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デザインで肩身の狭い書き言葉 #332

「なぜデザインでは文章がアウトプットとして認められないのか?」という問いをよく考える。パーソンズ美術大学に留学していた時には「Show us, not tell us」という言葉を何度も聞いた。「言葉で説明するのではなく作品を見せろ」という意味だ。

この言葉に「デザインらしさ」を感じて身につけたいと思ったと同時に、私にとって自然にできることではないとも感じていた。つまり、「なぜ文章で伝えたいのに一度別の何かに表現し直す必要があるのか?」という疑問を抱き続けていたのだ。自分のアイデアを整理して文章にまとめたとしても、「長いよ。結局何が言いたいの?」と言われるのが関の山なのだ。

そんな時、「ゆる言語学ラジオ」の「ビジュアルシンカー回」でその理由が分かった気がしたので言語化してみる。


ビジュアルシンカーがマジョリティだから?

「ゆる言語学ラジオ」では『ビジュアル・シンカーの脳』を種本に話をしていた。詳細は動画や書籍に譲って概要だけ紹介すると、この世界には大きく分けて「視覚野で考えるビジュアルシンカー」と「言語野で考える人」がいて、現代社会は言語化が評価されるからビジュアルシンカーにとって生きづらいという話だった。

この科学的知見を知ると、前述の「Show us, not tell us」という言葉がデザイン業界で言われることも納得がいく。おそらくビジュアルシンカーが多数派であるデザイン業界では「言葉で説明されるよりも作品を見せてもらった方が伝わる」というのが暗黙の了解で、デザイナーの思考特性から生まれた標語なのだと推測できる。

日本に目を向ければ、美術大学の入学試験にはデッサンという他の受験方法にはない選抜方法を含むため、美術大学とそれ以外の大学の受験者層は重ならないはずだ。そして、基本的にデザインは美術大学で学ぶことになっているから、デッサンが得意な人がデザイン業界を担うという構図になる。こうした環境では、言葉で説明する・されるよりもビジュアルで説明する・される方が伝わる人たちがマジョリティなのだと推測される。

一方で、私はこうした正統なルートでデザイン業界に足を踏み入れたわけではない。私は大学受験を経験して工学部に入学し、パーソンズ美術大学の受験でもデッサンなどのビジュアライゼーションの能力を問われなかった。先天的にどちらなのかは分からないが、今の私は言語思考寄りだと思う。おそらく大学受験という自分の解答を文字で伝えることしかできない環境に長くいたことで、言語で思考・表現する能力が後天的に鍛えられたのだと思う。

生粋の「芸術家肌」ではない私にとって、デザイン業界はビジュアルシンカーがマジョリティの世界であるように映る。「ゆる言語学ラジオ」では、「ビジュアルシンカーがマイノリティだから社会から評価されにくい」という話だったが、デザイン業界に絞ってみると「ビジュアルシンカーがマジョリティで、言語思考者がマイノリティであるから肩身が狭い」ように感じる。


言語でも即興性が求められる

「いやいや、デザインは言語も使うじゃないか」と思うかもしれない。ブレインストーミングでアイデア創出をする時は言葉で話し合うではないかと。しかし、デザインで求められる言語力は話し言葉に偏っている。

パーソンズ美術大学に留学中に感じたのは、英語のスピーキング能力がそのままプロジェクト内の影響力につながるということだった。英語のネイティブが英語で縦横無尽にブレインストーミングしているところに、非英語ネイティブが自分のアイデアを伝える(ねじ込む?)のは至難の業なのだ。

日本語話者の私は考える時にどうしても日本語を使うため、アイデアをシェアするには日本語で考えたことを英語に翻訳する過程が必要になる。すると、即座にコメントができずに別の話題に移ってしまっていたり、コメントしても自分の考えていることがそのまま表現できないというもどかしさを感じたりした。

きっとこれは外国語に限った話ではなく、日本語話者だけで話し合っていても同じ問題が生じている。当意即妙に言葉が出てくる人もいれば、時間が経ってアイデアが浮かぶ人(もちろん言葉ではなくビジュアルで表現したくなる人)もいるだろう。アイデアを表現しやすい方法は人それぞれ違うにも関わらず、一定の表現方法・型に従わないと意見を言えない状況がある。私なんかは「ポストイットに収まらないほどの思考の嵐を文章で表現させてほしい」とよく思う。

