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【海士町】タイトルが決められなかった人

海士町イン旅ュー2024夏はっじまるよ~🌊

今回ご参加いただいたのは たな さんです!



現在:その裏側で、いろんな人たちが泥臭く、動かしたりしてるってことがわかって。来てよかったなと、自分では思っていて。その泥臭さが海士町らしさを感じるところだなと。

一休誰絵:まずお名前と、何をされているのか、お聞きしてもいいですか。

T:今は25歳です。

海士町では、大人の島留学とか、島前高校魅力化プロジェクト運営している、島前ふるさと魅力化財団でバックオフィスといわれるような部署で働いています。

一休誰絵:この来島されてどのくらい経ちましたか。

たな:3年目になりました。

一休:実際に3年目になって、海士町ってどんなところだと思ってますか。

たな:海士町は、人の入れ替わりが本当に激しいというか。

Iターンだったり大人の島留学だったり、観光客以上住民未満のような人が入れ替わっていく。入れ替わったりいつか出ることが前提なんだけど、今、島に住んでいる人がたくさんいて、特徴として1つあるのかなと思っていて。

だからこそ、いろんな人たちと出会うきっかけがたくさんあるので、面白いなと思っています。

元々自分も大人の島留学がきっかけで来島しているので、1年目は大人の島留学で、2年目に入るタイミングに島で再就職をして、島暮らし2年目を迎えて。短い期間だけど、刺激をもらえるような、本当にいろんな人と出会いがある場所だなって。

一休:現地で就職されているっていうことは、大人の島留学自体、任期っていうですか、それを終わった後にですか。

たな:はい。

一休:ということは、今のところ、島から出る予定は?

たな:全然想定していて、島での就職ってイコール定住しなければならないって意味じゃないと思っていて。

なので、感覚としても移住したって感覚はなくて。ただ、ここにいる期間が伸びてるみたいな感じというか、いつまでいるかわかんないけど今住んでる場所みたいな感じ。ずっと住むイメージはないかもしれません。

一休:そうなんですね。そもそも海士町を知ったきっかけみたいなのは?

たな:海士町を知ったきっかけは、大学のゼミの活動で。高校魅力化プロジェクトの経済波及効果をテーマに活動していて、たまたま専攻研究として来島したことでした。

自分が研究フィールドにしてたのは、石川県の能登町だったんです。能登でも高校魅力化がちょうど始まるタイミングで。プロジェクトの根拠として、効果を定量定性の面から検証すようなことをしていました。

一休:そうなんですね。移住じゃないですか。ここに来てみて、イメージって結構変わりましたか。

たな:そうですね。やっぱり外側からみている海士町って、まちづくりとか地方創生みたいなもののトップランナーというか、「タグボート」みたいな表現をされることがあって。まちづくりの聖地のような、キラキラした存在だと思われているのかなと感じるときがありました。

実際来てみると、その裏側で、いろんな人たちが泥臭く、動かしたりしてるってことがわかって。小さい積み重ねの上で、インパクトを残したり、新しい取り組みをガンガン進めているのかなと感じます。踏み込んでみたからこそみえてきた海士町の姿はあって、いい意味でギャップがあった。ここで今いろんな方と仕事させてもらっていること、来て残ってよかったと思っていて。その泥臭さが海士町らしさだなと。

一休:泥臭さ。

たな:例えば、島留学で1年目に来たときに、配属された部署では、空き家の改修だったり、島留学生たちが住むシェアハウスの整備をする仕事を最初していて。草刈りをしたりとか、空き家清掃をしたりとか。

そこに関わっているメンバーは、自分たちのような大人の島留学1年目もいれば、島歴5年目の先輩、事務局のマネージャー、役場の職員も。そこは、大学時代に視察やヒヤリングとかだけではわからなかった。想像が全然できていなかった裏側のところが、実際に自分が住んで仕事をしてるなかで感じ取れるようになってきて、、ちょっと最初にどういう質問だったのか、全然忘れちゃったんですけど。

