
横瀬町の自動車整備士の人
むかしむかし、ある村に、護助(まもりすけ)という若者がいました。護助は幼い頃、いつも誰かに守られる立場でしたが、大人になって気づいたのです。「守る側の立場になった方が、人生は楽しい」と。
最初、村人たちは護助の言葉の意味が分かりませんでした。「守られる方が楽なはずなのに」と不思議がったのです。
護助は村の見回り役を買って出ていました。夜道を照らす提灯を持ち、お年寄りの家の戸締まりを確認し、子どもたちの帰り道を見守りました。
ある時、村人が尋ねました。「なぜそんなに守ることが好きなの?」
護助は優しく微笑んで答えました。
「誰かを守ることで、私の世界は広がるんです。守るべき人がいることで、私は強くなれる。その人の笑顔を見ることが、何より嬉しいんです」
護助の活動は、次第に形を変えていきました。
春には、新芽を守るために垣根を作り、
夏には、子どもたちの水遊びを見守り、
秋には、収穫を害獣から守り、
冬には、お年寄りの暖を守りました。
そして気がつけば、護助の周りには様々な "宝物" が増えていきました。
守った花々が咲き誇る庭、
守った子どもたちの元気な声、
守った作物の実り、
守った人々の安らかな寝顔。
ある日、村の少年が護助に言いました。
「僕も護助さんみたいに、誰かを守れる人になりたい」
護助は嬉しそうに答えました。
「守ることは、決して重荷ではないんだよ。誰かを守れることは、この上ない喜び。そして、守るべき人がいることが、私の人生を豊かにしてくれているんだ」
後に村人たちは気づきました。護助が守っていたのは、単に物事や人々だけではなく、村全体の幸せだったことに。
そして「守る喜び、守られる幸せ」ということわざが、この村から広まっていったとさ。
めでたし、めでたし。
と思う2024年11月7日16時00分に書く無名人インタビュー938回目のまえがきでした!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)】
今回ご参加いただいたのは 浅見翔平(あざみ しょうへい) さんです!
年齢:30代前半
性別:男
職業:生粋の横瀬町民(32年目) 兼 自動車整備士(10年目)
X:https://x.com/Hey_Hey_Yokoze
現在:この土地を離れたい、東京に出たいとか、そういう気持ちはあんまりなかった。自然とここなんだろうな、みたいな。
ナカザワアヤミ:
今何をしてる方ですか?
浅見翔平:
今は車の整備士、自動車整備士をしています。
ナカザワアヤミ:
お仕事ですね。日々やってることは何かあったりしますか?
浅見翔平:
結構SNSを更新するのが好きっていうか、趣味っていうか。
旧TwitterとインスタグラムとFacebookのアカウントを持っていて、1週間に1回以上、2〜3日に1回以上、かなりの高頻度で更新はしてるかなと。
ナカザワアヤミ:
更新の内容っていうのはどういうものが多いですか?
浅見翔平:
ほぼ毎日ですけど、「仕事が昼休みになった」とか、「3時休みになった」とか、「今定時で終わりました」「今日は残業だった」とか。あとは結構アニメとかプラモデルとか、好きなジャンルもいくつかあるのでその情報収集といいますか。
あとはここしばらく、横瀬町の地域おこし協力隊のメンバーと仲良くさせてもらう機会が増えたので、彼らの一挙手一投足じゃないけど、何か町のこととか彼らの活動のことで、更新があったらチェックしたいなっていうのがあって、結構高頻度で見てるかなと(笑)
ナカザワアヤミ:
ちなみにこのSNS更新が好きっていうのは、どういうきっかけでしたか?
浅見翔平:
今でもおぼろげに覚えてるのは、高校3年生の春、4月か5月くらいかな。隣の隣のクラスの友達が、当時高校のときは部活で吹奏楽をやっていて、同じ吹奏楽部の同級生だったんですけど。「面白いSNSが始まったんだけど、登録して使ってみない?」とかって言われて。当時3Gのガラケーだったんですけど、それで登録して使い始めたのがTwitterでした。
で、当時まだ誕生日を迎える前だから17歳の4月5月ぐらいから、9月誕生日で32になったんで、もう14年?15年ずっと使い倒してますね。
ナカザワアヤミ:
使っているときだったり、見ているときっていうのはどういう気持ちなんですか?