このように、デザインでも言語化力はたしかに求められるが、即興性が伴わなければならない。つまり、私が「デザインで言語が疎まれている」と言う時、それは即興でアイデアを思いついて発言できるかどうかではなく、何日間(もしくは何年間)も考えて絞り出された文章を指しているということになる。専門用語で言えば、パロール(話し言葉)だけでなくエクリチュール(書き言葉)も尊重してほしいのだ。


ビジュアライゼーション偏重の弊害

デザインが書き言葉系の言語化力を軽視することによる弊害もある。ここでは「デザイン=見た目を良くすることという誤解」「学術的な蓄積に乏しい」「異分野とのコラボレーションが難しい」という3つを挙げてみる。

まず、デザインは見た目を良くすることという誤解につながっていることについて。「グッドデザイン賞」のアンケート結果によると、「グッドデザインの印象は?」という質問に対して、「魅力的なかたち(外観)をしている」というイメージが最も多い結果となっている。これはデザインのビジュアライゼーションの力が認められている一方で、その背後に込められた意図が十分に言語化されていないせいで伝わっていないからなのではないか。

また、システミックデザインでは、システム思考を取り入れる理由の一つに「デザインが学術的な積み重ねに乏しいこと」が挙げられている(「Systemic Design Principles in Social Innovation」)。つまり、デザイナーがデザインを通して得た知見を論文という形式に言語化してこなかったから、システム思考という学術的知見を取り入れるべきだというのだ。先ほどのグッドデザイン賞のアンケートでも、「グッドデザイン賞を受賞する企業はセンスが良い」という印象が最も多く、デザインが学術的知識の積み重ねというよりは直感的で属人的なイメージを持たれているように思える。

そして、デザインが異分野とコラボレーションする時にも障壁となる。たとえば、「デザイン人類学」などデザインのコラボレーション先として頻繁に参照されるようになった人類学では、エスノグラフィーという文章にまとめることが最終的なアウトプットとして主流である。ということは、人類学のような異分野のアウトプットが文章の場合がある以上、デザイン側もそのアウトプットを尊重して理解しようとすべきだろう。


言語思考者にも開かれたデザインはあるか?

ところで、MBというファッションブロガーをご存知だろうか。彼は「ファッション業界の人はファッション誌を見ればおしゃれがわかるというが、初心者やファッションに興味がない人にとってはわからない。だから、おしゃれを言語化して論理的に説明してほしいというニーズがあるはずだ」という仮説のもと、「おしゃれ=ドレスとカジュアルのバランスが7:3である状態」と定義して解説している。私も言語思考寄りだからか、ファッション誌よりも彼の説明の方がわかりやすく感じる。

同様に、デザインもデザインセンスを言語化する必要があるのではないか。ビジュアライゼーションをした方が理解できるという人がいるのと同様に、言語化(文章化)してくれた方が理解しやすい人もいるはずなのだ。これはデザイナーの教育、デザイナーがユーザーに説明する時、ユーザーがデザイナーに説明する時など、あらゆる場面に当てはまる。

もちろん、センスでデザインができる人はそのまま遺憾なくセンスを発揮すればいい。ここで言いたいのは、言語思考者にもデザインの門戸を開くようにしなければ「Everyone is a designer」なんて夢のまた夢なのではないかという懸念である。デザインを全員に開くためには、「ビジュアライゼーションだけが表現方法である」という制限を取り払い、文章も立派なアウトプットとして認める必要があるのではないか?

「ビジュアライゼーションをした方が(特にビジュアルシンカーにとって)分かりやすい」と言うのは納得できるとしても、「ビジュアライゼーションをしなければならない」と義務化してしまうと全体主義的で排斥的な雰囲気が漂う。「Show us, not tell us」をどう考えるのかは、デザインを民主化していく過程で必要な課題だと思う。この記事がデザインと捉えられるかどうかが一つの試金石かもしれない。

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