余韻に浸りながらセックスしたい。
おはようございます。こんばんは。うにです
※今日のnoteは尾籠なお話です。
何をした時、見た時、聞いた時、余韻を感じますか?
色んな場面がありますよね、
「好きな人とお別れたした時の記憶の余韻」
「大人数の飲み会の後1人帰る時の余韻」
「好きなアーティストのライブ後の余韻」
「映画や舞台など鑑賞後の余韻」
「好きな人とキスした後の余韻」…
あげてけばキリがないくらいたくさんあります。
私は余韻がとても好きで、それを求めるために何か行動することがあります。そのくらいこの形容し難い気持ちの揺らぎが特別に心地よくたまらなくなります。
小綺麗な前おきはこのくらいにして、本題。
私には密かな野望があります。
それは、「余韻に浸りながらセックス」です。
あー、やっと言えた。
え?したくなりませんか??
何か素敵な作品や、音楽、場面になった時にゾクゾクとした後の余韻を感じながらセックスがしたいです。
大事なことなので2回言いました。
品性と恥は日本に置いてきたのでお許しいただきたい。
元々、そういう作品に対する感受性が豊かなので
気持ちも体も反応します。
どタイプの声が好きすぎて腰が砕け
感動的な音楽を聴くと鳥肌と動悸が止まらない
心揺さぶる絵を見ると色んな感情が溢れ出して涙がとまらない
映画や舞台などストーリーや俳優の演技を見ていると気持ちを全部奪われる
全部に反応するわけじゃないですよ?
全部に反応してたら、生活困難になる。
でもこれらの余韻も何がトリガーかわからない。
絶賛されている映画や王道のハリウッドはあんまり余韻に浸ることもなく、小さい映画館で見た人気のない映画に心打たれたりする時もある。
かと思えば子供向きの映画で驚くほど引き込まれたりする。精神年齢が若いのか…
こんな感じでポイントが自分でもよくわからない。
厄介なのはこのポイントが合わさった時私の余韻はめちゃくちゃ長く続く、良くも悪くも。
ひどく落ち込んだ映画は1ヶ月ほど引きずったことがある。その時はチョコレートドーナツを見ただけで涙が止まらず、それを泣きながら食べていた。
映画以外にも泣くことがある。
生まれて初めて絵で泣いたのは「モネ」(言いたかった)ではなく、ガウディ展でガウディの人生の挿絵を担当していた井上雄彦の絵だった。
もうあまりの衝撃にそこにずっと立ち止まって、食い入るように見続けた、視界がぼやけて見えづらくなった時初めて自分が泣いてる事を知った。
絵であそこまで、揺さぶられたのは今の所これしかない。もちろん感動もするしゾワゾワと鳥肌が立つ絵には出会う。けど超えるものはまだない。
私は基本的に教養もなければ、芸術に関する知識もない、本当は美術館に行って名のある画家たちの絵を眺めながら歴史を時代の味わいを反芻するような大人になりたかったが私にはハードルが高すぎた。
今でも絵は自分の直感で感じ取って、好きなもの好きわからんもんはわからん精神で来ている。
こういった感じのことが絵以外でも数多くある。
そしてこの余韻に浸っている時になぜセックスがしたいのか。
自分が作品や事柄を実際に目聞き触れられたという事実を確認したい。
夢だったんじゃないかって、私の妄想なのかもしれないっていうのを体を触れてもらう事で初めて自分がそこに存在している事を確認できる。
自分1人が存在してる確認って案外難しくて、触れてもらえることが1番手っ取り早い気がする。
自分のことを1番に信じてるけど、1番信じられないのも自分だったりする。
自分で触れた見た体や顔が本物なんてどうして確信が持てるのだろうか。
鏡に映った自分が本来の自分を映し出しているって
どうして思えるのか、夢の中で起きた出来事がなんで夢って思えるのか、もしかしたら夢の方が本来の私なのかもしれないのにそう言う一つ一つが私は信じられない。
だから、人と手を繋いでいる時誤って力強く握った手が同じくらい強く返されると安心する。私はここにいるんだなと。
この延長線にセックスもある気がする。痛みも苦しみも行為の中で残された傷跡は私がここにいる事を証明している気がして好きだったりする。
脱線が相変わらずひどくて自分でも驚きです。
まとめると、余韻の中でのセックスは作品や出来事が夢じゃなかった事を確認にするためにしたい。
今のこの瞬間の余韻に浸っているのが私だと人に触れられる事で自分をしっかり認識したい。
このnoteも私が書いているものだと確認したい。
ね…?