浅見翔平:
なんだろう、なんか面白いネタないかな、みたいな。ためになる、じゃないけれど、テレビとかラジオでは仕入れられない地元の話とか、最近だとプラモデルとか、鉄道模型とか、そのメーカーが新製品情報をインターネット上で公開するのが結構あって。それまでは模型屋さんとかおもちゃ屋さんとかに行ってポスターで見るのが当たり前だったのに、家にいながら、情報を見る端末があればどこでも確認できるんですよね。
情報収集って言ったらあれですけど、それで使ってるのが今のメインの理由なのかな。あんまり意識したことなかったですけどね。
ナカザワアヤミ:
ちょっと話が変わるんですけど、最近楽しかったことは何ですか?
浅見翔平:
今年の夏、横瀬町の地域おこし協力隊の中村くんと知り合ったんですけど、彼をきっかけに、横瀬町の地域商社ENgaWAで活動してる地域おこし協力隊の方々と連絡先を交換したり、彼らが主に活動しているところにお邪魔して、美味しいもの食べたりお酒飲んだり。
彼らがどう思ってるかわかんないけれど、一方的に俺はすごい距離が近くなったな、仲良くなったなみたいなことはあって。
ナカザワアヤミ:
会う前って元々知ってたんでしたっけ、今仲良くしている方って。
浅見翔平:
一番最初のきっかけは、今年の1月とか2月くらいだったのかな、住んでる実家が横瀬駅の目の前なんですよね。3年くらい前に2021年に駅前の観光案内所がリニューアルして、ENgaWAが経営というか運営に関わるようになったっていうのは知ってたんですよ。
普通、営業は大体朝9時ぐらいから夕方4時ぐらいまでなんですけど、仕事の残業が長引いて、夜8時とか9時くらいに家に帰るとき、毎週火曜日の夜だけ電気がついているのがみえたんです。
あれ、そんな遅くまでやらないよな、と。町民から見たら、なんで火曜日の夜だけ賑やかなんだろう、って気になったのが一つポイントだったんですよね。
今年2月だったかな。たまたま仕事が繁忙期で忙しかったとき、ほぼほぼ定時くらいで終わった日があったので、実家で親と住んでるんですけど、今日の夕飯は俺の分は準備しなくていいってあらかじめ親に断っておいた上で、その火曜日の夜、お店に入ってみたんですよ。そのときは当時地域おこし協力隊だった石黒夢積さんと、今も地域おこし協力隊で活動している鈴木七海さん。2人がお試し営業してる日だったのかな。
火曜日の夜に臨時営業でご飯とかお酒とか提供してるってことだったので、夜遅くならないタイミングで仕事が終わって余裕があるようだったらまた食べに行きます、みたいなところが一番最初の知ったきっかけだったかな。
それと前後して、駅前食堂と地域商社ENgaWAのSNSをフォローしてちょいちょい見ていたのかな。
ナカザワアヤミ:
その時点では別に知り合いがいたとか、チェックをすごくしてたとかってわけじゃなくて。
浅見翔平:
自分でも全然はっきり覚えてないですけど、当時は多分そんな感覚だったと思います。
ナカザワアヤミ:
それで何か変わったことはありましたか?
浅見翔平:
ほぼ週1で、食べにいける場所ができて、生活の中に一つポイントができたかなみたいな。それまで普段は家と会社の往復ばっかりだったのが、ときどき食べに行ってみようかなって。生活にハリができたっていうほどではないけれど、そっか今日火曜日だ、晩ご飯食べに行けるかな、みたいな。週に1回の楽しみができたかなって言われれば、そうかもしれないですけど。
ナカザワアヤミ:
行くようになってみてどうですか?
浅見翔平:
いやぁ、良かったですね。お酒あるし美味しいものあるし、あと横瀬の地のものを使った食材とか食品とか、ジビエ肉を使ったソーセージを作ってるからお試しで提供してますとか、横瀬で作られた野菜を使って料理にしましたみたいなのがたくさんあって。すごい新鮮でした。そんなん作ってたんだ、みたいな。
ナカザワアヤミ:
ちょっと質問が変わるんですけど、最近の生活の中心となってるものは何ですか?
浅見翔平:
生活の中心…でも、これまでずっと実家から学校も通ってたし、今の職場も家から近いとこなので常に横瀬ないし自分の実家が中心で、それを起点に自分の生活になってるのかな。場所、環境とか、特段何か別のものも…そうですね。横瀬っていう土地なのかな。
ナカザワアヤミ:
その土地に対してはどう思ってますか?
