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現代日本人の怒り方について《 3.11後からの日本を案ず(24)》
── 前回「『怒り』という現代社会の慣習」の続きです
日本人は本当に怒っているのか
前々回の『『憂い』から『怒り』へ』、そして前回の『『怒り』という現代社会の慣習』と、日本人の『怒り』に対して書いてきましたが、ここでふと思いが浮かびました。それはなにかというと『日本人は本当に怒っているのか』という疑問です。インターネットの普及からSNSでの個人の発信に至る現在において、確かに多くの国民が表現として“怒っている”ことは感じ取れますが、ここで表れているこの“怒り”というのは、いったいどれほどのものなのでしょうか。
ある意味で、これまでここでは『怒り』のデメリットやリスクについて焦点をあててきたのですが、何度も言うように、なにも「怒るな!」と言いたいわけではないのです。この喜怒哀楽にもある人間の『怒り』という感情は、誰にでもある人間の反応です。そして怒りも悲しみもあるからこそ喜びも楽しさもあるのは事実で、怒りや悲しみという謂わば“ネガティブ”な感情も、喜びや楽しさというポジティブな反応と同じだけ等しく存在し、また人間にとって必要なものなのです。
『怒り』によってもたらされる結果は多くあります。近年の『アラブの春』や旧ドイツを東西に分断していたベルリンの壁の崩壊も、ある意味で、ひとりひとりの個人の『怒り』が集結されて大きなうねりを生み出した革命的な出来事でした。時に「怒りは何も生み出さない」などと言われますが、確かに結果として効果や成果は確実に果たしているのです。
前回あたりに『怒りでは“解決”は難しい』という発言もしましたが、事実は、確かになにかを変え結果を生むこともまた事実なのです。しかし、現在2021年の東京オリンピックなどを見ていると、ほぼそのような『結果』には反映されていません。デモやストライキや選挙の投票などとして、国民の意見は時として動くこともありますが、日本だけを見た時に、かつてのベルリンのような大改革に至った例は、ほぼ無いに等しいのではないかと感じます。
かつての東大安田講堂事件などを見ても、一過性の動きであって、志は『解決』までに至らずに、『「いちご白書」をもういちど』などの歌詞の世界観などからも見られますが、当時の学生などもその時が過ぎれば、長い髪を切り就職して、あれだけ抗った社会の中に入っていきます。もちろんその後の人生で、それぞれの幸せを生きているに違いないとは思いますが、ここ日本ではそういう流れが定説なのではないかと思われます。
つまりそこで思うのは『日本人は本当に怒っているのだろうか』というように考えてしまうのです。また、そこでもうひとつ思えるのは、もしかしたらそこでも日本人は寛容なのかもしれないということです。日本人は『怒り』にさえも『寛容』なのか。先述したように、基本的に現代日本人が『怒ることに慣れてしまった』のならば、そこにある怒りはパフォーマンスや戦略などでもなく、確かに怒りなのでしょう。しかし、どこか寛容なのかもしれないと感じる気持ちが確かにあるのも事実です。
なんのために怒るのか
前述したように、確かに『怒る』ことは必要ではあるのですから、『怒る』という行為自体に慣れてしまった日本人なのであれば、もしかするとそこには、日本人独特の『怒り方』というものが存在する可能性が見えてきます。無論、私は日本人以外の人間の怒り方も知らないため、比較はできません。しかし少しだけでも考えてみたいと思います。
例えば、子供でもペットなどの動物でもいいですし、子供に限らず大人も同じだとは思いますが、なにかの拍子でつい“怒った”時に、思いの外、立場や停滞していた進行状況や、自己の希望などが適ってしまうことも、事実あります。社会や世間や組織や家族でも友人間などや飼い主とペットでも、その関係性において、原則として秩序や解決としての和解や示談などが必要不可欠ですから、怒る相手に対して本音はもしかしたら「しょうがないからいいよ」や「めんどくさいからもういいよ」というような気持ちでただ状況を収めたり、進めただけなのかもしれません。
しかし、怒った本人はどうでしょう。これは完全に個人差がありますが、人によっては『怒れば我儘が通るんだ』や『この相手は怒ると引いてくれるんだ』とか、また人によっては『おれって強いのかも』とか、そういった錯覚をしてしまい、つまりはその個人の、謂わば『成功体験』として刻まれてしまい、その後の人生でもなにか困ったら“怒ればいいんだ”というように、たとえ無意識にも思い込んでしまうというケースは、この社会において多分に可能性のある事実です。
このようなケースでは、昨今、問題となっている“パワハラ”や“DV”なども、そういったある意味での『成功体験』がもたらしている心理的要因は、かなり大きいと予想します。しかしこれもひとつの半面であり、反対に『それほどまでに求めるのなら』そんなにまで思いは強いのかということが伝わる場合もあるものです。謂わば、正当性や情熱などが伝わるケースです。このような伝達の正当性がかなうのであれば、その成功体験は『怒ることによって』ではなく『思いや気持ちや理論を諦めずに、嫌気なども癇癪さえも起こさずに誠心誠意ちゃんと伝えればわかってもらえるんだ』になるものです。
