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「信じる」を否定しないこと

まず、前提として、私は特定の宗教を信仰していません。そして宗教や神様を信じる人を批判するつもりも否定するつもりもありません。さらに言えば、神様や仏様について宗教についてどのくらいの知識があるのかと言えば、ほとんどありません。だから、もし自分に確固たる信仰がある人がこの文章を読んで不快に思ったり傷ついたりしてしまったらごめんなさい。

私のおじいちゃんは浄土真宗を信仰しています。どのくらい敬虔なのかはわかりませんが、幼い時から親鸞さまについての話を聞かせてくれました。病気になる前は頻繁にお寺に行って住職さんの話を聞いていました。病気になってからもYouTubeで配信されている住職さんの話を聞いています。
でもそんなおじいちゃんもクリスマスにはケーキが食べたいと言います。バレンタインは要求してきませんが、これは宗教云々ではなく、単に世の流行に疎いだけだと思います。
おじいちゃんは私たちに浄土真宗を信仰することを求めてきません。話はするけど、私が何を信じるかについては何も強制しません。

おじいちゃんがどうして親鸞さまの教えに真剣に耳を傾けるのかを疑問に思ったことはありませんでした。失礼な言い方かもしれませんが私が推しのラジオを毎週聞いて、YouTube配信を見て、グッズを購入するのと同じなのかな、なんて思っていました。

きっかけはたまたま母と二人でドライブしているときに母の昔話を聞いたときのことでした。その日はおじいちゃんの面会に行く日で、14時から始まる住職の説法生配信を聞きたいからそのセッティングをしてくれと頼まれていました。
母の昔話に出てくる家族のエピソードの多くが土日になるとお寺巡りに付き合わされたというものでした。母は興味がなくつまらなかったようです。そして今も母が宗教に対して特別な感情を抱いたり、おじいちゃんのように浄土真宗を信仰しているそぶりは全く見えませんし、おそらく親鸞さまが一体何者なのかもよくわかっていないと思います。
おじいちゃんはそれなりのお坊ちゃん育ちだったようで私立中学校に通っていたようです。その学校はキリスト教の学校でキリストの教えを習っていたというのです。でも、私は曽祖父母がキリスト教を信じているなんて聞いたことは無いので、おそらくキリスト教は付属していたもので、たまたま入った学校がキリスト教系の学校だったのだと思います。そしておじいちゃんからキリスト教についての話を聞いたこともありません。
「ねえ、おじいちゃんはどうして浄土真宗を信仰してるの?」
はじめて母に聞いてみると、その返答は私が初めて聞く話ばかりでした。

「私には本当は妹がいたんだよ。きく江ちゃんっていう。6歳下の妹。おばあちゃんが亡くなる前からうちの実家にはお仏壇があったでしょ?あれはきく江ちゃんのためのお仏壇だったんだよ。きく江ちゃんは生まれてすぐに亡くなったの。死産だったのかどうかはわからないけど、生まれてきても泣かなかったんだって。多分今の医療だったら助かった命だったと思う。私も小さかったからよく覚えてないけど、お母さんのお腹がどんどん大きくなっていって、赤ちゃんが生まれるのがすごく楽しみだった。赤ちゃんが生まれたけど死んじゃったって言われて、お葬式をした記憶はないけどきく江ちゃんのためにお手紙を書いたのは覚えてる。あと骨壺も、本当に掌に乗るくらいの小さな壺だった。私が生まれて、弟が生まれて、どちらも安産だったし、3人目でたぶんその時はまだ30代前半くらいで順調にお腹の中で育っていったから、まさか亡くなるなんて思ってなかったと思う。亡くなった原因も不明だったと思う。それは私にはわからない。ただ絶対元気に生まれてくるだろうと思っていたからショックは大きかったと思うよ。誰が悪いとかそういうことじゃないんだけど、でもじゃあどうして?って。それからだと思う。お父さんがお寺にお参りに行くようになったのは。理由もわからずに亡くなったきく江ちゃんがきっかけ。なんで浄土真宗なのかはわからないけど、お父さんはきく江ちゃんのために信仰を始めたんだと思う。それから、お母さん、あんたにとってのおばあちゃんも亡くなったでしょ。還暦まで生きられなかった。それから自分も定年退職する前に病気が見つかって夫婦で過ごす老後の第二の人生どころか、自分の第二の人生も病気との戦いになっちゃったのは、本当に可哀そうだと思うし、絶対に言わないけど苦しいと思う。だからこそ、お寺さんのことを大切にしてるんじゃないかな。」