一休:いえいえ、全然大丈夫ですよ。ちなみに、質問としては、ここに来る前と来てみて変わったことをお聞きしていました。

たな:海士町の見え方が変わったのが一つ。あとは、自分自身のキャリア観とかは全然変わっていないんですけれど、そんなに場所にとらわれなくていいんだな、と思うようになりました。

元々こっちに来たときは、いつか地元に帰って、地元のためにできることが何かないかなっていう。修行じゃないけど、そんな感覚、気持ちとしてはあったなと。

ただ、島で仕事してるうちに、色々な働き方をしてる人がいて。2拠点でバリバリやってる人もいるし、町に住んでるんだけど、外の仕事をしてるし、その暮らしをなんか楽しんでいる。島でもいきいき働いてるのに、島を飛び出して違う環境に行っちゃう人とか。島で面白いこと生み出し続けている人とか。

そういう、場所へ囚われる感覚?がいい意味で壊された。ここに住んでるからこれをやらないといけないとか、ここに行ったらこれをやらないといけないとかは全然ないんだなと思うようになって。

海士町で、ここで区切りをつけたあとに、地元じゃなくても、全然違う場所にいって、仕事をしてもいいし、いろんなところとつながっても全然違うことするのも面白そうだなって思うようになりました。

一休:逆になんですけど、住んでみて、ちょっとうーん、って思うところとか、ちょっとここはなぁと思うところとかあったりするんですか。

たな:多分いっぱいあるんですけど(笑)
でもそれを上回るくらい、多分、ここでの仕事とか仕事とかやりがいみたいなものがあるから、まだここに住んでいるし、仕事をしているんだと思っているので。
あるとしても、多分結構些細なことかも。

地方だし島だし、人も少ないので人との距離が近いし、よくあることかなとおもうんです。

でも、自分にとってそれがちょっと息苦しいって思う反面、家族とかそういう、仲のいい友達とかが島の中には元々いなくて。

気にかけてくれる家族みたいな地域の人とか。ふらっと昼時にいって、一緒に食卓を囲むとか。楽しい?うーん。多分、家族以外のコミュニティを持てたことが、自分の豊かさ的なことに繋がっているのかも

大人の島留学は、年間で200人とかすごい大人数を受け入れているんですけど、普通の田舎って、若い人とか移住者みたいな人って、すぐその存在が際立つというか。あまりいないじゃないですか。そういう人たちの希少性が高まる感じ。

だけど、ここはすごく入れ替わりもあるし、だからこそ、その希少性が下がるから、若い人たちが、周りの目をあまり気にしすぎず、仕事だったりとか、暮らしを、楽しむじゃないですけれど、実践したり少し踏み込んだ活動ができる。

新しい地域の在り方でいいなと思う反面、地域っていう場所に暮らす、地域と繋がってる感みたいなのは、ちょっと薄まってるかな、とは思う時もあって。ちょうどいい距離感って難しいです

けど、組織や仕事の中では、そこまで規模が大きくはないから、任してもらえたりする幅ががひろかったり。これが海士町らしさ、ここならではかなと思っています。

一休:地域との繋がりが他の町と比べてあんまり感じられないんじゃないか、ってことですか。

たな:住んでいる期間がちょっと長くなってきたから、あんまりその感覚が鈍って来ちゃったんですけれど。巻き込んでくれる人たちはすごいたくさんいるので。

地域と繋がってる感はあると思うんですけれど、離れたらその関係がなくなる、希薄になる感じもちょっとあるのかなって。

完全にそう、とはいえないですけれど、どちらかといえば、繋がっている反面、いっぱい繋がっているなかの1人っていうか。

それが心地いいときもあるし、寂しいこともあるのかな。だからどうしようとは全然思わないんですけど。


過去:結構突拍子もなく何かを自分が決めるタイプというか。

一休:ありがとうございます。

話が変わりまして、たなかさんの過去についてちょっとお話ししてほしくて。
出身はどちらですか。

たな:出身は岐阜県です。

一休:そこにずっと住んでいましたか?

