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この世界が消えたあとの幸福論のつくりかた #335

私が明日も生きてみようと思う理由の一つに、「死ぬまでに一冊は本を書き上げ、自分が死んだ後に読む人の心の支えになりたい」というものがある。私が人生の支えにする本を書いた人の中にはすでに亡くなっている人もいて、直接話すことはできない。それでも、彼らが文字として思考を書き残したものが本となり、その本を現代まで受け継いできた人々のおかげで私は救われる。だから、おこがましくも自分もそんな本を書いてみたいと思うのだ。

この夢を叶えるべく、これまでも少しずつ自分が後世に伝えたいことを書き溜めていた。一冊の本になりそうな質と量になったら公開したいと内に秘めていたのだが、それでは「死ぬまでに書き終えればいいか」と先延ばししてしまうという悩みもあった。そこで、思い切って現時点で考えている内容の骨子をプレプリントとして公開してみることにしたい。少しずつ完成を目指すよりも、何度も完成品を更新する書き方だ。

そのため、論理的でない部分や科学的な誤りなどを多分に含む内容になっている恐れがあることをご了承願いたい。この内容がさらに磨かれて一冊の本として人様にお届けできるようになった暁には『The Wisdom』というタイトルとなる想定である。


序文

この文章を書く上で念頭にあるのは『The Knowledge(この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた)』である。この本には、現代文明が何かしらの大規模イベントの結果として滅んでしまった後の文明再起動に必要な科学的知識が書かれている。

しかし、その科学的知識で文明が再起動された後に、どのように生きるべきかまでは書かれていない。つまり、「『The Knowledge』で科学的知識を受け継ぐことに成功して物質的な豊かさを確保できたとしても、精神的な豊かさは確保できないのではないか?」という問いが残っている。

「どうすれば精神的な豊かさを得られるのか?」という問いに明確な答えはない。しかし、「物質的な豊かさだけでは精神的な豊かさを得られない」という限界を認め、「どうすれば精神的な豊かさを得られるのか?」という問いに対する現時点で最も有力な答えを残しておくことには意味があるはずだ。物質的豊かさを得るための科学的知見をまとめた本が『The Knowledge』であることに倣い、精神的豊かさを得るための知恵をまとめた本を『The Wisdom』と仮称することとする。

現代社会も物質的豊かさと精神的な豊かさを混同している人ばかりかもしれない。キルケゴールの実存の三段階によれば、多くの人は美的実存に囚われたままで、物質的な豊かさを追いかけながら享楽的に生きることしか知らない。こうした議論はハイデガーやボードリヤールなども参照できると述べるにとどめておき、以後は「物質的な豊かさが必ずしも精神的な豊かさと結びつかない」ということを前提として話を進めることにする。

では、どうすれば精神的な豊かさを得られるのか? この問いを考えるには「物質」と「精神」の違いから整理する必要がある。ここでは、科学的知識やそれに基づく工学的知識が客観的な物質を対象としているとした時、この物質を対象とする範囲で扱わないものを精神と呼ぶことにする。つまり、とりあえずは物質ではないものを精神とする。

次に、「精神とは何か?」、ひいては精神を有する存在である「私とは何か?」「人間とは何か?」「生物とは何か?」について考えることになるが、精神を科学で扱わないものと定義した以上、科学的知見からは論じにくい。となると、非科学的な視点から精神を論じ始めることもできるかもしれないが、科学的知見の限界を明らかにするという意味でも科学的な視点から始めたい。


1. 自然選択

ダニエル・デネットが自然選択説を万能酸(universal acid)に例えたように、現代の科学や哲学は自然選択を前提として理論を組み立てる。チャールズ・ダーウィンらが自然選択説を体系化してからは、自然選択が現代のパラダイム、エピステーメーである。この文章が書かれている時代背景を踏まえ、自然選択説を前提に論じることとする。

なお、自然選択説は社会ダーウィニズムのような弱肉強食や適者生存を掲げる優生思想と結びつきやすいという懸念があるが、それは自然選択説が誤りなのではなく、自然選択説の参照の仕方が誤っているという立場で話を進める(「第四章 自然主義の誤謬」参照)。

自然選択についての詳細な解説は割愛するが、今後の論において重要なのは、「全ての生物は生存と生殖のためにデザインされていて、自然選択こそがそのデザイナーである」ということだ。最初の生命が誕生して以来、生存と生殖に有利な形質が次世代へと受け継がれて今に至ると考える(逆に言えば、この形質を有しない存在は消えてゆき、この形質を有する存在を生命と呼ぶことになっていると考える)。

こうした自然選択を前提に精神(意識や心理)を考える学問の一つが進化心理学(進化生物学)である。進化心理学では、生物、人間、私が持つとされる精神も自然選択の産物であると考える。このアプローチを採用し、一見すると科学で捉えられなさそうな精神を自然選択の視点から捉えてみる。


2. 利己的な遺伝子

自然選択において受け継がれるのは精神そのものではなく、遺伝子である。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』によると、自然選択の視点で見れば、遺伝子が主人公であり、肉体はその遺伝子を運ぶ乗り物となる。