浅見翔平:
僕、兄弟もいなくて、一人っ子で実家は駅の目の前で、ちょっとした駐車場とか駐輪所を経営してる家だったんで、どこか会社に就職して働くってなったときにも、多分秩父から出ないんだろうなみたいな。最終的に自分の家に残る。横瀬に残って、親が弱ったとき、いざってなったときに、結局実家から出ないで家を継ぐんだろうなみたいな考えは、なんとなく子供の頃から見据えていたかも。
なので、ここの町から離れることは多分ないだろうなみたいな。抽象的になっちゃうんですけど。この町から離れることは多分ないのかなみたいな雰囲気でずっと今まで大人になってきたというのもありますね。
ナカザワアヤミ:
それは自然に思ったんですか?
浅見翔平:
そうですね。何か使命感があったとかそういうわけじゃないですね。何となく多分、駐車場とか地元に残って、家を継ぐんだろうなみたいな。
ナカザワアヤミ:
なるほど。何かに例えるとしたら、横瀬町ってどんな存在ですか?
浅見翔平:
何かに例えるとしたら…なんだろう。家じゃないですけど、それこそ、ホームタウンって言ったらそれまでだけど。でも何だろう、僕にとってやっぱり横瀬は、絶対ここなんだろうな、みたいな。根っこが生えてるわけじゃないけど。
やっぱり秩父、横瀬を離れて、どっかよそで暮らすイメージは、小さい頃からもほとんどなかったなと。
ナカザワアヤミ:
ここにいたいとか外に出たいとかそういう何か思いっていうよりは、自然にそう感じたんですか?
浅見翔平:
何となく…そうですね。この土地を離れたい、東京に出たいとか、そういう気持ちはあんまなかった。言われてみれば。自然とここなんだろうな、みたいな。
ナカザワアヤミ:
翔平さんは自分の性格について、人からどう言われますか?
浅見翔平:
一つのことに集中すると周りが見えなくなると思います。のめり込むとすごいんだけど、時々熱しやすく冷めやすいときあるよね、と。
ナカザワアヤミ:
自分でそう言われるのに対してどうですか?
浅見翔平:
思い当たる節があります。納得しますよね。確かに言われてみればそうだな、と。
ナカザワアヤミ:
自分ではご自身の性格についてはどう思いますか?
浅見翔平:
頑固なのか、わがままなのかな。
オタク気質なところもだいぶありますよね。かなりあると思います。マイペースっちゃマイペースなのかも。
過去:挫折とまでは言わないけれど、思い描いてるものに対してすごいハードモードだなって気がついた
ナカザワアヤミ:
さっきから横瀬生まれ横瀬育ちっていう話が出てたんですけど、どんな子ども時代でしたか?
浅見翔平:
もう電車と車と乗り物に目がなかったですね。だから今も結局自動車の整備士になっているのかなっていうところがあるんですけど。とにかく電車と車、乗り物、飛行機、船。好きだったな。だからカブトムシ触れないですもんね。
ナカザワアヤミ:
男の子は生き物が好きになるか、乗り物が好きになるかありますけど、乗り物派だったんですね。
浅見翔平:
そうですね。がっつり乗り物でしたね。
ナカザワアヤミ:
どういう楽しみ方をしてたんですか?
浅見翔平:
電車は、見る。乗る。プラレールとかおもちゃを買い与えられて、多分そういうのも欲しいみたいなところもあったと思うんですよ。見て、乗って、おもちゃを持って。車も結構見るのが好きだったのかな。ミニカーも好きでした。
それが今進化して鉄道模型になって、えらいことになってるんですけど。
ナカザワアヤミ:
模型、作ってるんですか?
浅見翔平:
一部屋占領していて、模型専用の部屋があります。
ナカザワアヤミ:
模型はいつごろから好きなんですか?
浅見翔平:
鉄道模型はいつだろう。小学5年生くらいが一番始めだったかな。それまでは多分プラレールとかだったと思うんですけど。
ナカザワアヤミ:
小学校時代で印象に残ってることって何かありますか?
浅見翔平:
クラブ活動とか、修学旅行とか、なんだろう、総合的学習の時間ってやつですか。田植えとか芋掘りしたなとか。本当に何となくおぼろげですけど、あれもこれも、思い当たるものは複数ありますね。
ナカザワアヤミ:
小中は横瀬町内ですか?