それから、おじいちゃんのところに行ってYouTubeの配信の設定をしました。母は興味がなさそうでスマホをいじったりうたた寝をしたりしていました。でも、私はおじいちゃんが信じているものが何なのか少しでもいいから知りたくて、住職さんの話を聞いてみようと思いおじいちゃんの横に座って一緒に生配信を見ました。生配信の前半はお経だか念仏だかを唱えていて、正直退屈でした。でもおじいちゃんは時折、そのお経だか念仏だかを一緒に呟いていました。何も見ないで。
後半は住職さんのお話でした。最初は戒名をいただくことがなんたらかんたら…といった話で知識も教養もない私には何を言っているのかわかりませんでした。正直に言えば、戒名が欲しければお金を払えよっていう広告なのかと思ってしまいました。でも、途中からは住職さんの話がすごく温かくて胸にスッと入ってくる感じがしました。
その配信をしていたチャンネルもわからないので、私の記憶を頼りに書きます。もしかしたら少し違うことを言っていたのかもしれませんが…。

「皆さんは孤独だ、ひとりぼっちだ、と感じることはありますか?常に思うことは無くても、ふとした瞬間にそう感じることがある人が多いのではないかと思います。それは人の目で世の中を見ているからです。浄土真宗(親鸞さま?)は浄土はすべて繋がっていて一つであると言っています。浄土、それはつまり今皆さんが生きているこの場所です。浄土はすべて繋がっていることを見ることができるのが”凡人の目”(違うかもしれない)なのです。説法?を唱えて凡人の目で世の中を見れば、浄土がつながっていることがわかると思います。
もう少し具体的な話をしましょう。皆さんはネットカフェに行ったことがありますか?ネットカフェには個室のブースがあって、お客さんはその中に一人で入って漫画を読んだりパソコンをいじったりしています。そして漫画を取りに行ったり、ドリンクバーに行くためにそのブースから出てきて、そしてまたブースへと戻っていきます。そのブースの中は一人の空間です。他の誰にも邪魔されない空間で、考え方を変えれば孤独になれる空間でもあります。
でも、そのブースというのは立派な扉で区切られたようなものではなく、頑丈なついたてで仕切られているといった方が近いようなものです。だから私がブースの中で漫画を読んでいるときに、隣のブースからコバエが飛んで入ってきました。そしてそのコバエは私が手を振って払いのけるとまた別のブースへと入っていきました。そうです。コバエにとってはブースなんてものは関係ないのです。もともとはただの広い空間だったところに、本棚やドリンクバーを作り一人になれるためについたてを立てただけの空間なんです。だから人間は他の人がいるブースに入って行けなくても、コバエは関係なくその空間のすべてに行くことができるのです。迷惑な話ですが。
じゃあ、そのついたてを立てたのは誰ですか?そうです。人間なんですね。人間が一人になるために本当はどこにでも行ける空間についたてを立てて孤独を生み出したわけです。コバエを凡人の目に例えていいのか微妙なところですが、コバエからすればみんな繋がっている空間で孤独なんかは存在しないのです。コバエの目線が、凡人の目なのです。そして孤独を生み出しているのは人間なんですね。
世の中にはいろいろな孤独があります。物理的に目に見える孤独もあります。精神的に孤独だと感じる瞬間もあります。でもそれらの孤独というのはすべて人間が作り出したものなのです。お経(念仏?)を唱えて凡人の目をもって世の中を見ることができたら、孤独なんかはなくなるわけです。いろいろな人と繋がることtができるわけです。」

正確な言葉は覚えていません。だから、専門的な言葉が違うかもしれません。ただ、その住職さんはそんな話をしていました。

孤独は人間が生み出したもの。

少しだけ、おじいちゃんが親鸞さまを大切にしている理由が分かったかもしれません。
これは私の推測に過ぎないですが、おじいちゃんは親鸞さまを大切にして、お寺の教えを聞いて、一緒にお経を唱えることで離れてしまったきく江ちゃんやおばあちゃんと自分を隔てる壁を消そうとしているのだと思います。浄土真宗の教えの中でこの世とあの世がどんなふうに語られているのか、私にはわかりません。でも、おじいちゃんはこの世とあの世という離れた世界すら、凡人の目を通してみたら繋がっていて、遠く離れたきく江ちゃんとおばあちゃんに合えないという孤独を打ち消すことができると信じているのかもしれないと思いました。