たな:高校までは、岐阜に住んでいて、大学進学がきっかけで、石川に行きました。社会人1年目に地元にもどって、社会人2年目になる年に島に来ました。

一休:そうなんですね、ありがとうございます。覚えてる限りでいいんですけど田中さんの小学校中学校自体どんな子供でしたか。

たな:宿題をしない、忘れ物をする、遅刻する。自分の中の正しさ?を貫くような感じでした。

いわゆる何かちょっと残念というか。真面目な生徒っていうわけではなく、いかに勉強せずテストでいい点数を取るか、という変なこだわりをもって過ごしてた気がします。小中学校の自分のイメージは、やっぱりちょっと斜めに、あんまり素直さはない子どもだったかも‥。学校はそんな感じだった。

もともと、舞台関係やミュージカルとかダンス、そういうのが好きでした。なので、そっちの道に最初進もうとしていて。当時の自分の中では、学校生活とかはそんなに大事だなと思っていなかったかもしれないです。

だから、自分が頑張りたいことは別にあるからそっちで頑張っています、みたいな。今思えば、全然そんなことなくてそれも含めて頑張れるかどうかが大事なんじゃないかなって言いたくなります。

一休:習い事とかそういう演劇系のことをやってたって感じなんですね。へえ。
それはいつまでやっていましたか。

たな:高校2年生までやっていました。高校はいわゆる進学クラスみたいなところにいっちゃったので。

舞台一筋!っていうよりかは、習い事と並行していました。高校2年生ぐらいまでは両方ともガッツリ。特に高校2年の時は、月1で大阪に通って舞台関係のスクールに通っていたので、一番頑張っていたかもしれません

一休:岐阜か大阪まで、どのくらいかかったんですか。

たな:車で4、5時間かかりました。それ全部父親が送迎してくれていました。今考えたら本当に信じられないことをしてもらっていたなと。感謝しています。

一休:親御さんとの関係はどんな感じでしたか?

たな:あんまり自分の記憶はそんなにないんですけど。

すごい仲がいいというよりかは、自分がやりたいっていうことに対してすごい応援してくれる存在、というイメージです。礼儀とかそういうものを通して、思った記憶はありました。

あとは、自分がやりたいって言ったら、「それはあなたの向いているものじゃないから」みたいな感じで否定されることはなくて、自分がやりたいことに対して、尊重してくれました。

一休:地元で1回就職した後に、海士町というのはかなり距離があるじゃないですか。そこに行くことに対しては?

たな:
反対はされなかったですね、
もともと、突拍子もなく何かを決めるタイプというか。

大学の時も、今年の夏は前半は北海道でじゃがいも掘って、後半は島に行ってきます。って言うのを、急に言い出す。

「え、いくの?そうなんだ」と、驚いてるけどそうなのね、と。受け入れてくれた気がします。地元に戻るときに、何かやるために島で頑張ってこようかなと、当時は説明していたので。納得してくれた、と、思っています。実際にどう思っているかはわからないんですけれど(笑)

一休:演劇自体は、いつ頃まで?

たな:バレエが一番長くて、がっつりやってたのは小3から高2まで。高3のときは大学受験があったので、週1でバレエだけ続けていました。
舞台関係の受験というか、オーディションを受けられるのが中3~高3までだったので、ひとまず区切りとしてやっていました。

一休:大学でも続けてはいましたか?