浅見翔平:
そうですね。
ナカザワアヤミ:
どんな学生生活でしたか?
浅見翔平:
どうだったかな。友達にいじられたりとか、いじめられたってほどじゃないですけど、なんかいじられキャラだったなみたいなことは覚えてます。
ナカザワアヤミ:
高校時代はどうでしたか?
浅見翔平:
高校はですね、中学校のときの部活はソフトテニス部だったんですけど、高校はひょんなことから吹奏楽部に入って。
結構練習がきつかったりしんどくってやめそうになったりしたこともあったんですけど、部活の顧問だったり、先輩、後輩、仲間たちの支えがあって、結局夏のコンクール、野球部の応援まで、とりあえず節目になるところまでは一応3年間続けられたかなって。やっぱり部活が一番のトピックだったなと思いますね。
ナカザワアヤミ:
なんで吹奏楽部に入ったんですか?
浅見翔平:
正直入りたかった部活がなかったんですよ。高校1年の入学してから間もないときに新入生が体育館に集められて、部活動紹介があって、運動部から文化部からサークルや同好会みたいなものまで一斉に紹介されて一通り見たんですけど、ひとつもやりたい、入りたい部活がないまま部活動紹介が終わって。
高校は、教室のある棟と職員室のある棟が別であって、校舎と校舎の間を渡り廊下が繋いでて。
放課後、渡り廊下で入りたい部活ないなって感じで黄昏ていたんですよ。みんなどんどん部活きめてるなぁ、みたいな。そしたら新入生を勧誘する吹奏楽部の先輩たちが来て、「どうかな!?」「吹奏楽部見学やってるよ」みたいな。当時の吹奏楽部の先輩たち10人くらいに取り囲まれて、そのまんま連行されて、その1週間後に入部届にめでたく吹奏楽部って書いて入部したっていうオチなんですけど。
ナカザワアヤミ:
決め手はなんだったんですか?
浅見翔平:
想像してたよりもみんなフレンドリーみたいな印象はあったかな、当時。
ナカザワアヤミ:
なんの楽器をやってたんですか?
浅見翔平:
クラリネットを吹いてました。入部したと同時に自分の楽器も何か買うはめになって、両親と相談して、買ってあげるから、やってみればみたいな。もう今は全然吹かなくなっちゃったんですけど、今も一応楽器を持ってます。
ナカザワアヤミ:
入ってみてどうでしたか?
浅見翔平:
いや、しんどかったですね。当初の希望は打ち砕かれ、もう無理、辞めたいみたいなことはしょっちゅうでした。幼稚園の年長から小学校に入る前くらいまで、10ヶ月くらい一応ピアノも習ってたんで、吹奏楽部に入った段階で、楽譜は何となくわかるレベルで。全然楽器はやったこともない、楽譜も読めないっていうところではなかったので、何となく楽しそうだなとは思ったんですけど。キツくて、辞めたくなったことはもう数えられないほどでしたね。3年間、高校3年の夏に引退するタイミングまでよく頑張れたなと思います。
ナカザワアヤミ:
なるほど。そこから進学されたんですか?
浅見翔平:
高校が職業高校だったんですよ。当時は農業科、森林科学科、食品科学科、電気科、機械科、電子機械科、フードデザイン科、ライフデザイン科、定時制と、あと高校卒業した後2年間専攻できる専攻科があって。
電車が好きで車も好きだったりしたので、高校卒業した段階で地元の西武鉄道に就職できたらいいな、と。就職が仮にできなかったとしても、ゆくゆくは電気自動車とかハイブリッドカーとか、自動車の方でも電気の分野が強いものが世に広まってくるだろうなっていうところで、とりあえず電気科に行っておこうかみたいなノリで高校は電気科に進学しました。
ナカザワアヤミ:
うんうん。
浅見翔平:
高校3年の夏に部活を引退して、就職試験が9月から10月ぐらいだったと思うんですけど、辞めたいとかしんどかったっていう部活を8月で引退したもんですから、そこで、解放されたわけじゃないけれど、勉強しなければいけないタイミングなのに、全然精神的にはもう勉強どころじゃなかったので、就職の勉強がなかなか手につくわけもなく、就職試験に失敗して。
いざどうしようってなったときに、池袋に東京交通短期大学っていう運輸科を構えてる短期大学があったんで、とりあえずそこにしようと。これでまたちょっと夢見れるかなとか思って。
そこは作文と面接、AO入試だったかな。そこを受けて、また自動車とか鉄道とかを考えられたらいいなと、進学したっていう流れです。
ナカザワアヤミ:
当時のなりたい将来像っていうのはさっきおっしゃってた西武鉄道とかでしたか?