もしかしたら、おじいちゃんは教えてくれるかもしれません。でも、私は聞きません。おじいちゃんが信じるものが何であれ、それがおじいちゃんにとっての救いになっているなら、それがおじいちゃんにとっての幸せの一部になっているのなら、それだけで十分だからです。

人間は辛いことがあると神様(宗教)に頼ることが多いと思います。辛いことがなくても、いわゆる神頼みをすることが頻繁にあります。その神様とはいったい誰なんでしょうか。

おばあちゃんが亡くなったのは私が6歳の時です。おばあちゃんは私が生まれる前からガンを患い、闘病していたらしいです。でも記憶の中のおばあちゃんはいつも元気で、いたずらをしては叱られて、真冬に手をつなぐといつも「ちいちゃんの手は冷たいねえ。心が温かいからだね」と言ってくれました。
6歳の時の記憶なので私も覚えていないことの方が多いですが、おばあちゃんとの記憶が失われることは無いと思います。断片的に大切な思い出です。

私がもう少し大きくなってからのことです。母の知り合いでの家族がガンになったことがありました。その時に母から聞いた話です。
「○○(名前は伏せまずが特定の宗教団体です)はガンとかそういう大きな病気のうわさを聞きつけるとすぐにやってくる。○○を信じるとガンが治りますよ、とか、○○を信じていれば病気に打ち勝つ強い力を与えてもらえますよとか。おばあちゃんがガンになった時もそうだった。何度帰ってくれと言っても永遠と話し続けて、首を縦に振るまで帰らないんじゃないかと思った。私は○○を信じることでガンが治るなんて思ってないし、おもってないからおばあちゃんのそばにいて少しでも力になろうとしてたから、○○の言ってることが嘘だってわかって断ったよ。でも多分、不安で不安でたまらない人がいて、信じることで治るって言われたら信じちゃう人もいるかもしれないよね。医者じゃないから何がいいのかもわからないだろうし。何かに縋ることで安心したいって気持ちも生まれるだろうし。」

お母さんは○○のことを嘘つきだと思っているようでした。
確かに私も、○○を信じることでガンが治ることは無いと思います。信じるべきは○○ではなく医者の言葉だと思います。

でも、もしかしたら○○が言いたかったのは、ガンそのものを治すことじゃなくて、ガンになってしまった家族を支える人の心の病を治すことじゃないかと思うのです。いつが最期になるかわからない家族をそばで支えることはとても辛いものだと思います。心が弱くなって苦しくなってしまうと思います。そんなときに少しでも心を支えるものが欲しいという気持ちを助けるために○○が存在しているのかもしれないと思いました。
もちろん、その気持ちに付け込んでお金を稼ごうとする○○のやり方を私は良いことだとは思いません。
ただ、○○を信じてしまう人の気持ちはすごくよくわかるのです。

私は神様についてとても適当な人間です。
ヨハンナ・シュピリのハイジを読んだ時に、そのキリスト教色の強さに驚きました。

ハイジ:「わたし、毎日同じことを祈り続けたの、何週間も続けたけれど、神様は聞いてくれませんでした。」

おばあさん:「あら、そいうわけではないのよ。ハイジ!そんなふううに考えたらいけないわ!いいかしら、神様は、私たちのみんなのやさしいお父様で、私たちにとって何がいいことなのか、いつもわかっていらっしゃるのよ。——神様は、あなたに必要なものがちゃんとわかっていらっしゃるから、きっとこうお考えになったのよ。『うん、ハイジには、祈っているものを与えてあげよう。でもそれはあの子にとっていい時期、それを本当に喜べる時にしよう』。——そうやって神様は、あなたが神様をちゃんと信頼して、毎日そのみもとに行き、お祈りして、足りないものがある時にはいつも神様を見上げるかどうか、見ておられるのよ。」

神様を信じて祈ること、そして神様は本当に喜べるときに喜びを与えてくれる。
そのことを信じているだけで、おばあさまは辛いことも苦しいことも乗り越えてきたのだろうと思いました。
ハイジの世界だけじゃなくて、世界中の敬虔なキリスト教徒は、そうやって生きているのかもしれないと思いました。毎週教会に行ってお祈りをすることで、自分の中にある不安や恐怖と孤独に戦うのではなく、神様に支えてもらいながら戦っているのかもしれないとも思いました。