たな:大学の部活でストリートダンス部に入って、ダンスは続けていました。なぜかだか、舞台関係、芸術系の大学に進むっていうことは全然なく。いま思い返すと、すごい不思議です。

ただ、家族と相談して高3まですごく色々と習い事をさせてもらっていたので、そこが理由だったのかなと思います。そこから先、これ以上負担をかけるのはちょっとちがうなと思って、それ以上は求めなかったのかもしれない。

今やりたいことはなんだろう、と考えると、やっぱりその道は思い浮かんでいるというか。やっぱり、ダンスは続けたいな。でも人に教えるのってどんな感じだろう、どうやって活動しようとか色々考えると踏み出せなくて、ずっと葛藤してます。

たな:今やってる仕事も頑張っていこうという気持ちと、自分が本当にやりたいことはなんだろうって。多分、舞台やダンスという分野に対して、自分がやりきったと思っていない。あくまで受験とオーディションという区切りでうまくいかなかったから、今がある、という感じ。もちろんその期間に学んだとことも沢山今の糧になってますが、

一休:たなさんの芸術系とか全然進まなかった代わりに、何を勉強していましたか。

たな:大学時代は経済系学部でマネジメントという切り口で経済・法律とかを浅く広く勉強するという学科にいました。その中で地域地方創生コースをゼミの中で選択して、海士町のことを知って。

母親が公務員で、型にはまってる感じの仕事なのかなと当時感じていて。一方で、なんとなくあるものを最大限活用してよりよくしていくようなイメージがあった経営という分野。
経営って自分の中で制限がある一方ですごい自由な感覚があって。

地域×経営ってどんなアウトプットが生まれてくるのか関心がありました。まちづくりとかを勉強してみたいな、と思ってその学科を選んだ。芸術系っていうものに対する自分のやりたいこともありつつ、自分の興味関心としてまちづくりもあった、ということもあって、大学ではその勉強に。

一休:そのときの自分に戻ったとして、どっちを選ぶんですか。

たな:偶然、この前、同じ質問が違う人からきたんですよ。びっくりです、自分ってどっちえらんでいるんだろうな…。

当時の自分が大学進学するとき芸術系にどうしても行きたいんだっていうのを、強く押さなかったのがなんでだっけ、と。そんなことすら忘れてたというか、最近になって、なんで自分はあのときに選ばなかったのか思い始めて。あまり考えたことはなかったんですけれど。

自分が舞台に立つだけじゃなくて、舞台関係に携われる仕事もあるんじゃないか?一旦、色々調べてみたら?って、当時の自分には言うと思う。

たな:どっちを選んだっていいんですけど、そこまで真剣に向き合ってこなかった。

そこを当時の自分がそのときつきつめていたら、親を説得したり、それを実現する方法を考えていたと思うので、それは伝えたいかも。
選ばなくて後悔してることは全然ないんですけど。その方法もあったんじゃないかなと。

一休:大学3年あたりのときに就職活動とかはされていたのですか。

たな:一応していました。でも、能登町の研究とかゼミの活動がそのときすごく楽しくて。
就職活動というものに対しても、斜めにみていました。そんなにがんばって何になるんだろうって。エントリーシート何十枚も書いて、何千人何百人いるうちの1人ぐらいにしか思われてないでしょどうせって。

それなら自分は違うことにエネルギーを割きたい、って思って。

就職に対してすごいエネルギーを割くよりかは、今、頑張りたいことやっている方がそれを認めてくれる場所というか。それいいじゃん、と行ってくれる場所があったら、そこで働きたいとは思っていました。なので、大手企業などへの就職やキャリアみたいなものを真剣に向き合ってはいなかったです。

とりあえず、卒業して、途方にくれないように、内定もらったとこに一旦いこうと思って。
けど、どこに進んだら自分が納得できる暮らし、働きかたができるのかがわかんないなと思って。探していろんな人に話を聞いたらもう少し分かったとはおもうんですけれど、結果的にドラッグストアで働いていました。

だけど、やっぱり、もうちょっと地域に関わる場所で働くのが面白いのかなと思って。地元の農家さんの求人やアルバイトを探していましたが、地元だからこそなのか関係性が気になったり、なんとなくしっくりくるのが見つからなかった。そこでふと海士町を思い出して、知人のSNSで大人の島留学が紹介させていて、これだと。

一休:能登町の研究は具体的に?