その両者の違いはなんでしょう。たぶんそれは結論やすなわち『目的』が、前者はきっと“怒ること”にあって、後者は“解決”にあるのだと思えます。つまり、表現は怒っているとしても、すべてにおいて大差もあり、実は全く違う行為をしているということです。『なんのために怒るのか』そこが全く別なのです。
前者は『怒るために怒っている』わけで『怒っているということ自体を表現している』と言えます。そして、後者は『解決するために怒りを表現した』のであって、目的は怒ることではないのです。では、なぜ昨今よくみかける、そういった『怒りを表現する』必要性があるのでしょう。またもっと言えば、なぜそんなに怒るのでしょう。
現代日本人の怒り方にみる異常性
怒るためには理由が必要です。つまりは“怒る”こと自体が目的ならば、常に『怒る理由』や怒る行為を正当化するだけの『怒るネタ』が必要になり、そのネタを常に求め、探しては消費して、また次のネタを探す。
現在のインターネットやSNSのコミュニティーでのコメントやつぶやきなどの発信の多くは、まるでそうして時間も自分もなにもかもを消費しているかのように感じてきます。しかもそこで探している“ネタ”のほとんどは、自分に直接は関係しないとも言える『他人の現実』なのです。
ネットニュースでは、常に芸能人でも政治家でも一般の社会人などでも“誰か”が常に“炎上”している昨今です。社会的に事件を起こした容疑者が成人か未成人かに関わらず、近年、事件などが報道されたあとに、容疑者の卒業アルバムなどからの顔写真なんかがネット上に晒されるということが増えています。これは私はまさに“異常”だと感じています。
もう10年以上前から特に性犯罪者に対しての顔写真公開の必要性は語られていますが、これは性犯罪者の刑期への対処と再犯率の高さのためです。その是非は倫理上でも大変難しい問題ではありますが、ここで述べているのは、つまりは同級生などが個人的にSNSなどに容疑者の写真を晒すというその行為と感覚に異常を感じるということです。
たとえ、それが正義だと思ったのであっても、また旧友としてたとえ“怒り”や憤ったとしても、なぜに個人としてそのような行為ができてしまうのか。それもまた十人十色の自由だとは言えますが、警察や裁判上などでの法のもとでの必要性に応えるわけでも、またマスコミや新聞社や雑誌などの要求に応えてのなにかしらの社会的貢献や謝礼のためにでもなく、個人的ななにかの欲求に従って、またさらにそれをシェアして多くの人々が騒ぎ立てる。まさに『私刑』です。
そしてそのような『私刑』に対し、きっとなにかを“得ている”のではないかと感じることが多いです。なにを得ているのか?自分の評価なのか、なにかに対しての勝利的な快感なのか、はっきりとは不明ですが、しかしなにかを感じるのは確かです。または、そのような行為によって自らの尊厳を得ているのでしょうか。ましてやその『私刑』によって、相手の改善や反省はおろか、事態の解決さえも求めているわけではないのです。
法人や店舗などの偽装や隠蔽などにおいても、なぜ関係もない多くの人々が責めて、また謝罪を要求したり、過去まで遡って怒りをぶつけるかのように、個人的につぶやき続ける。現実の現代日本人の特徴としては、そこで対象となる人が謝罪したら、いつのまにか話題は忘れ去られ、また次のターゲットに乗り換えるような風潮もあります。謝罪させなにかしらのダメージを受け、時には失落した相手を見たら、許すわけでも改善を要求や提案をするわけでもなく、まるでおもちゃに飽きたかのように次の対象を探しては、皆で移行するかのような。なんのためにそうなってしまうのか。
もちろんこれらも全体ではなく、一部の話ですが、日本人のこの『怒り方』とは、本当に怒っているのでしょうか。そんな世論の流れのすべてにコメントをする有名人やネット上の識者のような方々も多くいます。その方々の正論や解説のために題材を与えているかのようにさえ思えるほど、無名の個人個人が騒いでは、また有名な識者的な人がそれを俯瞰して語り、まるで誰もが、なぜにどうしてそこまで『正しい発言』や『目立つ発言』をしたがるのか。そしてそのすべてがどうも根本的に『目的』を感じないのです。
“比較”という架空の“評価”のために生きる者たち
なんかここまで『怒り』についてみてきましたが、このテーマはここではなく、もっと掘り下げた形式で別のテーマとして、この先に別の機会を設けようと思いました。なので、ここでは主題である東日本大震災にあてはめて、私感を述べていまは『怒り』についてを収めておこうと思います。
なぜに現代日本人は怒っているのか。なぜそんなに不満があるのか。あの大震災後もそうでした。思い返せば、あの頃から日本人はその傾向に舵を切ったようにも感じます。そして10年経ちました。あの頃からきっとこんな未来像へ向かって日本社会は進んだのではないかと思える私がいます。
もう10年以上前ですが、個人的に『無料こそ不満を爆発させてしまうもの』とか『不平不満を与えることが欲望を生み最も儲かる』などの文章を書いたことがあるのですが、不平不満の原理は即ち『比較』と『所有』のバランスなんだと思っています。生活するためにいかに働くのかという時代を乗り越えた高度成長期以降の日本は消費時代に変わって行きました。そこであったのが、他者よりもいかに“所有”するかという社会です。