浅見翔平:
そうですね。鉄道会社に就職して、駅員、車掌、運転士とステップアップしていけたらいいよなとは思っていましたね。
ナカザワアヤミ:
その学校を卒業した後は、西武鉄道に就職するとか、鉄道会社だったり、あと自動車とか運輸関係の仕事に就く人が多いんですか?
浅見翔平:
そうそう。交通って名乗ってるだけあって、鉄道関係はもちろんだけど、駅の業務受託管理みたいなことをやったりする企業
に就職する人もいたりして。あとは何だろう、鉄道会社関係を警備している警備関連会社だったりとか。
当時、求人票が来てたところだと自動車ディーラーとかの運営会社でカーライフアドバイザーとか。路線バスとかの会社に就職した人も居たかも。
ナカザワアヤミ:
確かに、全部運輸ですね。
浅見翔平:
そうです。あとJTBとか旅行の国内旅行業務取り扱い管理者みたいな資格を取って、旅行関係の会社に就職した同級生もいたと思います。
ナカザワアヤミ:
翔平さんはどういう経緯で今の仕事に就職したんですか?
浅見翔平:
高校の卒業式だった日が東日本大震災だったんですよ。卒業式が午前中で。秩父でも震度5弱くらい揺れて。あれが午後2時過ぎ、親と市内のファミレスで遅いお昼ご飯を食べてるくらいだったんですよね。
その後4月に短大に入学して、その後1年通ってみて、自分が想像してた以上にやっぱり震災の影響が色濃く残ってたりしてて。採用状況とかも、何年か前にリーマンショックがあったりして。
自分の主観で、やっぱり短大卒、専門学校卒で一斉に就職解禁になるタイミングで4大卒の人とかが日本全国から企業を受けたりする中で、今の自分の勉強の段階と対策してる具合をみると、やっぱりどうしても揉まれちゃうんだろうなと思って。
明らかに、自分の持ってるそれまでの勉強してきたものだけだと、挫折とまでは言わないけれど、思い描いてるものに対してすごいハードモードだなって気がついたのが、短大の1年のときだったと思います。
それまで仲の良かった友達も、短大やめて中途採用で鉄道会社を目指す人もいたりしたんです。だから短大の2年に進級したときには、留年したりとか、中退とかするくらいだったら、とりあえず短大は卒業して区切りつけようかなと。そのあとでもう1回また何か進路を見つけた方が良いのかなって考えに至ったのはありました。
ナカザワアヤミ:
実際どうされたんですか?
浅見翔平:
とりあえず卒業に必要な単位を必要最低限とって、卒論も書いて短大を卒業しました。それから、埼玉県の熊谷市に高等技術専門校って、職業能力開発校があって。そこでは自動車整備を勉強できるんです。2年職業訓練して、自動車整備士の国家試験を受けられる機会に繋がるので、そこ進学しようと。
親には結構わがまま言って、短大卒業した後に専門学校に行くとはなんぞやみたいなとこはあったんですけど、一応そこに行かせてもって。池袋も横瀬から通ってたんですけど、横瀬から熊谷にまた2年通い、国家試験受かって自動車整備士になりました。
ナカザワアヤミ:
就職したのはそのあとすぐですか?
浅見翔平:
そうですね。これもまた面白いんですけど、中学校2年のときに職場体験学習っていうのがあって、地元の企業さんとか団体さんとかで3日間仕事の現場のところにお邪魔して、働くっていうのはこういうことだよみたいなことを学ぶ機会があって。
中学校2年のときも、やっぱり電車が好きで、学校の先生に直談判して、すぐ近くに横瀬駅があるんで駅員さんのことを知りたいです、そばに行きたいです、どうですか?とかって言ったら、速攻で駅の人から返事があったらしくて。危険すぎるので、中学生の受け入れはできませんみたいな。浅見くん別のことを考えてみてはどうでしょうかっていう話で。
車も好きだよね的な雰囲気から、家から片道1kmないくらいのところにある自動車整備工場があったので中学校2年の3日間だけ職場体験でお世話になったんですけど、そこが今の就職先で。
就職先を考えたときに、地元にそういえばこういう整備工場さん、車屋さんがあったな、と。もし雇ってもらえる可能性が少なからずちょっとでもあるなら、掛け合ってもらえませんかと、専門校の担任の先生に、直談判して。秩父・横瀬でちょっと就職したい会社があるので、掛け合ってもらえませんか、求人票も来てないけど連絡先は調べるからと。
で、掛け合ってもらって数日後に面接来てみませんかみたいなところから面接を受けて、今の会社に入社が決まりました。
ナカザワアヤミ:
直談判して入ろうっていうのはどういう理由だったんですか?