能登高校魅力化プロジェクトがちょうど発足したタイミング、始まって2、3年くらい。事業をやっていく根拠というか、経済波及効果がどれぐらいあるのかというのを役場と大学が連携して、数値化していく、といった研究をしていました。

一休:研究してすごく楽しかったって先ほどおっしゃってたとおもうんですけれど、とくに楽しかった、どうして楽しかったのでしょうか。

たな:地域のなかで、1つのプロジェクトが動くことで、どういう人たちが関わって、どうお金が動いて、ぱっとみたらあまり見えないところまで考えられるというか、構造が見れることがそのときは面白くて。かつ、それが形になったときに、そのプロジェクトが地域と繋がっていくのが面白いなと思っていました。

自分がやってることが誰かのためになっているかもしれないというわくわくした感覚、やりがいがあったし、それをゼミのメンバーと一緒に進めるのが楽しかったかなと。

それが地域・フィールドに仕事をしたいというところに繋がったのかなと思います。
実際島に来てからわくわくしたり、面白いと感じるときって、皆で頑張って何かが出来上がった時やプロジェクトが進んだと感じる場面で。普通のことかもしれないけど、自分がわくわくする瞬間を肌で感じながら俯瞰している感覚があることが面白いです。

未来:最近、自分の中のキーワードだなと思っているのが、「着実さ、POPさと大胆さ」

一休:Tさんの1年後、5年後10年何年後でも大丈夫なんですけど何をしていると思いますか。

たな:最近書いたんですよね、10年後、自分がこうやって1日を過ごしているといいなっていう円グラフ。でも、なんとなくしっくりきてなくて。

何してるんだろう。ちょうど最近それを考えているタイミングでした。
多分場所は変わってる気がしていて海士町ではない場所にいるのかなあと。

もっといろんな場所を拠点にしながら、仕事ができたら面白そうだなと思っていて。

仕事も暮らしも、どっちにも厚みがあったらいいなと思っている。どっちにもちょっと余裕がある状態、プラスアルファ頑張れる余力がある、くらいのキャパがあるといいなと思っていて。

今、総務・経理、労務を仕事でしていて、会社のインフラみたいなところをやっているんですけれど。

その分野で、もっと根差したプロフェッショナルまではいかないんですけれど、1人でそこを任されても全然できます、みたいな、ちゃんと任せてもらえるようになることが今の目標です。2年後にはそうなっていたいです。
今まではあれもこれも全部できるようになろうと思って、手を伸ばしすぎてできない自分に絶望するって言うのを繰り返していた。

全然進んでいかない、成長できている実感がないまま時間が過ぎていくのが良くないなと思って。最近、兼務している仕事を1つに絞らせてもらいました。専念するものを決めるタイミングだった。決めたからもういい意味で逃げ道がなくて、やり切る覚悟?のようなものが少しずつ大きくなってきた気がします。

一休:どういう自分でありたいみたいなのはありますか。

たな:その専念するって決めたものがいつか形になって、何かに繋がっていったらいいな。どうなるかわからないことを目いっぱい楽しめるようになりたいです。

こっちに来てからすごい感じるようになったのが、四角いものを四角くないと納得いかない。自分は頑固なところがあるな、って。

一休:ほう。

たな:あまり融通が利かなくて。こういう見方をしたらこういう考え方ができる、
この向きだったら、こうとしか見れない、みたいな。いろんな方向から物事を見たり、柔軟にダイナミックに考えられるといいなと思っていて。

最近、自分の中のキーワードだなと思っているのが、「着実さと、POPさと大胆さ」。

ちゃんと守りが固まっている、攻めと守りのバランスがいいんだけど、POPで面白い。そんなあり方というか。自分で何かを選ぶときもそうだし、何か形にするときも、そういうのを大事にしていきたいなと思っていて。

