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幸せってなんなんだろう。どうしたら幸せになれるのだろう。幸せになることは幸せなのだろうか。なんてことを考えた日の話

これは答えを求めない私の話。
望んだ不幸せと望まない幸せを大切にする誰かの話。


『自分が幸せになること以上のことってあるの?』

私には大切な友達がいる。
その子は一回も同じ学校に通ったことがなくて、それでも高校時代から一年に一度以上必ず会う、でも会った時は大体ベロベロに酔って何を話したか思い出せなくなっちゃう友達。
私はその子のことが大好きで、本当に大好きで、多分これからの人生で出会うどの子よりも大好きで、私のそんな思いを笑って『気持ち悪い』って言っちゃうところも大好きで、大好きだからこそ、その子には絶対になれない。
彼女が私より優れているとか、私が彼女より劣っているとか、そんなことを思うことすら馬鹿馬鹿しいと自信を持って言えるほど、私と彼女は別の存在で比較対象ですらなくて、私は私の人生を、彼女は彼女の人生を生きていて、たまたま何かの偶然が重なって2人の人生がたまに交差する。ただそれだけの存在。
そんな彼女に言われた。

『自分が幸せになること以上のことってあるの?』

彼女は絶対に自分を不幸な存在にしない。
不憫な目に遭った時も
『不憫な私が可哀想だから、好きなものや好きなことでいっぱい甘やかしてあげるの』
といって、上手にバランスを取っている。

私にはそれができない。
できないというか、やろうとしない。
可哀想な私は可哀想でなまま、それをうまく割り切ったり消化したりしないし、甘やかすこともできないし、かと言ってウジウジ悩み続けることもできなくて、ただ日常のふとしたときに思い出して、顔を顰めて胸の辺りと脳みその奥がキューーーーっとなって、時々どうしようもなく生きるのが辛くなって、しばらくすると忘れてしまう。

それを望んでいるわけではないと思う。
でも、もしかしたら望んでいるのかもしれないと思う。
自分が幸せになるために行動しないことが好きなのかもしれないと思う。
でも私は幸せな人生を送りたいとも思う。
幸せな人生だと慢性的に思うようになったら死にたくなると思う。

そもそも私にとっての幸せってなんなんだろうって思う。

金銭的な安定?
人間関係の充実?
自己実現ができること?

今の私は、私が大切にしたいと思った人の幸せの僅か数%を支えている自覚を得ることが私の幸せじゃないかと思う。
その支えはポジティブなことだけじゃない。と思う。
私のことを見下して優越感に浸って幸せな気分になる人がいたら、私はそれを幸せだと感じるかもしれない。怒りの先に幸せを感じてしまうかもしれない。
その思いが飛躍して、私は私が幸せになることで不幸せになる誰かの存在を見たくなくて、だから私自身が幸せになることに対して明確なイメージができないのだと思う。

でも、幸せにはなりたい。

答えのない“幸せ”を手に入れたくて、でも自分の幸せが思わぬ副産物を産むことが嫌で、それがエゴだとわかっていることも嫌で、口に出す『幸せ』がどこか遠くの存在のように感じる。

でも、幸せにはなりたい。

今この瞬間は幸せじゃないのに、過去の私が幸せだった瞬間があることは事実として認めていて、これからの未来にもそんな瞬間が訪れることは確信していて、だけど幸せが怖い気もする。
自分のなにかが誰かの幸せになることは嬉しいのに、自分のなにかが誰かの不幸になることは悲しい。
幸せも不幸も怖くなって、だから幸せとか不幸とかを薄目で遠くから見ることしかできなくなって、それがどんどんクセになって、
だから私は幸せがなんなのかわからない。

私は私の大切な人には絶対に幸せになってほしい。
そのために犠牲が必要なら私は絶対に犠牲者になる。
でも私が犠牲になることで誰かの悲しみを産むなら犠牲にはなれない。
でも、私が犠牲にならないことで誰かの幸せを奪うなら犠牲になりたい。

天秤にかけるものじゃないのかもしれない。
犠牲を払わないと得られないものでもないのかもしれない。
私の幸せは私の権利であり義務なのかもしれない。
私は幸せがわからない。

わからないなりに、今この瞬間が『生きててよかった』って思たらいいなとは思う。
死にたい夜よりも、明日が楽しみな夜を迎えたいと思う。
それくらいしか私にはわからなくて、
きっと誰かもそう思っていると信じている。

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