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2024年9月20日 「遊廓と日本人」感想


田中優子「遊廓と日本人」講談社現代新書の、Audibleで聴き終えたのでその感想です。
宮本常一熱が冷めず、民俗学の本がいいと思いつつ、適当なのがなく、
「短いし、これで箸休めするか…」と思って選びました。
しかし!
そういうぬるい考えをぶち殴ってくれる良書でした。


文体と読み手のマリアージュ!!


今作の素晴らしさのひとつは、著者の田中優子さんの知的でキリッとしているけれど品のある文体と読み手、ナレーターの七海乃麻さんの上品な声が素晴らしくマッチしているところにあります。
この内容と文体を男性ナレーターや可愛らしい女性ナレーターが読んでいたのではではミスマッチだったでしょう。
涼やかで品があるお声で、
遊廓の光と影を丁寧に語る文章が読まれる時、
苦界に身を落とし、
その中で生き抜いた遊女たちへの祈りと敬意のこもった哀切の情を感じます。
1人の人間である遊女への敬意です。
これは、このナレーターでなくては、なりませんでした。
凛とした声である意味があります。
ナレーターはもちろん、このナレーターを選んだ人も素晴らしいお仕事です。

遊廓を正しく捉える


現代を生きる女性としては、
遊廓を「金銭で性を売る場所、買う場所」とだけ決めつけ、嫌悪感を持ってしまいます。
そうして、遊廓を、今の自分から最も遠い場所、忌むべき場所である、と思い込むのです。
現代の我々は、女性にも、当然人権があるという教育を受けているからです。
まだまだ諸外国に比べると足りないにしても、人権に対する理解が足りないにしろ、
もちろん、著者も現代では決して、あってはならない場所として、遊廓を説明しています。
女性を借財のカタとして、廓に囲い、遊女にするシステムに誇りを持てる日本人はほとんどいないでしょう。
ただ本書では、
遊女はもともと優れた芸能者であったこと、
その遊女を、集めた場所である、吉原は、当時の日本の芸能文化もあつめた場所であったことについても言及しています。
高位の遊女は、教育を受け舞や狂言を踊ったり、三味線や琴が、弾けたり、漢詩や和歌を読むことができたとも書かれています。
それゆえに、遊廓があることで、日本文化が守られた側面もあったことにも触れています。
これには、ハッとさせられました。

遊廓の立地や年中行事


遊廓は、お歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、堀に囲まれた、町となっていたようです。
周りは、暗くとも、煌々と明るかったとか、
その中には井戸や店もあり、吉原から出ずとも生活できるようになっていたとかという記録があるそうで、
人の欲って集まるとものすごいものを作ってしまうのだなぁと嘆息してしまいました。
船に乗って、途中まで行き、船から降りて曲がりくねった道を歩き、見えにくいところにある大門をくぐる…というのが吉原までの道のりだそうで、
異世界へ行くような気持ちになったとのことでした。
また、吉原の中では、表面的には、身分は関係なく、純粋にお金のやり取り、そして粋であるかどうがルールであったようです。
このあたり、現代のテーマパークに通ずるものがすでにありますね。
幕府の意向で、辺鄙なところに造られた吉原の立地を(移転があったらしい)、
逆手にとって、演出に変えてしまう「誰か」がいたのですね…。
その頃は、プロデューサーと呼ばないのでしょうが…。
また、吉原では年中行事を大切にしたようで、お正月に始まり、季節折々の行事を盛大にやって、お客を呼び寄せたようです。この辺りが書かれた第5章はとても楽しく読めました。

モノとしての女性、1人の人間としての女性


江戸の通人たちは、吉原の遊女を観音とも天女とも呼んで、普通の女たちとは違う、理想の女性像としていたとあって、
ひどい唸り声が出ました。
いつの時代も男性は、女性を1人の人間として見るのではなく、神格化するかひどく貶めるかそのどちらかになりがちなのです。
遊女は、大金、それも自身ではなく、家族、親・兄弟の作った借財のカタとして、年季奉公という形で働かされています。
おそらくほとんどの借財は遊女が作ったものではなく、家、つまるところ男性たちが作ったものでしょう。それを返すために、女性が一定期間の人生を身体も含めて、カタになるのです。
筆者も言う通り、これは社会システムの問題です。つまり、女性を1人の人間としてみず、家族のモノとしてみる考えによるシステムなのです。しかも、それを観音だの、天女だのと言葉上では祭り上げていたのです。聴きながらうんざりしました。
そう言う言葉遊びで、女性を持ち上げつつ、何の権利も待たせない男性たちを、私はよく知っているからです。
もちろん、年季奉公ですから、借財さえ返せば、吉原から出ることは出来たそうですし、
実際、そう出来た人もいたようです。
とはいえ、そうならず、病気や折檻で死んだ遊女も大勢いるわけです。
筆者は、これらを遊郭の単体の問題ではなく、女性の権利が認められておらず、仕事をしていても、それは多額の借金を返せるようなものではなかったという、社会構造の問題だと指摘します。
そして、
女性芸能者が、芸能だけで生きていけたら、
女性芸能者が、社会的に認められ仕事が出来る環境があったとしたら、
より多くの芸能や芸術が花開いた可能性もあったのではないか、とも示唆するのです。
確かに、平安時代には、多くの女性作家が生まれ、歴史にその作品たちが残っています。
遊廓には教養の高い女性がいたとされているのに、平安時代のように、作品が残っていないのはどう言うことなのでしょう。
大正時代に、親の借金のカタに吉原に売られた森光子という少女が書いた、「吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日」という本があります。
この本の中に、「この状況でも。おかしくならないために書くのだ」というような文章があったと思いますが(うろ覚えであり、正しくないかも)、主人公はそれでも辛く、文章が途絶える箇所があったはずです。
性を売ることは多くの女性にとって、(そして多くの男性にとっても)ひどく消耗することであり、
その仕事と芸術や芸能を両立することは、
精神衛生上、困難を極めるのだろうと思います。
1人の人間として、そのひとが好む芸術や芸能を行い、かつ、安心して生活を送れること。
それは、まだ現在においてもまだ達成できてないかもしれないのです。

まだほとんど何も変わっていない私たちの社会


鼈甲のかんざしやくしをさした日本髷に白粉、豪勢な着物、
そんなものは、テレビやネットでしかみない時代になりました。
我々からあまりに遠い、時代のことのようです。
それでも遊廓を成立させた、考えや社会構造は、現在もしぶとく残っており、劇的な変化はないように思います。
私が死ぬまでに、もう少し変化してほしい、と強く感じました。
女性も男性も1人の人間として、自分を発揮して、尚且つ安全に生活が送れる世界に、もっともっと近づいてほしいのです。
この本で遊廓のことを学びながら、今をどう変えていくべきかについても考えることができました。
著者は現在、72歳。2年前に出版されているようなので、70歳で、これを書かれたようです。
70代とは思えぬ、ジェンダーへの眼差し!
感想を見ると、そこに言及した部分はいらなかった書いているひとがいて、驚きました。
ここが、この本の大事なところでしょう!


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千歳緑/code
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