浅見翔平:
2014年の関東の大雪ですね。1月だったかな。ちょうど、就職先を決める前に、関東マツダの本社で企業説明会みたいなのがあったので行こうとしたら、その日の前夜に秩父で大雪が降って、横瀬も1メートルくらい。
20年横瀬で生まれ育ってきて、玄関が雪で埋まって、家から出られないくらいで。
もし通いとか、万が一何か離れるってなったら、こういうことがあったらちょっと困っちゃうよねって。地元に残りたい、というのもあったんですけど、それも一つポイントだったのかなって。今にして思うと。
しばらく電車も止まっちゃって、横瀬から学校に通学もできなかったりしたので、就職はやっぱり地元がいいのかなって。
もちろん、求人票が来て斡旋されるところはやっぱり大手のディーラーさんとか大きいところばっかりだったけど、そういうのに見向きもしないで、地元の会社に就職したいですっていうのを、先生たちとか当時の同級生からどういうふうに思われてたかわかんないけど、それでも、秩父・横瀬かなっていうのはありました。
ナカザワアヤミ:
何か周りの方からそれに対して何か言われたりしました?
浅見翔平:
先生とかにはそこまで意固地になることはないけれど、みたいな。でも希望としてあるんであればそれを優先するように我々も動きますよみたいな。なのでそれに向かって頑張ってください、って感じで。
両親にもやっぱり秩父で働きたいんだ、横瀬で働きたいんだみたいなのは伝えていたので、お前の好きなようにしたらいいんじゃないかなって、言われました。
ナカザワアヤミ:
これまでの人生の中で秩父とか横瀬っていうキーワードは出てきてるんですけど、何か転換点みたいなものはあったと思いますか?
浅見翔平:
でもやっぱり、1回就職のときに挫折したっていうのは一つポイントだと思います。
それと短大に出たときにも、なんかやっぱりこのままだと違うんだろうなっていうんで、高校の時と短期大学の時。何となくターニングポイントだったなって思うのはその2つですかね。
未来:秩父横瀬で家庭が築けたらなっていうのはビジョンとしてあったりしますね。
ナカザワアヤミ:
未来のことについてお聞きしたいんですけど、5年後とか10年後でもいいし死ぬまでとか将来についてご自身では自分自身の未来をどう思ってますか?
浅見翔平:
今両親と一緒に住んでて、実家にいて両親が健在なうちはとりあえず自動車整備士として食っていくんだろうなと。今の勤め先で食っていくんだろうなと。
もし万が一何か両親の身に何かあったときは、整備士を辞めておそらく実家に残る、実家を継ぐんだろうなとは思ってます。
今現在、独り身で恋人がいるとかそういうわけでもないので、32歳なのでもういい加減そろそろ、伴侶になるような相手を見つけて交際して結婚して家庭が築けたら。秩父・横瀬で家庭が築けたらなっていうのはビジョンとしてあったりしますね。こういう生き方だとなかなか難しいかもだけれど。
ナカザワアヤミ:
その将来のために今とか直近とかやりたいこととかありますか?
浅見翔平:
ずっと普段会社の往復だけだと、異性だったりとか、やっぱり会社の人間関係以外で繋がることがないので、また話が一番最初に戻るけど、やっぱり、町の地域おこし協力隊の人たちと今年だいぶ知り合ったりして友達、友好関係みたいな人の繋がりを僕自身もっと増やせていけたらいいなと。
横瀬町に居た同級生は、1学年100人ぐらいだと思うんですけど、今32歳になって、何人が横瀬に残ってるかってなったら、本当数える程度しかいないと思うので。
町からどんどん離れていく世代かもだけど、横瀬町も、官民連携してたり地域おこし協力隊の受け入れとか、町外から積極的に人を受け入れていて。町が関連しているイベントとかに出かけて行って新しい人間関係をどんどん増やしていけたらいいなと思っています。
ナカザワアヤミ:
これまでは新しい人間関係については、広げたいとかそういう思いはあんまりなかったんですか?
