大学職員の再定義―『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む
鶴見俊輔に『定義集』(筑摩書房)という名著がある。
古今東西の言葉の引用であらゆる言葉を定義してみせようという意欲作で、例えば「幸福」という項目にはドストエフスキーの「幸福は幸福の中にあるのではなくて、それを手に入れる過程の中だけにある」という言葉が、「悲しみ」という項目にはシェークスピアの「目が眩われば、逆に回転ればなおる。死ぬほどの悲しみもべつの悲しみで癒える」という言葉が引かれている。言わば、「手づくりの定義」である。
これになぞらえて私なりに「大学職員」という職業を定義してみると、J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)を引用することになる。
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。(pp.286-7)
「だだっぴろいライ麦畑」はキャンパス、「何かのゲームをしている」「小さな子どもたち」は学生(ここには学生とともに教育研究に打ち込む教員たちを入れてもいいかもしれない)、「クレイジーな崖っぷち」はキャンパスとキャンパスの外の世知辛い世の中を隔てる境界だと考えると、「崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえる」「ライ麦畑のキャッチャー」が大学職員だということになる。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデン・コールフィールドのように、私もまた「ただそういうものになりたい」と願うのである。
(参考文献)
・J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)
・鶴見俊輔『定義集』(筑摩書房)
・内田樹「お掃除するキャッチャー」『村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)