私は神様にたいして適当な人間です。
旧約聖書を読んだことがあります。神社にお参りに行ったことがあります。七五三の祈祷を受けたことがあります。お寺巡りをしたことがあります。お守りを買ったことがあります。そのお守りをごみ箱に捨てたことがあります。クリスマスにはケーキを食べます。イスラム教についての授業をうけたことがあります。イスラム教のモスクに行ったことがあります。キリスト教の教会に行ったことがあります。お酒を飲みます。豚肉も牛肉も食べます。浄土宗と浄土真宗の違いはよくわかりません。宗派によって何が違うのかわかりません。自分が死んだときにどんなお経を唱えてもらうのかもわかりません。結婚式はチャペルでも神社でもどっちでもいいです。永遠の誓いを誰の前で誓ったらいいのかわかりません。神様と仏様の何が違うのかもわかりません。
私にとっての神様が誰なのかわかりません。誰にしたらいいのかもわかりません。どの神様が私のことをすくってくれるのかもわかりません。適当な人間なのでどの神様も救ってくれないかもしれません。

では、私は孤独や恐怖に対して一人で戦わなければならないのでしょうか。
適当な神様に適当に縋って、運良く孤独や恐怖に打ち勝つことができれば、都合よく勝手に解釈して、また適当な神様を勝手に信じるのかもしれません。
でも、運悪く孤独や恐怖に打ち勝てなかったとき、私は誰を責めるのでしょうか。どの神様のせいにすればいいのでしょうか。次のチャンスをどの神様にお願いすればいいのでしょうか。

私は孤独や恐怖に一人で立ち向かうしかないのかもしれないと思っています。親鸞さまが言う通り、孤独は人間が生み出したものであるなら、その孤独をぶち壊すのも人間にできると思うのです。自分自身を信じることができれば孤独や恐怖を乗り越えられると思うのです。目に見えない神様とやらの考えを信じて、そこに縋ることを否定しません。でも、目に見えない神様とやらよりも、目に見える自分自身を信じることの方が確実ではないかと思ってしまうのです。だから私は特定の神様を信じることは無いのではないかと思います。

本当のことを言うと、今とても辛いです。うつ病は孤独との戦いだと思っています。生きていることがどうしてもいやになってしまいます。
正直、こんな時に信じ続けられる神様がいたらいいなと思うときがあります。
それでも、私は神様よりも自分を信じたいです。
目に見えない神様に救いを求めるよりも、自分自身と、目に見える大切な人と、大好きなものに心の安定を委ねて、救いを求めたいと思っています。
生きている人間は嘘をつきます。裏切ります。私だって自分自身を裏切る可能性がゼロではないと思っています。
裏切るかもしれない、裏切られるかもしれない、それでも私は目に見えるものを信じていたくて、裏切られて傷ついたとしても、その傷も自分の大切な一部として守ってあげたいです。

信じること、ましてや宗教なんてものは二者択一ではないし、神様も自分自身も両方信じる人もいます。神様を信じている自分を信じている人もいます。信じるという言葉自体を信じてない人もいます。救いを求めようとしない人もいます。
そして多分、世界には特定の宗教を信仰しているけどその教えを守らなかったり祈らなかったりする人もいると思います。
敬虔に忠実に神様の下に生きている人もいるとい思います。

だからつまり、色んな人がいます。
それぞれの信じるものも、信じ方も、信じるきっかけも、何もかも違って、本心と行動だって一致しなくて、今日の自分が信じたものを明日の自分が信じていなくて、
それらがわからなくて争いが生まれるのかもしれないと思います。
分かり合えないことをわかることを神様が私たちに求めているのかどうかすら、私にはわかりません。
本当に私は何もわかりません。

だから、私は神様について適当で、本当に何もわかっていません。わかろうとする気持ちがあったとしても、必死に勉強しても、信じてみようと努力しても、それでも多分、適当であることを変えられないと思います。

適当であるからこそ、絶対にほかの人の信じるものを否定してはいけない。
他の人にとっての神様を侮辱してはいけない。
他の人にとって、私という存在が信じる者の対象であるならば、私は故意にその人を裏切ったり傷つけたりしてはいけない。
私にわかって、私にできることはそれだけです。


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