浅見翔平:
ありました。今年、ちちぶエフエムが開局5周年で。最近は、忙しくなっちゃって聞けなくなっちゃったんですけど。ちちぶエフエムが隣の秩父市に開局したとき、僕は開局の翌日に知りました。秩父でコミュニティFMラジオが出来て、朝7時から夜9時くらいまでずっと放送してるらしいって。職場も加盟店、スポンサーだったんです。
いざ聴いてみたらやっぱり秩父、長瀞、皆野、横瀬、小鹿野のことをずっと喋ってくれてるんで、このラジオは面白いなと。市や町でやってる催し物のことを放送しているので、そこに行ってみれば、誰かしらラジオきっかけで友達というか知り合いが増えるんかなって。ラジオ仲間じゃないけれど、自分と同じリスナーと繋がれたりするんだったらなと思って、ちちぶエフエムを開局から1年半、2年ぐらい聴いてて。朝の放送開始から夜9時に放送終わるまでずっと聴いてたりしました(笑)そのときは、ラジオ繋がりで人間関係が広げられたらいいなって思ってた時期はありました。
ナカザワアヤミ:
そのときは広げてどういうふうにしたいとかあったんですか?
浅見翔平:
とりあえず広げよう、みたいな。とりあえず友達が欲しいと言ったらそうですけど、仲間がいたらいいなって。同じメディアを通じて、SNSとかじゃないけど、仲良くなれたらいいなって。
実際それで、当時ラジオパーソナリティの人たちが、10人くらいいたと思うんですけど、いろんなイベントに出かけて行って、自分のラジオネームをお伝えする中で、ちちぶエフエムの人とは面識があって、今でも街中とかでばったり会えば分かるレベルというか、認知されてるというか、ありがたいですね。
ナカザワアヤミ:
そういう広がりができてみて、どう感じました?
浅見翔平:
今まで知らなかったこういう分野もあるんだと。こういう仕事があって、それに携わってる人たちがいて。普段、車の整備をしてるだけじゃ、知り合えないだろうな。
繋がらないだろうなみたいな人たちと、ちちぶエフエムをきっかけに交流を持てたりしたのでこれはすごいありがたかったですね。
ナカザワアヤミ:
なるほど。
これをするまでは死ねないなみたいなことってありますか?
浅見翔平:
結婚するまでですかね。なんか、奥さんを見つけるまでは嫁さんを見つけるまでは。
ナカザワアヤミ:
見つけて死んじゃったら困ると思うんですけど(笑)
浅見翔平:
そうですね(笑)あとはなんだろう。そんな焦ってるわけじゃないけれど、やっぱり友達とか同級生がもう家庭を持って家を建てて子どもが生まれてみたいなのを何人も見てるので、俺もいつまでもそんな遊んではいられないよなって、何となく思ってはいるけれど。そんな気持ちとは裏腹に、やっぱり遊んでしまってるみたいな。
結構ずっとですけど、趣味に生きてるのかな、みたいなのがあったりするんで。
ナカザワアヤミ:
遊んではいられないなっていうのは、やっぱり他の人を見てですか?
浅見翔平:
そうですね。家庭を築いた方がいいんだろうな。築けるのかな、みたいな。
ナカザワアヤミ:
築きたいですか?
浅見翔平:
築きたいですよね。
ナカザワアヤミ:
それは以前と何か変わったんですか?年を重ねるごとになのか何かきっかけがあってなのか。
浅見翔平:
そういうわけではなかったですけど、だんだん年を経てっていうところもあると思います。
ナカザワアヤミ:
さっき転換点みたいなところをおっしゃってたと思うんですけど、高校かな、高校のときの就職に関するちょっと挫折感みたいなものがなかったらどうなってたと思いますか?
浅見翔平:
仮に挫折しないで、勉強もできて西武鉄道に入れてたら。
ナカザワアヤミ:
そういうことになりますね。
浅見翔平:
でも、どうなんだろう。もしかしたら家を離れて、どこに配属されたかもわからないけれど。都内の駅なのか、埼玉県内の駅なのか。それをきっかけに、もしかしたら家を離れちゃった可能性もあるのかな。もちろん泊まり勤務もあるし。朝の始発や終電の担当だったら、もちろんそれぞれの運転区で仮眠所みたいな生活になってたと思うし。実家から通えれば通いだけど。やっぱり一人暮らししてたのかな、と思います。
ナカザワアヤミ:
その未来を想像してどうですか?