この本はゲーム理論に基づいて互恵的利他主義という概念を導き出し、一見すると利他的な行動を精神は選択しているようでも、実は遺伝子という観点で見ると利己的な行動であるということを明らかにした(「利己的」と表現するが、遺伝子そのものが意識しているのではないことに注意)。

『利己的な遺伝子』の考え方を採用すると、「個体の幸福ではなく、遺伝子の幸福が優先される」「欲求は満たされない」「報道官仮説・心のモジュール性」「互恵的利他主義」のような命題も真であると導かれていく(現時点では詳細な説明は割愛)。

このように、精神も自然選択の産物であり、その精神は遺伝子が自然選択を生き抜くために有用な形質として生じたものである。また、遺伝子は遺伝子自身が生き残るという利己的な結果にしか興味がなく、遺伝子の乗り物たる個体は欲望という遺伝子からの指令に振り回され、個体としての幸福は蚊帳の外なのである。


3. 文化遺伝子共進化

『利己的な遺伝子』で提唱されている概念の一つに、「文化的遺伝子(meme ミーム)」がある。特に人類はこの文化的遺伝子から受ける影響が大きいとされ、たとえばジョセフ・ヘンリックの『文化が人を進化させた』では文化遺伝子共進化(二重相続理論)という概念で論じられている。

人類は遺伝子由来の本能的な行動だけで生きられず、文化的な「生き抜くコツ」を後天的に学ばなければならないという生物の中でも特異な存在であるようだ。この文化の継承を加速させたのが文字の発明であり、『The Wisdom』が書かれる理由も、精神的な豊かさを手に入れるには先人の知恵を後天的に学ぶ必要があるという仮説に基づいている。


4. 自然主義の誤謬

第一章から第三章までは「自然選択」「利己的な遺伝子」「文化遺伝子共進化」という3つのキーワードで精神を見てきた。これらは2024年現在において科学的に確からしいとされている仮説として整理してみた。

ここまでで明らかになったのは、精神はその精神が宿る肉体が有する遺伝子にとって有益か否かで認識、判断する利己的な傾向にあり、必ずしも個体が精神的な豊かさを得られるようになっていないということだ。

こうした科学的知見に基づいて精神を見ていくと、精神的な豊かさを得るのは不可能に思えるかもしれない。しかし、ここで諦めるのは時期尚早だ。おそらく「自然主義の誤謬」に陥っているだけだ。

自然主義の誤謬(正確にはヒュームの法則)とは、「『である』から『べき』を導くことはできない」という原理である。たとえば、「人間は噓つきである」ということが科学的事実だとしても、「人間は噓つきであるべき」とか「人間は噓をついてもよい」という道徳的主張が支持されるわけではない。

よって、「人間は利己的な遺伝子を持ち、個体としては満たされないように自然選択されてきた」というのが科学的事実だとしても、「人間は利己的に振る舞い、精神的に満たされないものだ」と結論付ける必要はない。「人間は利他的であるべきであり、精神的に満たされるべきだ」という道徳的主張を捨てる必要はない。


5. 道徳主義の誤謬

人間は利己的な存在であり、精神的に満たされるような初期設定はされていない。けれども、各々の努力次第では利他的になれるし、精神的に満たされる人生も歩めるという道徳的主張をこの章では検証する。

たとえば、仏教では生きることは我欲(執着)に振り回される苦しみであるとし、この真理を瞑想などによって理解すればこれ以上苦しむことはなくなると唱えた。つまり、生物的には(遺伝子の命令で)利己的であろうとするが、精神はその命令を無視して利他的であることもできると説く。

「私」とは遺伝子が見せる錯覚であると見抜き、瞑想という実践法まで考案したのが、自然選択や遺伝子などの概念すらない2500年以上前というのに驚かされる。20世紀には脳科学などによる科学的検証でも瞑想の効果が認められつつある。文化的遺伝子が生物的遺伝子を乗り越えられることを示す希望の一つだ。

ただし、道徳主義の誤謬に気を付けなければならない。これは自然主義の誤謬の逆であり、「『べき』から『である』を導くことはできない」という原理だ。とすると、「人間は利他的であるべきで、精神的に満たされるべきである」とどれだけ納得できる論を構築したとしても、人間が先天的に利他的で精神的に満たされる生物だという主張にはならない。

精神的に豊かになる方法が明らかになったとしても、生物は遺伝子の影響から逃れられない。やはり「である」と「べき」のジレンマの狭間で苦しみ続けるしかないのだろうか。


6. 事実と価値のジレンマ

「4. 自然主義の誤謬」と「5. 道徳主義の誤謬」で明らかになったように、事実から価値を導き出せないし、価値から事実も導き出せない。事実と価値は独立させて論じるべきであるということをこれまで確認してきたが、事実と価値が独立しているという前提は正しいのだろうか。というわけで、この章では「事実と価値は一致するのか?(『である』と『べき』は一致するのか?)」という問いを扱う。

