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2024年10月30日 創作小説「欲しいものはわかってる」下
病院の予約は、10時半。そろそろ出かけるとするか、とスズキトモコはカバンとスプリングコートを手に取った。
そういうサービスが保険診療外、つまるところ自由診療枠で始まったということはニュースで知っていた。その後、そのサービスはインプラントの歯が広まるのと同じくらい、静かに、浸透しているようだった。
様々な媒体でも控えめで、シンプルな広告が打たれるようになっている。
「頭の中をシンプルに」とか「脳内バカンス」「部屋だけでなくて脳内断捨離」などという宣伝文句が多いだろうか。
後頭部の生え際、首と頭が繋がるあたりに小さなチップを埋め込むやり方が主流で、手術は日帰りでできる。傷跡は、よほど髪を短くしない限り、目立たない。完全に判断をチップに委ねる方法は、完チと言われるが、あまり人気はない。
現在主流になっているのは、生活に必要な判断を一般的なパターンに置き換える、般チだ。
おおよそこの国の8割がそうするだろうとされる判断をするチップを埋め込む。大きな性格の変更には至らないと言われている。記憶が失われることもない。日常の些細な判断を個人的にはしなくなる、というだけだ。
むしろ、日常生活がルーティン化され、脳の判断が減り、ストレスが低下すると評判なのだ。海外旅行と同じくらいの値段で、ずっと効果が長い。1年は保証されている。
多くの人は、1年後、更新を希望するらしい。
年間それだけの金額を払っても、ストレスが低下し、仕事のパフォーマンスがあがるなら、必要経費であると思う人がそれだけ多いのだ。
スズキトモコも薄給とはいえ、長期間真面目に勤め上げてきたおかげで、それくらいを一括払いできるだけの蓄えはある。広告を見かけてから半年、様々なメディアでの口コミをチェックしながら、検討してきたのだ。
宣伝広告ほどの爽快感は味わえなかったという口コミもそれなりにあったが、おおよその口コミは、生活が楽になったというものだった。
また、般チのおかげで、社会適応が楽になったとか、人間付き合いがスムーズになるようになったというコメントも多かった。
独特のこだわりや感じやすい部分が「矯正」いや「なら」され、一般的な反応や感覚でものを選んだり、発言できたりするようになった、というコメントには、ひどく心を惹かれる。
1番問題のない判断を自然とできる存在になりたいのだ。
そこで、スズキトモコは近隣で最も口コミがよく良心的なと思われるクリニック選んで予約をいれ、1ヶ月前に事前カウンセリングという名の診療を受けたのだった。
雑居ビルというには、もう少し大きく、事務所とクリニックが数件入っているビルの3階、エレベーターからおりてすぐ、クリニックだった。もとは心療内科が専門だったようだが、現在はもっぱら、チップ治療をしているらしい。自動ドアのくぐると正面には、クリアな強化ガラスで区切られた待ち受け口がある。美しい人が受付をしてくれた。カラーという白い花のような印象だ。濁りのようなものがない。
受付に向かって、右手に折れると、そこは待合室だった。明るく柔らかい照明のもと、パステルピンクとパステルグリーンのソファが交互に並んでいる。腕を広げたくらいの大きさの水槽は置いてあり、中には古木と石、小さなエビが泳いでいた。ひどく眠たくなる、オルゴールの曲が流れている。
よくよく耳を澄ますと、有名なアニメ映画のテーマ曲がオルゴール曲になっていることにスズキトモコは気づいた。
待合室の隅には、疲れた様子の夫婦と、その娘と思しき若い女性がいた。夫婦は女性を挟んで座り、暗い顔をしている。若い女性は2人とは異なり、呑気な雰囲気で、情報端末を触っていた。独特のメイクの仕方と、つけているキャラクターのキーホルダー、革製のリュックが目に止まった。
判断を委ねたいのはだれなのだろう、とスズキトモコは一瞬、考えたが、他人の状況を推測するなど、あまりに差し出がましいことだと、その考えを振り払った。
自分だって背景を推測されたくなどはない。
そのうちに、スクラブを着用した、看護士から、受付番号を読み上げられ、診察室へ入る。