浅見翔平:
鉄道会社もいいことばかりじゃないと思うので。人身事故で予定が狂っちゃったりとか、それこそ人身事故の現場に当たるかもしれない。自分が思い描いていた良いビジョンだけじゃないだろうな、と。鉄道会社に就職したかった、羨ましいみたいな気持ちもありつつ、じつは、今の車の整備の仕事よりもハードな場面もあるだろうし。むずかしいですね。
ナカザワアヤミ:
なるほど。ありがとうございます。1時間近く話を聞いてきて、最後に何か言い残したことはありますか?
もしくは感想でも、記事を読んでくれてる方に対してのメッセージとかでもいいんですけれども。
浅見翔平:
えっとですね、定期的に火曜日の夜、横瀬駅前食堂の火曜日の夜臨時営業に食べに行ってるんですが。僕やっぱりSNSの投稿が好きで、逐一その日食べたものとかメニューとか投稿してて。とあるタイミングで横瀬町の地域商社 ENgaWA、横瀬駅前食堂の公式アカウントから、10件?15件?結構な数まとまって「いいね」をしてもらって。すごく見ててもらってるなと。
と同時に、横瀬町地域おこし協力隊・中村怜生くん(当時は、ENgaWA公式アカウントの中の人?)の個人アカウントからポツンと「いいね」をしてもらえたことがきっかけで、いつかどこかで彼に会って挨拶したいなとか、いつもありがとうって気持ちを伝えたいって思ったんですよね。
7月か8月だったんですけど、たまたま僕が火曜の夜営業に例のごとくお酒飲みながら、夕飯を食べてるときに彼がたまたま入店してきて、お酒に若干酔いながらも、入ってきた人の顔を見上げてみたときに、中村くんかなって。個人アカウントの写真が彼そのままだったので、もしかして彼なんじゃないかと思って、声かけたら「私中村です」って彼も言ってくれて。「どこかで面識ありましたっけ?」みたいな話になって、自分のTwitterのアカウントを見せながら話して、彼と衝撃的な初対面を果たすことになって。
そこから彼と繋がり、2024年の夏、地域商社ENgaWAでビアガーデンをやるっていうのを知り、よかったらぜひ来てください、遊びに来てくださいみたいな。彼と知り合ったことで、彼が携わっているところに行っては、同じ地域おこし協力隊、地域商社ENgaWAに携わってるメンバーと親しくなって、いろんな人との繋がりが生まれて、地域商社ENgaWAだったり、横瀬駅前食堂の常連客というか、ファンというか、応援したい気持ちが強くなってきましたね。
https://www.instagram.com/engawa_challengekitchen/
この夏だけで、おそらく10人以上の方と連絡先を交換して繋がれたので。中村怜生くんたちとの繋がりは32年生きてきた中で結構大事にしたいなって思っています。
ナカザワアヤミ:
ありがとうございます。
あとがき
地方創生、地域活性化に興味がある方でしたら、もしかしたら聞いたことがあるかも、な町。埼玉県横瀬町のインタビュー第1回目となりました。
私が今年から活動している地域でもありまして、続ける気満々ですので…(笑)横瀬の皆さん、ご応募お待ちしています!
はからずも、横瀬という町が自分の中心だという言葉が飛び出しました。
横瀬は埼玉県の秩父地域にある、いわゆる田舎な地域ではありますが、西武線沿線でもあり、東京へ1~2時間で出ることができる場所です。
そういう意味でいくと、この言葉は、これまできいてきたローカルな人の言葉、特に地域で生まれ地域で育つ方の言葉の中でも、若干異質なものなのかもしれません。若い世代の地方民の前に立ちはだかる「外へ出る」か否かの選択肢は共通しつつも、「外」への物理的障壁の度合いによって意味が異なるのではないか。
とはいえ、「すぐ戻れるし、外へ出て戻ってこない」と「なかなか戻れないから、外へ出て戻ってこない」というのもどちらもありそうですが。
【インタビュー・編集・あとがき:ナカザワ】
#無名人インタビュー #インタビュー #一度は行きたいあの場所 #この街がすき #横瀬町 #地方創生
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