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周りからのアドバイスを受け入れられない私がたどり着いた、私なりの人生の積み重ねかた


結局、私は私でしかなくて、私が私以外になれることはないんだなと思う。

結構真剣にアドバイスをしたのに、蓋を開けたら全く参考にされていなかったり、相手に響いていなかったりすると、誰に対してなのかはわからないが少しだけ落胆する。
『あー、私のアドバイスは流されちゃったんだなー』
そんな感じ。
怒りはない。ただ、なんだかなーと。
アドバイスに限らず、相手の相談に答える形で話をしているときに、相手が明らかに話を聞いていないとわかった時にも同じような感情になる。

もちろん私はカウンセラーでもないし、相談のスペシャリストでも優秀なアドバイザーでもない。
だから、私の意見やアドバイスをどう受け取っても相手の自由だし、そこにとやかくいう権利はない。仮に私がカウンセラーの類いであったとしても、とやかくいう権利はない。
100のことを言って、1でも参考にしたり頭の片隅に置いてくれたりしたら、それだけでも喜ばしいことなのだろう。
自分のアドバイスを受け止めて参考にしてほしいなんてエゴがすぎる。
頭ではそう理解していても、やはりなんだかなーと何かに対して落胆してしまう。

ただ、立場を変えると私も同じことをしている

ここ最近は特に、いろんな人と話をして相談に乗ってもらったり、意見を述べてもらったりする機会が多い。
それは友人であったり、恩人であったり、恋人であったり、家族であったり、師匠であったり、後輩であったりする。
相手の熱量には差があって、酒の肴程度の軽い話から、酒の肴故に熱くなる話までさまざまで、もちろん素面のときもある。
相手の熱量に差はあれど、私のために脳のリソースを割いて話をしてくれていることだけでもありがたい話である。

それなのに私ときたら、ほとんどが右から左に流れてしまう。
それは酒を飲んでいようが、どれほど飲んでいようが、一滴も飲んでいなかろうが変わらずに、ほとんどが私の心に届く前に脳内で簡易処理されて記憶の手の届かないところへといってしまう
酒を飲んでいれば同情の余地があるかもしれないし、言った本人も覚えていない可能性があるから救いがあるかもしれない。
素面でもそうなのだ。
ときに涙を流して話を聞いていたはずなのに、1時間もすれば綺麗さっぱり忘れてしまう。
いくつかのワードが引っかかってかろうじて残っていることもあるが、大筋はもう思い出すことができない。
ひどいときには話を聞いているはずなのに、相手の熱量を遥かに上回る勢いで晩御飯のおかずを考えていて、適当な相槌で誤魔化している。
集中力の問題かもしれない。
でも、おそらくそれ以上に興味がないのだと思う。

相手が私のために話してくれていることはよくよく理解している。ときに、私のためというよりは私のためを装って自分に酔うために話していることがあることも理解している。逆の立場なら私がそうなることがあるからだ。
だから、聞いていても覚えていないとかはなからろくに聞いていないとか、そんなのは最低の行為だと思う。

そしてそんな自分がどうしようもなく嫌になる。嫌いになる。
同じことを私がされたら落胆するのだから。
人にされて嫌なことを私は平気でやっている。
その事実も受け入れ難い。嫌だ。本当に嫌だ。
そんなことが続くと、人と話すことが嫌になるし、アドバイスなんか二度と求めないようにしようとも思う
こうして鬱が加速しているような気がするし、思えばこれまでもそう思って人と話すことを避けるタイミングが何回もあった。鬱が先なのか、人と話すことが嫌になることが先なのか。その答えは出ないだろう。


ただ、それも仕方ないよなあと思ってしまうときがある。

私は私でしかない。
私の考えは、私が24年生きてきた中で得た経験や感性や感情の積み重ねが生み出したものだ。
突発的な感情として人の意見に左右されそうになる時はあるが、それでも最終決定を下すのは私自身であって、それはやはりこれまでの人生を全て経験した私にしかできないことである。

私は他の誰かの人生を全て知ることはできないし、その人生全てに寄り添うこともできない。誰かの人生が積み上げてきた感情や感性のプロセスも、選択するときの理論も、私には理解できるものではないだろう。

私にできるのは相手の感情や感性のプロセスの0.0000001%を僅か数ミクロン以下で動かすことくらいなもので、それに伴う結果は置いておいたとしても、私が相手に対してできることなんてそれくらいなのだ。誰かの人生を変えるようなきっかけを作るなんて烏滸がましいし、そんなことはあってはならないのだ。

だから同様に、私の心を動かすのは他でもない私であって、誰かからのアドバイスは心を動かす動力の足し程度にしかならない。もしも誰かのアドバイスで行動を変えたなら、私はそのアドバイスに従ったのではなく、そのアドバイスが足踏みしていた心を押す最後のトリガーになったに過ぎないのだ。

もちろん、だから忘れちゃってもしょうがないよね!とはならない。
でも、相手の想いを100%受け止めなきゃならないわけではないし、ときに私の感情や感性とは全く合わない、受け付けない想いもあるよね。それはしょうがないよね。
そうやって言い聞かせることは悪ではないと思う。

そして私は多分、自分自身の言葉が自分に与える影響が莫大すぎて、周りの言葉の動力が霞んでしまうだけ。
そう言い聞かせてみる。


なんて、かっこいいことを言ってみたけど、いつもこんなふうに受け止められるわけじゃなくて、やっぱり忘れてしまうことの罪悪感はあって、受け止めてもらえないことへの落胆もあって、その度に私は私のことを嫌いになっていく。
それが積もりに積もって鬱になったのかもしれないし、
今、鬱がまだ残っているから自分を嫌いになっていくのかもしれない。
どちらが先に来ているのかはわからない。
わからないし、知らないし、知る由もないし、知りたくもない。
どっちであろうとも、私はこんな私のことを『しょうがない』って割り切ることができて、『どうして自分はダメなんだ』って嫌いになることができる。
それはどちらかを欠かすことができない。24年かけて積み上げた習慣かもしれないし、それが私の心の動きなのかもしれない。

悪く言えば諦めるしかないこと。
よく言えばうまく付き合っていくしかないこと。

私のこの考えを誰かに押し付けてはいけないし、
やはり最低限、相手に不快感を与えない程度の振る舞いはできるようにならないといけない。
そして私とは違う考えに出会ったときに、否定の前に受け止める時間を作りたい。

そうやって折り合いをつけて、生きていけるように、私はなりたい。

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