もちろん、この問い自体が無意味である可能性もある。この場合、以下の4通りのどれにも当てはまらないということだ。これは四句分別という仏教においてくうを論ずる時などに用いられる論理構造である。

①事実と価値は一致する
②事実と価値は一致しない
③事実と価値は一致する、かつ、一致しない
④事実と価値は一致する、かつ、一致しない、ということはない

ただし、答えがないかもしれないというのも承知の上で、現時点で「事実と価値は一致するのか?」という問いにまつわる言説、特に「①事実と価値は一致する」に近い概念をいくつか紹介したい。

たとえば、Max-Neefが唱えるTransdisciplinarity。ウィリアム・ジェームズの純粋経験。『禅とオートバイ修理技術』で議論されるクオリティ。仏教における無我や空の思想(中観、唯識哲学)。これらは事実と価値が一致するという主張を支持するように思える概念の例である。そして、これらの提案の核には主観と客観の二元論を脱する視点があるという共通点もありそうだ。

客観的な事実「である」と主観的な価値「べき」が全くことなる次元で独立しているならば、両者が交わることはない。これが自然主義の誤謬と道徳主義の誤謬の根拠である。しかし、主観と客観という二元論を脱した主客未分の世界・視点が存在するならば、事実と価値が一体となる可能性もあるということになる。

仏教ならばその境地に至ることを悟りや涅槃と表現するのだろうが、それならばその視点からは究極の平穏を味わえるということなのだろうか。もしも「である」と「べき」が一致する生き方があるとすれば、それが最も幸福な生き方ということなのだろうか。

しかし、現時点では「である」と「べき」が一致する考え方があるか否かは分からない。私個人としても分からないし、おそらく人類としても合意が取れていないのが現状だ。

事実と価値は一致しないとすれば、全ての人は「である」≠「べき」のジレンマに悩みながら生きていくしかない。一致するとしても、各々がこの考え方を会得するまでは「である」≠「べき」のジレンマに悩みながら生きていくしかない。どちらにせよ、「である」≠「べき」のジレンマからは逃れがたい。

だが、「である」と「べき」が一致する可能性があること、そして、両者が一致することを理解した人には至上の幸福、究極の平穏が訪れるという希望があるとしておこう。分からないのならば、信じていたい仮説を信じていればいいと思うからだ。


7. 祈り

私が人間であり生物である以上、自分を生物たらしめる自己の遺伝子から受ける影響からは逃れられない。遺伝子の影響を受けない存在であるということは、生物ではないor死を迎えた存在だろう。

一方で、私が生物的遺伝子の産物であることを無視できないと言えど、文化的遺伝子がもたらすもう一つの私が生物的遺伝子の限界を乗り越える可能性もある。そして、そのために必要な文化的遺伝子である先人の知恵を『The Wisdom』としてまとめてきたつもりだ。

でも、先人の知恵を総動員してもなお存在する限界に対してはどうすべきなのだろうか? その答えの一つが、祈りだと思う。

生きていれば必ず「私にできることはこれ以上ないが、それでも上手くいってくれ」と祈ることしかできない状況に直面する。自分にできることの限界、自分にできることと自分にできないことの境界線でできる最後の手段が祈りだ。

精神的な豊かさのためにできることの限界を書き尽くした後は、私なりの祈りを捧げるために、仏教における「慈悲の瞑想」の一節で終わりたい。ここまでの文章が全て無意味であったとしても、きっとこの祈りだけはどの時代にも通用するはずだ。

生きとし生けるものが幸せでありますように


あとがき

私はこれまでの学校教育で科学を学び、科学の限界を感じ始めていた。なぜなら、科学は「である」を教えてくれても、道徳や倫理などの「べき」は教えてくれないからだ。個人の主観的な幸せや生き方も科学の対象とはならない。だから、哲学や宗教も学び始めた。「である」と「べき」の分断に引き裂かれながら、何とか繋がりを見つけるべく、もがいた結果(残滓?)が今回の文章である。

科学、哲学、宗教。これらは異なる分野のようで一つの連結項でつながるのではないかと思っている。それが「言語」だ。哲学が言語で語り得るものとそうでないものを分類し、科学が語り得るものを扱い、宗教が語り得ぬものを扱うという関係性で理解をしている。この分類法はウィトゲンシュタインに依るものが大きい。

そんな彼は『論理哲学論考』で「語り得ぬものには沈黙しなければならない」と書いた(ちなみに、この文章が全七章から構成されているのも『論理哲学論考』にインスパイアされたから)。つまり、哲学で線引きした後の内側に属する科学の範囲は語れるが、外側の宗教については語れないとした。

しかし、語ることができずとも示すことはできるとも思う。「月を指さした時、伝えたいのは指自体ではなく、指がさしている先に見える月である」という仏教にある例えを思い出す。私がライターとして目指すのは、この領域だ。語ることができることを語るだけでなく、語ることができないことを示せる人になりたい。言語には限界があることを自覚しつつ、それでも言語を扱うライターであり続けたい。そんな決意表明で締めることにする。

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