2024年5月24日 「生きている」店を残すには
カレンダーを見て驚きました。
「おいおいおい」と声が出ます。
なんたって、あと1週間もすれば、5月の末日です。
気づけば1年の半分にリーチがかかっているというわけです。
「月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり」とはよく言ったものです。
昨年の今頃とは、ずいぶん変化した地点にいるような気分です。
自分も、他人も少しずつ、でも確実に変わって行っています。
この変化は止められないのだな、という言葉が頭に浮かぶことが多くなりました。
子どもの頃から当たり前のようにあった日常は、根本的に変わりつつあるようです。
変化はあらゆるところに進出してきています。
今日も、歩いていて、一度は行ったことがあるラーメン屋が閉店していることに気づきました。
一緒にラーメンを食べた人はまだ友達だけれど、いつか一緒に食べようねと言った人は、もう、近くにはいなくなってしまいました。
「塩ラーメン、いいですね」と言っていたような気がします。
妙に切なくなりましたが、よくよく眺めてみると、ラーメン屋には貼り紙が貼ってあり、完全閉店ではなく、移転だということが書いてありました。
少し、ホッとします。
なぜかと言うと、最近よく完全に閉店、閉業してしまった店をよく見かけるからです。
中華料理店、自転車屋、ペットサロン、食堂、ラーメン屋、パン屋、などなど。
多くは、店主が高齢で体力的に続けられないと言うのが理由のようですが、
若い店主でも1年も経たずに店を畳んでしまうこともあるようで、
ここ最近の、経済状況の厳しさを感じます。
雇われ人にはとうていわからない、店を切り盛りする大変さがあるのでしょう。
仕入れ値が高騰する中、利益を上げること、毎日店を営業すること、仕入れを無駄にしないことなど,考えれば考えるほど難しそうです。
小さい個人店に生き残って欲しいと思う反面、そういう店を利用しているかと言えばそうでもなく、
店が潰れるたびに、どこか後ろめたくなります。
勇気を出して入ってみれば、
購入していれば、常連になっていれば、
閉店の憂き目を回避まではいかなくても、少し先延ばしにできたのかもしれません。
選ばなかった未来、のようなものかあったような気がします。
勇気を出して店に入ることができていたら、ありえたかもしれない未来、
本当にそんなものがあると信じているわけでもないはずなのですが、消えないイメージです。
店というのは建物でしかないわけですが、
営業していた店が閉まると、「生きていない」ものであるということが、急に迫ってきます。
店が稼働していて、店員がおり、客が行き来している日常があると、営業時間でない夜や定休日に見かけても、「生きている感じ」がします。
扉は閉まって、「CLOSED」とか「定休日」と書かれた札が下がっていても、店はちゃんと「生きて」います。
本当に閉店、閉業してしまうと、そう言った感じはしません。
店内の商品や什器が減って、がらんとしているというからそう見えるのでしょうが、それでも不思議なくらい、息吹というものが感じられなくなります。
また、以前、冷凍餃子を無人販売している店舗があったのですが、
その店が24時間オープンであるのに反して、店は「生きている」感じがしなかったことを思い出します。
商品も並んでいたし、灯りもついていたのですが、やはり「生きている」店の感じではありませんでした。
ものが詰まっているのにがらんどう、「モノが入っている箱」という感じです。
こう言う時、人と言うものは、生きて活動していると、目に見えない何らかの痕跡を残すものなのだろうと信じたくなります。
二酸化炭素濃度が上がっていると言うことなのか、
雑菌が増えていると言うことなのか、
原子レベルで何が変化があるのか、
人は「人がいる」「人が生きている」ということを感じることができるものなのです。
そして、人の痕跡がきれいに消されてしまった店は「生きていない」店と感じられるのです。
昨日まで生きていた店が「生きていない」店になったと言うことは、客がこない店である以上に、店を切り盛りする人や運営している人がいなくなってしまったと言うことを意味します。
「生きていない」小さな店を見かけると、何だか後ろめたくなるのは「人がいなくなっていっている」という恐ろしさや悲しみでもあるのかもしれません。
個人商店や個人経営の店が、全くなくなってしまうと言う未来も、あながちありえない未来でもないかもしれません。
ディストピア小説にはよくある展開ですが、それに自分自身が直面するかもしれないとは思いませんでした。
これまで、SFとは遠くに仰ぎ見る世界のようにおもっていたのですが、
最近の我々を取り巻く環境ときたら、
すっかりSF小説の書き出しなのです。
冒頭の数行、我々は今、そのあたりにいます。
ぼんやりしていると、
「昔は誰でもお店を開くことができてね…」とか
「小さなお店でもサービスや品質が良いと言うところがたくさんあって…」とか
そういう思い出話だけをすることになってしまうのかもしれません。
人間が切り盛りして、人間が通う店、
「生きている店」を残していくために、
一個人ができることって、一体なんだろうと考えのですが、
結局、「勇気を出して入ってみる」しかないですね。
人間らしい原始的な方法でしか、
人間の営みを続けさせることはできないのです、
きっと。