なんでPOPかというと、楽しさというか、どうしたら楽しく長く続けられるか、持続性があるかないかというのが自分の中のテーマになっている気がします。

でも、続けられるものとか、だれかのこういう意見をきいて、こうした方がいい、ああした方がいい、というのをを聞くと、本当に小さくなってしまう。こぢんまりしていくというか。

だからこそ、大胆、ダイナミックにいきたいと思う。ちゃんと守っている部分もあって。つっこまれても揺るがない。ちゃんとすれば形として続いていく、基礎みたいなものを守れる。

自分で事業を起こしたりとかはまだイメージがつかないけれど、どんどん成長していく場所で働きたいというか、そういう場所で頼られて戦力になれる人でいたい。いい意味で流れに身を任せながら、流されているようで進みたい方向は自分の中に持てるような。

一休:さっきおっしゃってた仕事暮らしとか、いずれかはちょっと余力がある感じが、という話があったとおもうんですけれど。今のキャパシティが100だとすると、どのぐらいキャパ埋まっていますか。

たな:常にキャパオーバーです(笑)

一休:そうなんですか。

たな:あんまり自分に余裕があるとは思っていなくて。常に飽和しているというか。
ただ絶対やらなきゃいけないことがある。ちょっとうまく答えられないかもしれません。

たな:やらないことをもっと決められるようになりたい。

やらないと決めた自分に対して、それを貫いてみる。考える余裕と、その余白で形にできるようになっているといいな、という感じです。

一休:今のここでの暮らしの満足度、海士町を入れてもいれなくてもいいのですが、満足度100%がMAXだとして、何%くらいですか。

たな:60ぐらいですかね。

一休:60はどういう理由で?

たな:仕事に対してはすごいやりがいを感じてるし、満足しているので。50よりはあるな、という感覚。

けどその分、それ以外の時間をどう使うかみたいなものがあまり考えられなくて。

仕事って、自分の時間をより充実させるための1つの要素と考えるとそれに今、自分の100%咲かれているのが、あまり幸せな状態ではないなと感じていて。土日の過ごし方だったり、月曜日から仕事があるから今は休んでる方がいい、という選び方はなんか違う。

今それを頑張りたいんだったら、それでもいいとはおもうけれど、あんまりそれは自分にしっくりこなくて。仕事だけを頑張るというよりかは、両方合わせて自分の暮らしというか、両方とも同じくらいのタイヤの大きさになるような。

ですけど、上司からはそういう守りに走りすぎないでって言われてて。
いつも結局守りに走っちゃうのは自分の性格かも。
でも攻めたいなという気持ちにもなる。

一休:攻めたいと思いつつも攻めきれていないのはどうしてでしょうかね。

たな:尻込みしちゃう瞬間はすごくあるというか。色んな人がいるからこそもっと適材が必ずいる、と考えてしまう。すごいネガティブに考えてしまうんですよね。抜け出したい自分の殻です。自分が頑張らなくても、誰かがなんとかしてくれるかもしれない、とか。そういうことかな、と。一休さんは、そういう瞬間はありますか。

一休:そういう瞬間が私の場合だと、私はあれこれ考えすぎてしまうというか、何かいろいろやりたいことはたくさんあるけど、絞りきれないみたいなことがたまにあって。結構私も進路にだいぶ悩んだ組なので、それが今のところちょっとあんまりいい方向に向かってるかどうかちょっとわからないことがあります。

たな:あれこれ考えちゃうのは自分にもあるというか。
関連する、いろんなことが思い浮かんで、攻めれない、選択の基準が自分になくて。
他人軸で選ぶことがすごい多いなというのに最近、気づいて。

自分はどうしたいっていうよりかは、自分がどうしたいかの理由が、「この人がこうだから、この人がこうなるためには、自分はこうした方がいい」という。
それが自分にとっての、幸せな状態、というのは今まで思ってきたけれど、結局進まないというか。

