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散らかった部屋にひっくり返った本棚の本たち



おはようございます。こんばんは。うにです。

私は適度に自分のnoteを読み返すんですが、毎回読んでいて自分の情緒が不安になります。

本人的には至って安定しているんですよ←

ふと自分はどんな形でnoteを書いているのか考えてみたところ、感情の爆発によって綴ることが多いなと改めて実感しました。

某太郎先生も芸術を爆発させていたし、私もきっとそう言うタイプなんだと厚かましく、いい訳をさせていただきたい。

そうだ、あの雄々しく神々しい太陽になぞらえた塔のように、そんな作品を作っているのだ!


という心意気は持っているが覗いてみると中々外に飾ることのできない、下世話な話かゴリラか憂鬱な八つ当たりしかなく自分に幻滅した。



まぁ良かろう私は所詮人間で、無様に生きるくらいが私にはちょうどいい。



またしても何を書こうか迷子になっているが、危ない危ない、今日はちゃんと書きたい事があった。





私の頭の中はとても散らかっている。

床に足の踏み場がなく、満遍なく本やおもちゃが散らかっている。

綺麗にしようと試みるが本棚に綺麗にまとめたとしても、おもちゃ箱に戻したとしても中々しっくりこなくてひっくり返してしまう。


例えて言うなら、

綺麗に高く積み上げた積み木の一部分が少しでもズレていると私はその積み木を壊したくてたまらなくなる。

この感覚で私は本棚とおもちゃ箱をひっくり返しては雑に広げて探し物をする。

あのおもちゃはどこにあるんだろう。この本はどこに落ちてるんだろ。綺麗にまとめあげた中で探すより散らばった中で探す事の方が私は好きらしい。


その方が新たな発見があったりする。

交わるはずなかった2つの事柄が交わる事によって新たな見解が見つかる事がある。

そう言う発見が多分、私の真髄なんだと思う。


今ではこう思えるほど、受け入れてこれた。
多分昔はできなくて、頭の中はもっとひどく悲しく散らかっていた。



気に入らないものは、無我夢中に本のページをちぎり、おもちゃは壊し、ハッと我に返ってちぎったページをテープで補強して、壊したおもちゃは縫い合わせて不格好になんとか形を保っている。


壊したものたちは奥の方に隠して無かったことのように振る舞う。
でも消える訳じゃない。いっそ消えてくれた方が楽なんだが、誰に似たのか壊れた本もおもちゃたちもここにいるぞと主張してくる。頑固な子が多くて困ったものだ。


時に壊した物を人と共有したくなる時がある。
不恰好で歪なそれらは壊したと言えども私の大切な一部で嫌いになったから壊したわけではない。


それを理解して欲しい、受け入れて欲しい、愛して欲しい、という押し付けに近い形で共有したことがある。


ある人は「可哀想に」と割れ物を扱うように、時に
「気持ちが悪い」と軽蔑する人もいる。

どれも望んだ形ではないけれど、1番嫌なのは、

「それはあなたのものではないよ」
「あなたはそんな人じゃない」

と、無かったことにされること。

相手に押し付けておいて、相手の反応に文句を言うのは間違っている。そんなことはわかっているけどそれでも期待してしまうのが人でしょ?


無かったことにするのは私の一部を否定することになる。相手の優しさなのかもしれない。
いや、絶対に優しさに違いないがそれはただ優しく私を殺しているに過ぎない。



じゃあ何が理想だよ。
不快な思いをさせた人たちよごめんね。


私はただ、そこにいて欲しい。そうなんだ。大切な一部なんだね。って抱きしめて欲しい。


我儘なのはわかってる。



過去も事実も消えない私の大切な一部だから
大事な本でおもちゃに変わりはないから。




今でも頭は散らかっている。きっといつまでも散らかっている。でも、壊すことは少なくなった。





どこかで誰かに知って欲しい自分がいる。




「ミッケ!」みたいな部屋で乱雑に置かれたボロボロの本を楽しそうに読み貪る私を誰かただ抱きしめてよ。


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