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【読書ノート】23「中国共産党、その百年」石川禎浩

著者は京都大学人文科学研究所教授。本書は今年で設立百周年を迎える中国共産党の歴史を俯瞰したもので、そのほとんどが文革期までの歴史に割かれている。内容は極めてオーソドックスなものだが、党設立当時の詳細な記述があり、当時の様子が良く理解できる。

  • もともとはソ連の設立したコミンテルンの下請けとして始まった中国共産党が、1934年から1936年の長征の際に重い荷物が運ぶことが出来ず通信機器設備を放棄したためソ連と連絡が取れなくなり、独自の判断で行動するようになったいきさつは興味深い。

  • また数で国民党や日本軍に劣る共産党の強さは「整風運動」などにより強化された組織力であり、それゆえ現在でも中国共産党は様々な法輪功のような組織を恐れ過剰とも言える弾圧を行っているのである。

  • 著者は抗日戦争中に延安に赴き毛沢東に初めてインタビューを行った米国人ジャーナリストのエドガー・スノーの著作などを引用し高く評価しているようだが、彼は欧米の研究者の中では否定的にみられる傾向が強い(親共産党なので)。日本の研究の世界ではどうなのだろうか。

  • フランク・ディケーターの「文革」にもあったように、文革の最中から人民たちは生き延びる必然性から地方の農村では人民公社が事実上放棄され「脱集団化」が進行し水面下で独自の経済活動が発達しており、それが鄧小平の解放改革への体制移行をスムーズに実行する大きな要因になったことは非常に興味深い。

「それゆえ文革は中国経済をメチャメチャにしたと思われがちで、確かに GDP で言えばマイナス成長の年もあるものの、文革期10年で 年平均4%に近い成長率を残している。いわば貧しい中にも発展があったわけである。
この背景には前章第4節で述べたように、毛沢東時代の政策が計画経済とはいっても中央の管理統制する範囲が小さく、その分、地方に生産管理・調整の権限がかなり委譲されていた---いわば地方分権化による経済の柔構造---という事情がある。北京の中央政府と各省、各市を管轄する地方政府の財政規模は、1950年代までは中央八に対して地方二であったが、60年代以降はそれが二:八に逆転することになる。無論地方はその一部を上納するのだが、残りについては裁量権があり、今流にいうとそれがインセンティブになる理由である。それをうまく行ったのが自然の経済を立て直した経験が買われて中央に抜擢された趙紫陽である。」

「さらに近年の研究では文革が党組織をはじめとして社会の基盤を破壊したのち、つまり1971年あたりから党の規律が緩み、社会の混乱、食糧不足などの事態が進行したため、農村部では数百万、数千万の農民たちが闇市場を形成し、共有されていた資産や土地を分配していた事実が確認されている。集団所有とは名ばかりで実際には各戸請負いの企業活動もあった。つまり毛の死を持たずに農村では計画経済が事実を放棄され「脱集団化」が静かに進行していたということである。行政単位としての人民公社は1983年以降に次第に廃止されることになるわけだが、その頃までにはすっかりと抜け殻になっていたらしいのである。」

「極端に言えば、苛烈で融通の利かない毛沢東の農業集団化の強制により、いくども飢えに苛まされた農民たちは、共産党政権をひっくり返す反乱を起こすのではなく、もう主席の強制するやり方に従わない、あるいはそれを密かに破ることによって生き延び、したたかに次の時代を準備したのである。文革により党組織が弛緩・壊死したことにより、それがもたらされたということもできるわけで、まことに皮肉と言わざる得ない。先の大躍進の失敗と大量の餓死者、そして10年の動乱と言われた文革での生産活動の停滞それにも関わらず中国共産党が何とか持ちこたえたのは、党の側に何らかの特性や施策があって「もった」のではなく、無体な統治を何とか耐え忍び、とことん窮した時には言うことを聞かないという「静かな革命」を起こせる農村社会の方が共産党を「もたせた」のである。」

「鄧小平指導部は、文革期に計画経済をあざ笑うように発達し、「第二の社会」とも言うべき市場を形成した個別型による経済活動を柔軟に体制化に取り込んだ。改革開放期になると、集団所有的性質を持つものは地方の郷鎮企業と呼ばれ、また個人経営のものも個体戸(個人事業体)と呼ばれるようになり、いわば存在と意義を追認されるようになったわけである。 文革期に準備されたのはそればかりではない。ブルジョワ的な知識を否定するという教育方針により、文革期に高等教育機関は軒並み閉鎖に追い込まれた一方、初等中等教育は文革中も相対的に手厚い保護を受け、結果として改革開放期に従順で安価な労働力が外資系の品質向上に提供された。これまた毛は決して西側資本主義国のための労働力を提供するために このような教育政策を取ったわけではないが、毛の後継者たちは図らずもその余計を被り、豊富で上質な労働力を将来の世界の向上のための礎とすることができたのである。(P288–290)」

(2021年11月23日)


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