けれど、うーん、そういうことなのかな。今はあまり答えは出ていないですね。

一休:もしかしたら、今すぐ答えを出そうとしなくても、大丈夫なものでもあるとは思いますよ。

たな:そう、さっきもいった、「POPに、大胆に」というのは、こっちに来てから大事にしたいって思うようになりました。

島に来てすぐに、「硬く考えすぎだよ。楽しくやれるようにどうしたらいいか考えてみて」と言われたことがあって。

そのときはこの人がそう前向きで明るい人だからこう言えるんだよ、と正直思っていたんですけれど。

やっていくうちに、それも大事なのかも。意図的にその楽しさとか面白さとか、POPな要素を作るのは、大事なことなのかな、と思い始めて。それはどういうかたちでもいいんですけれど。

大胆にというのも、こっちに来てから。自分の考えていることがやっぱり小さいこと、この人だったらもっと、こんな小さく考えないよなきっと、と思って。海士町ってダイナミックというか。それは海士町の面白さだし、インパクトもあるし。それに惹かれて集まってくる人たちもたくさんいる。

今大事にしたい価値観の基礎になってるのは、確実に海士町に来てからこの2、3年の経験というのはすごい大きい。

一休:最後の質問なんですが、これから記事が公開されるんですけど、その読者に向けてのメッセージだったりとか、あとはこのインタビューの振りかえりでもいいですし、これからも自分に向けてとか、これは言いたいと思ったことがあれば。

たな:自分が、発信したいこと、伝えたいことを言語化する場面を増やしてもいいなと思うというか。

なかなか人にインタビューされるとか話す機会がないからこそ、お話したこと以上に、そういう機会を作っていきたい、そういうこういう機会にちゃんと話せるようになりたいなって改めて思いました。

今日話したこと以上に、自分がこんなことをやってみたいと思うことってあるなとも。

自分が島留学にきた最初の1年のときに、還流ノートでいろんな人にインタビューして、みんなそれぞれいろんな要素があり、すごい面白かったのを思い出しました。そのときの人に興味を持つことで、自分にとって選択肢が増えて、すごく面白いことだなって。

全然振り返りでもないですが(笑)

一休:ほかはもう大丈夫ですか?

たな:大丈夫です。

一休:ありがとうございました。

インタビュー実施:2027/8/22@隠岐開発総合センター

あとがき

私のインタビューかつ、対面イン旅ュー2人目として受けていただいた〇〇さん。
迷いながらも、ゆっくり、自分の言葉としてお話ししようとされる姿が印象的でした。

未来の話に出てきた、「POPさと大胆さ」というキーワード。もしかしたら、20代を生きる私たちに共通して憧れるものなのではないかと思っています。
かくいう私も、「この道でいいのだろうか」と迷いながらも歩いている最中です。だけど、「POPさと大胆さ」を備えた人にもなりたい。

無名人のインタビューの方針としては、「インタビュー中は、共感してはいけない」というものがあるそうですが、これがすごく難しかった。実は心の中で、あのキーワードを聴きながら、「そうですよね!私も!」なんて、共感の相槌をひたすら打っていました(笑)

そして、これはインタビュー後の会話にもなるのですが、もともと住んでいた場所から、遠い離島・海士町へ住まいを変えるという行為は、〇〇さん自身にしてみたら、大したことのない選択だったそうです。

だけど、馴染みのない土地に根を張っていこうと決意するのは、大きな、大胆な決断に思えるのです。

「もしかしたら、ずっと海士町にいることはないと思う」と語った〇〇さんは、私からみると”渡り鳥”のような、身軽さを持っている気がします。

「POPさと大胆さ」を携えた〇〇さんのこれからを、私もみてみたい、そう思えたインタビューでした。

お忙しい中、インタビューを受けてくださった〇〇さん、ありがとうございました。

そして、最後までお読みいただいた画面の向こうのみなさま、ありがとうございました。ぜひ、ほかの海士町イン旅ューもお楽しみくださいませ。

【インタビュー・編集・あとがき:一休誰絵】

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この記事は海士町関連のインタビューです。

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