そして“比較”というステイタスや平均生活水準が生じて“中流”という認識も生まれました。その後のバブル崩壊後には『勝ち組負け組』などという言葉も流行しました。比較をもとにもっと努力をしようという意識ならば悪くはないのですが、もっと時代が進むと、そんな中流というステイタスも飽和して、そこには『不平』という、もはや概念のみが現代には巣食ってしまったようにも感じています。
その結果、比較をしてもっと努力をするのではなく、中流同士が『比較をして不公平を訴える』という謎の思考があるのだと思っています。即ち『中流』とはまるで『国民の権利』という考えです。こうなってしまったのはもちろん日本がある程度豊かになった証拠だとも言えますが、政治的にも広告的にも国民や市民の『不平』に訴えかけて票を得るという者たちが多く出現したことにも大きな理由があると思っています。野党が言葉だけでも『税金を下げる』と掲げれば、そりゃあ票が動きますから。
そのように『不平』を持っていてくれる一般市民の方がやりやすいのです。そしてその仕組みが現在の経済の仕組みだと思えています。不平や不足でなければ、商品は売れないわけですから。コレは必要だよと宣伝するよりも、コレがないと困るよだとか、コレさえも持っていないの?とか、コレがないなんて不幸だと宣伝したほうが売れるのです。まさに思う壺です。
罪もない無名の権利者の『評価世論』という病
現在主流のSNSなんかもまさに同じく、人々の比較の欲望を上手く利用した発展をしています。そしてSNSの普及によって『比較』という概念は、さらに強まりました。そんなことを元に考えるなら、延々とSNSを眺めたり、なにかしらの評価を得るために発信したり、またはとにかくつぶやき続けたりしている現代人の根元には、やはりまずは『比較』があり、もしかするとその比較による架空の“平均値”こそが、まるで全体の“正解”ともなり、多くの者たちが、その評価から漏れないために無意識に必死になっているのではないかというような推論さえも成り立ってきます。
そりゃあ生きていて実感もなければ、根拠もなくなぜか“苦しい”わけです。昨今では『多様性』などと意識改革などの有意義な側面もあるなかで、もしかするとより差別意識を強調してしまっているのではないでしょうか。そしてその差別意識が向かうのが、まさに『怒り』という表現による、つまりは“承認欲求”です。そして本来であればSNSとは、どこか自作自演がつきまとうわけですから、どんなに評価を得たとしても、比例して“比較”という恐怖感はどんどん増していく。だから他者を利用してまでも、自身の価値や正義を作り出す必要性も出てくる。
現代人は不公平を怒りで表現して、自分が所有すべきものを持っていると勝手に思える相手や、自分がしでかさないで済んだヘマや不道徳な行為などをした相手を責めることで、自分はそうじゃないと自分はもっと正しかったり賢かったり、つまりは『あやまち』はしないと自ら定め提言するのかもしれません。つまり他人との比較要素を顕在化して、自分を正当化しようとしているわけで、そこに隠れている本心は『失敗への恐怖』にいつも脅かされているのかもしれません。
その恐怖の原因は、不満に焦点をあてちゃう思考そのものだと感じます。まさに『足るを知る』の反対で、足りないものを測ってばかりで、どんどん『不足』になり不満になる。勝手に不満になるのは別に構いませんが、その不満の根元は『比較』なのですから、必ず比較対象の“誰か”が必要です。そしてまるで自分が『被害者』かのように、架空の『加害者』を生み出す心理に陥って、しかもそれが社会の主流ともなれば、もうそうして“架空の概念”に操られている自分にも気がつかないどころか、そんな比較社会という主流から抜け落ちてしまう自分のほうがもっと恐怖を覚えるのかもしれません。
かつての日本には『人のふり見て我がふり直せ』という観念がありましたが、同じ事象や他人の世界の出来事でも、それを“被害”と捉えるか、無事や“無難”に済んだと捉えるかで、現実も未来も大きくことなることでしょう。この原理は、災害においても同じことが当てはまると思います。自然災害に加害者はいないのです。それでも不平不満しか見えないのなら、怒りしか表せないのなら、救助や復興の足を引っ張るだけですし、目の前の瓦礫の山の前で、自分という一番大切な主体である存在を『被害者』の位置に立たせたとして、いったいなにを得ることができるというのでしょうか。
どうせ怒るなら、最後まで解決するように表明したほうが効果的な“怒り方”だと思えますし、いちいちSNSやマスコミなどで表明しないとなにもできないような現代社会自体が、少し危険で異常性をもってしまった病にかかっているとも感じてしまいます。黙って自分のできる範囲で行動すればいいのですから。あぁ、だけど、そんな行動のひとつひとつに、遠くの無名の罪もない権利者から『評価世論』による評価がどんどん届いてくる時代ってわけですもんね。そりゃあ、自分のできることすらなにも確かめられずに、いつのまにか自分すら忘れてしまいそうな時代の病かもしれませんね。
つづく ──
20210816