JFK(大学職員)

大学が好きで大学を職場にしてしまった大学職員です。 大学や教育について知るために本を読み始めました。

JFK(大学職員)

大学が好きで大学を職場にしてしまった大学職員です。 大学や教育について知るために本を読み始めました。

最近の記事

絹川正吉『教養と大学スタッフ』を読む

 大学スタッフの教養について説いた書かと思って手に取ったが、第1章は学生向けの教養論、第2章以降は教養論は前面に出てこない大学スタッフ論で、教養と大学スタッフは注意深く別々に論じられている。  強いて言うなら、第3章「SDの新局面」において、職員はいかなる「大学観」「大学のセンス」に基づいているかが問われると主張するくだりがこれに近い。  それは篠田道夫らに代表される大学職員論、例えばルーティンワークには非専任職員をもって充て、専任職員は企画型の業務に専念させる、というような

    • 「教育勅語」の何が問題か-山住正己『教育勅語』を読む

       朝日新聞記事データベースによると、タイトルに「教育勅語」を含む記事は1985年以降で105件。そのうち約半数は2017年3月以降の記事である。  2017年2月、安倍晋三首相の妻が名誉校長に務める小学校に豊中市の国有地が近隣国有地の約1割の価格で払い下げられたことが報じられた。小学校を設置する学校法人森友学園の運営する塚本幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させていたことが取り上げられ、脚光を浴びることになったのである。  その後、稲田朋美防衛相が教育勅語について「日本が道義国家を

      • 意思決定権を持たない者の戦い方―長島伸一『ナイチンゲール』を読む

         看護婦(看護師)と大学職員は、高度に専門的な職業である医師や大学教授の傍で働くがゆえに、しばしば副次的な存在として扱われてきたという点でもよく似ている、そんなことを考えさせられた一冊です。  フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)は「クリミアの天使」「近代看護の先駆者」として有名ですが、私が興味深く思ったのは彼女が統計学者でもあり、膨大な政府白書の読込みと統計手法を駆使した丹念な分析が社会変革の種を産み落としていったという伝記的事実です。  これ、大学で言うとこ

        • 大学職員と匿名の美技―匿名書評家「狐」が教えてくれること

           山村修は青山学院大学に事務職員として勤める傍ら、匿名書評家「狐」として活動し、その上質な書評で文名を馳せた人物である。大学職員の世界にはこの手の文人墨客が稀に出るが、山村はその中でも随一の者であると思う。  その狐に「書評者に「名前」なんか要るでしょうか」(山村修『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)所収)という文章がある。  東京新聞に掲載された「狐氏は点が甘く、ほとんど賞めてばかりです。これなら実名でもいいではありませんか」という評に対するアンサーソングで、匿名であることに

          五味文彦『学校史に見る日本』を読む

           大学の歴史と言う場合、ヨーロッパの大学史を指すことが多い。あたかも日本の高等教育は明治維新とともに始まったかのようであるが、近世以前の日本にも高等教育があったことを忘れることはできない。  足利学校の創設については諸説あるそうだが、一説によるとボローニャやパリで大学が起こったとされる11〜12世紀よりさらに古い。  岡山の閑谷学校は(閑谷学校のウェブサイトによると)「現存する世界最古の庶民のための公立学校」である。17世紀に庶民のための学校があったことはやはり驚きに値する。

          五味文彦『学校史に見る日本』を読む

          山本秀樹『世界のエリートが今一番入りたい大学ミネルバ』を読む

           『大学の起源』(東洋館出版社)の著者、ヘースティングス・ラシュドールは次のように述べている。  ミネルバ大学には特定のキャンパスがない。学生は世界のあらゆる文化圏から集まり、世界の7都市(サンフランシスコ、ソウル、ハイデラバード、ベルリン、ブエノスアイレス、ロンドン、台北)の学寮を渡り歩きながら、少人数、アクティブラーニングを基調とするオンライン授業と現地企業のインターンシップへの参加を通して自らを鍛えていく。  中世ヨーロッパにおいても、学生は大学を目指してヨーロッパ各

          山本秀樹『世界のエリートが今一番入りたい大学ミネルバ』を読む

          若き大学職員志望学生への手紙

           大学職員志望の学生と話すことがたまにあるのですが、彼らの一番の悩みは「母校以外の大学の採用面接を受けるとき、志望理由を何と説明するか」であるようです。  かく言う私もこれで、母校ではない大学に就職したあともしばらくはこの問いの前で立ち尽くしていました。  そんなあるとき、尊敬する大学職員の先輩がこう言いました。  「大隈重信は早稲田大学の卒業生?」  目から鱗が落ちました。言うまでないことですが、大学の創立者は例外なくその大学の卒業生ではありません。彼らを突き動かしたのは「

          若き大学職員志望学生への手紙

          大学職員の再定義―『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む

           鶴見俊輔に『定義集』(筑摩書房)という名著がある。  古今東西の言葉の引用であらゆる言葉を定義してみせようという意欲作で、例えば「幸福」という項目にはドストエフスキーの「幸福は幸福の中にあるのではなくて、それを手に入れる過程の中だけにある」という言葉が、「悲しみ」という項目にはシェークスピアの「目が眩われば、逆に回転ればなおる。死ぬほどの悲しみもべつの悲しみで癒える」という言葉が引かれている。言わば、「手づくりの定義」である。  これになぞらえて私なりに「大学職員」という職

          大学職員の再定義―『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む

          H・ラシュドール『大学の起源―ヨーロッパ中世大学史』を読む

           「大学とは何か」という問いは、大学より先に国家があった日本においてより、国家より先に大学があったヨーロッパにおいて生まれやすかったように思われます。11~12世紀にボローニャやパリで自然発生的に生まれた「ストゥディウム・ゲネラーレ」には先行的に定義があったわけではなく、何が彼らと彼ら以外の諸学校を区別する境界線なのか、必ずしも定かではなかったからです。  一般的に大学の構成員と言うとき、教員や学生は挙げられても事務職員が挙げられることは稀です(最近は増えてきたように思いま

          H・ラシュドール『大学の起源―ヨーロッパ中世大学史』を読む

          マララ・ユスフザイ『わたしはマララ』を読む

           アメリカ同時多発テロから20年。アメリカ軍がアフガニスタンから撤退した機に乗じて武装勢力タリバンが再び権力を掌握し、国際社会に動揺が広がっています。この報を受けた多くのひとが、いまから9年前、2012年にパキスタン・タリバンに銃撃され、のちにノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女、マララ・ユフスザイのことを思い出したに違いありません。  タリバンを語る上で欠かせないのが、教育、とりわけ女子教育に対する姿勢です。極端なシャリーア(イスラム法)解釈に基づいて女子教育を禁じ、マ

          マララ・ユスフザイ『わたしはマララ』を読む