診察室も受付同様、清潔で明るかった。目の前には、水色のスクラブを着た、医師が腰掛けている。
綺麗な肌で、憂いや疲れがない眼差しをしていた。
医師は「それでは今日はチップ治療の事前カウンセリングということですね」と落ち着いた声で切り出す。「はい」
「これから受けていただく検査でどれも問題がなければ、スズキ様がお望みのチップ治療を実施することができます。スズキ様はどういう効果を期待されてますか」
「ああ…楽に、もう少し楽に生きたいです。生活って、こう、色々な細かい判断をし続けなければなりませんよね。そう言うことに、うんざりしてしまったと言うか。もう少し頭を楽にしたいんです。自分で決めることを減らしたいと言うか…」
スズキトモコは、ややしどろもどろになりながら言葉を紡いだ。
「そうですか。それならチップ治療はお役に立てると思いますよ」
医師の物言いは、とてもすっきりしていた。
曇った窓を拭った後に見える景色のようだ。明瞭だ。
それだけで、治療の意味がある、という気がした。
とはいえ、チップを埋め込む直前になれば、やはり不安が押し寄せてくる。
施術を決めてから、1ヶ月後、スズキトモコは
待合室に置かれた水槽を眺めた。
これが最良の判断なのか?
そもそもこの判断が間違っていたとしたら?
何かを決めていくことは、何かを諦めることだとはよく言われることだが、
この判断で諦めることとは何なのか?と思う。
何も失わずに全ていいようにしてくれたらいいのにと何度考えたことだろう。
何にも選ばずに、全てうまくいくのが1番いいはずではないか。
灰色の壁の前を右往左往して、途方に暮れるのも嫌だし、
選んだものが腐っていたり、見込み違いだったりして、肩を落とすのも嫌だった。
何かを判断する、決める、選ぶということは、ひとつひとつは小さくとも、まとまると重い、とスズキトモコは思った。
ただ流されて、今の会社にいて、
ただたまたま、この街にいて
ただ何となく、1人で暮らしていると思いたい。
判断を突き詰めていくと、
自分が何を望むのか、何が欲しいのかに、行き着く。
静かに暮らしている自分の中に、
いわゆる普通とは違う望みがある可能性など消してしまいたい。
皆みたいに選べないと言うことは、スズキトモコにも、わかっている…、いや、それなりの年月をかけて、わかろうとしていた。
しかし、本当にわかってしまう前に、
自分の中の異形に触れる前に、
何も失うことがなく、全て良いようにしたい。
全て良いように。
水槽では、短い丈の水草の間をエビが動いていた。足を細かく動かし、頭部を上に向けて、触角をわずかな水流に泳がせている。
「番号7番の方」
手元の小さなカードには、7と書かれている。
数字に意味はないが、いい数字だとスズキトモコは思った。
あっけないほど簡単に、手術は終わった。
誓約書のコピーや術後の説明書をごっそり渡されて、それをカバンにしまう方がよほど難しいくらいだ、とスズキトモコは思う。
クリニックの別室で拒絶反応が出ないかどうか、30分ほど待たされた。
特に何も変わらない。
壁の色はクリーム色で、衝立は薄いピンク色だ。
身体も問題なく動く。
30分経ったところで、看護師が覗きに来て、「どうですか」と聞かれた。
「特に何も」というと、「それならもう帰って構いませんよ」とハキハキと告げられた。
「特に何も変わった気がしないのにいいんですかね」
看護師は、小首を傾げて、
「…待っている間、何か考えましたか」と聞いた。
スズキトモコは、
「特に何も」と答えた。
そうして、看護師を見返した。
看護師はにっこり笑った後、その首をめぐらせる。そして、ポニーテールをずらして、隠れていた、首元を見せた。
なめらかな肌がそこにはある。
蚊に刺されたような跡すらなかった。
「何も起きてないように見えても、ちゃんと入ってますよ」と言った。
続けて、看護師は、スズキトモコが最も欲しかった言葉をくれた。
「そして、これが、欲しいものはわかってる。もう何も、考えてなくていいんです」
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