直筆の手紙が入っていた。刹那はまるで儀式でもあるかのように、サキをアパートに呼んで、その手紙を読むことにした。刹那の気持ちは、埋め合わせができないほどに開いた虫食いの穴のようだった。サキを前にして朗読するまでその手紙には触れていなかったのだが、便箋を開くと、おそろしく拙い文字が、それは大きさも不揃いで、真っ直ぐに並ぶことが困難ですらあるかのような始
2021年5月22日 01:16
執行猶予がつきそうもないというのは、濱田美由が和解を拒否したことを意味する。林の代理人から様子を聞いたサキは、それを刹那に伝えた。刹那がかつての夫に面会に行くことはなく、サキは代わりに行ってみようかと思いつつ、娘が選択しないことを自分がするのもどうかとは思う。絆が新たな保育園に入ることができたのは、シングルマザー支援をしてきたサキの信頼があってのことだが、刹那自身の社会復帰をどうすべきな