2024年11月8日 夕飯の匂い
瞬く間に、日が落ちるようになってきました。
16時ごろ、「ああ、まだ明るい」と窓から見える空に安堵し、
職場を出ると、
明るい空はもう全体の3分の1ほどになっています。
黒へと変わっていく、濃紺がさらに勢力を拡大しています。
全てが暗くなってしまう前に、家路に急いで
早足で歩きます。
空には星や月が光るようになってきました。
すると、どこかから、
夕飯の匂いがしてきます。
ほとんど暗くなった世界に
ポツポツ見える街灯、看板、家から漏れる灯りなどだけがくっきりしています。
影絵の世界にいるようです。
大体は見えるけれども、細かいところまでは見えない、そんな世界では、
違う感覚が働くようで、
夏場よりもずっと、家々からの夕飯の匂いに惹かれるようになりました。
空気が冷たくなったということにも、関係があるのかもしれません。
すっきりと冷えた空気は、匂いを浮き彫りにする効果があるような気がします。
影絵のような夜の風景に、匂いが流れていくことで、絵本などではなく、この光景が生きているということを実感させます。
ただ美しい風景ではなく、そこに生きる人があることを伝えるのです。
家々からの流れてくる温かい食べ物、
出来立ての食べ物の匂いが漂ってくると、
ついついそれが何の料理なのかを考えてしまいます。
そして、その料理は誰が、どんな状況で作っているのだろう、と想像を逞しくするのです。
とある日に嗅いだのは、魚のすり身と油のにおいでした。
さつま揚げのようなものをあげているのでしょうか。
温めただけでこれほど豊かに香りはしないでしょうから、大きなお鍋に油を並々いれて、すり身をあげているのでしょうか。
一般家庭で?、と思いつつ、鼻をひくつかせてみますが、やはり、魚のすり身と油のにおいでした。
熱々をいただいたらさぞかし、美味しいだろうと思います。
一体、どんな人が家で、さつま揚げを揚げるというのでしょう。
さつま揚げから作っているわけではないのかもしれません。
スーパーで買ったできあいのさつま揚げをあげ直しているのかもしれませんし、
誰かのお土産や贈り物でもらった名産のさつま揚げを、あげ直し、焼き直しをているのかもしれません。
家族の出張のお土産という可能性もあります。
ビールを合わせて晩酌をするのかもしれません。
下戸なのでビールの旨さはわかりませんが、さつま揚げの美味しさは想像できます。
がぶりと、噛み締めると、心地よい弾力が歯に触れ、魚の旨みと甘みが香りたちます。
ああ、美味しそう。
今度、見かけたら買ってみよう、と心に決めました。
その時には、ノンアルコールのドリンクも買ってみようかなと思います。
気分は味わえると思うので。
別の日には、煮物を煮詰めている香りがしました。
おそらく、里芋でしょうか。
甘辛い味付けで、煮転がされている里芋が目に浮かびます。
照り照りになったまあるい里芋です。
我が家ではお揚げも一緒に煮ますが、このお家ではどうでしょう。
里芋だけでしょうか。
また別の日には、サバの味噌煮の香りがします。
ふっくらとしたサバ、
そして、このお家は辛めの味噌を使っているようです。
しょうがとキリッとした味噌の香りが立っています。
お箸がずっと入るほど柔らかいはずでしょう。
サバの味噌煮には、炊き立ての白ごはんが欲しいなぁと思います。
副菜はさっぱりしたものが良いでしょうか。
サラダもいいけれど、大根とにんじんのなますでもいいかもしれません。
最近よく作る、なすのみりん梅煮でもいいかもしれません。
汁物は味噌汁ではなく、おすまし、すまし汁の方があいそうです。
わかめと豆腐のような具はどうでしょう。
それからまた別の日には、唐揚げの匂いがします。
しっかりした味をつけた鶏肉をカリッとあげている、何とも美味しそうな匂いです。
下味は、醤油と料理酒でしょうか。
下味には、塩麹もいいと聞いたことがありますが、この香りは、醤油でしょう。
にんにくは入っているけれど、生姜は、はいっていないような気がします。
衣は片栗粉か小麦粉か、それを混ぜたものか、どれかなぁ…などとも考えます。
衣はパリッとしている方が好きだけれど、このお家の唐揚げは、どんな衣でしょう。
揚げたてにレモンをかけて、いやいやひとつはそのまま食べたいものだ、などと考えます。
そういえば長く、自分で唐揚げを揚げていません。
そのうち、唐揚げをあげても良いかもしれません。
どうして、人の家から流れてくる、食べ物の匂いは、どうしてこんなに美味しそうで、
こんなに魅力的なのでしょう。
寒い中で、温かい料理の香りがするからでしょうか。
それとも、見えずに香りだけが漂ってくるからでしょうか。
でも何より、この暗がりの向こう、漂ってくる香りの向こうに、
食事を作るような生活をしている人間がいるということが、嬉しいのかもしれません。
生活をしている人間、
ちゃんと生きている人間がいるということ。
私もまた、ご飯を食べて、明日も生きる人間の1人になるのです。