負け犬の遠吠え 大東亜戦争64 戦争の終わらせ方②聖断
「ポツダム宣言」
ポツダム宣言は、アメリカ、イギリス、支那国民政府など連合国の共同声明として日本の戦後処理について発表したものですが、その宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが修正を加えた程度でその他の国は関与していません。
急逝したルーズヴェルト大統領の後を継いだトルーマン大統領は5月にダウンフォール作戦を認可したものの、沖縄戦における、予想をはるかに越えた損害を目の当たりにし、住民が日本軍に協力していたという事実を知ると、日本本土上陸による損害は計り知れず、アメリカの世論は厭戦に傾いて自らの政権が危うくなると考えました。
日本本土上陸を行わずして日本を降伏させたいトルーマンは、ルーズヴェルトの考えていた「無条件降伏」ではなく「条件付降伏」を模索します。
元駐日大使、ジョセフ・クラーク・グルーは、「皇室の維持」を草案に取り入れました。
天皇の地位さえ保証すれば、日本は降伏を受け入れると分かっていたのです。
「日本を降伏させるにはソ連の協力が必要だ」と考えていたルーズヴェルトによって実現したヤルタ会談において、ソ連は「ドイツ降伏の3ヶ月後に対日参戦する」と約束していましたが、その具体的な日程については示されていませんでした。
ドイツが降伏したのが5月8日、つまり8月上旬にソ連が日本へ侵攻を開始することが予想されていたのですが、7月16日にトリニティ実験が成功すると、「これで日本を降伏させるのにソ連の力を借りる必要がなくなった」と考えたトルーマンは、ソ連に勝利の配当を与える事を惜しいと思うようになりました。
元々はナチスドイツを倒すために作られた原子爆弾でしたが、ドイツが降伏した以上、その矛先は日本へ向けられることになりました。
アメリカとしては、原爆の威力とアメリカの国力を示し、ソ連を牽制しておくためにも日本に原爆を落とす必要があったのです。
トルーマンは、ポツダム宣言の草案から「皇室の維持」を削除し、原爆を使用する前に日本が降伏してしまわないようにしたのです。
そしてその思惑通り、日本政府はポツダム宣言を受諾しませんでした。
8月6日に広島、9日に長崎へと立て続けに原爆が落とされます。
実は原爆投下命令は、ポツダム宣言以前に既に出されていたのです。
8月8日、ソ連が対日宣戦布告を行い、15万の兵力で満州へと攻め込みました。
日本人にとっての本当の地獄はここから始まるのですが、それは後日書く事に致します。
「終戦内閣」
4月5日に総辞職した小磯内閣の後、天皇陛下の大命を受けて総理大臣の座に就いたのは日清・日露戦争で武勲をあげ、2.26事件で4発の銃弾を受けながらも一命をとりとめた強運の持ち主である元海軍大将の鈴木貫太郎でした。
鈴木首相は「大東亜戦争の終結」という、日本史上最大の難局を乗り越えねばなりませんでした。
鈴木首相はまず、陸軍大臣に阿南惟幾大将を任命します。
鈴木も阿南も、かつて侍従武官として共に陛下に仕えた事があり、阿南は鈴木の人格に尊敬の念を抱いていました。
しかし、和平派の鈴木と継戦を主張する陸軍の代表である阿南は対立する事になってしまいます。
当時「軍部大臣現役武官制」を採用していた日本政府は、陸(海)軍の大臣が辞職した場合は、後任の大臣を陸(海)軍が選出する事になっていました。
つまり、阿南が辞職し、陸軍が大臣選出を拒否すれば内閣が成り立たず、鈴木内閣は総辞職に追い込まれてしまうのです。
陸軍内部では既にクーデターにより鈴木内閣を倒閣し、戦争を継続しようという動きがありました。
日本国内にはまだまだ300万の軍隊が控えており、陸軍は「まだまだ戦える」と本土決戦の準備を進めていたところなのです。
広い関東平野は防御に不向きなため、皇居や政府機関を長野県松代に移設して徹底抗戦する準備も始まっていたほどです。
終戦か継戦か、日本の将来は阿南惟幾に委ねられたと言っても過言ではありませんでした。
「1条件か4条件か」
8月9日、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎陸軍参謀長、豊田副武海軍軍令総長の6人による「最高戦争指導者会議」が開かれました。
原爆投下にソ連の参戦、窮地に追い込まれていた日本の現状を省みて、鈴木首相は会議の冒頭に「ポツダム宣言を受諾するしかない」と発言し、もはやそれに反対するものはいませんでした。
問題は「ポツダム宣言の受諾にあたり、どのような条件をつけるか?」です。
鈴木、東郷、米内は「国体護持」の一条件のみをつける事を主張、しかし他の3人は「戦争犯罪人の処罰」「武装解除の方法」「保証占領」を付け加えた4条件を主張します。
この会議は最後まで意見が分かれ、午後一時に会議は終了し解散する事になりましたが、この会議の最中に二発目の原爆が投下されてしまいました。
午後の閣議でも両者の対立は解決せず、同日の深夜、昭和天皇の前で「御前会議」が開かれることになります。
鈴木首相は、天皇陛下のご決断に助けを求めたのです。
陛下の前で1「条件なのか、4条件なのか」の激論が交わされた後、午前2時に鈴木首相が昭和天皇に意見を求めました。
陛下は涙ながらに「朕のは外務大臣の意見に賛成である」と語りました。
こうして、1条件のみの付与を求めてポツダム宣言を受諾する方針が決まったのです。
憲法上、沈黙を守らなければならないはずの天皇陛下の発言は何の法的拘束力もないため、鈴木首相はすぐさま閣議を開き、ポツダム宣言受諾を閣議決定します。
天皇の意思が直接政治を動かしたこの出来事は「聖断」と呼ばれる事になります。
「国体護持」
ポツダム宣言受諾の通知は8月10日にスイスとスウェーデンを経由して行われました。
12日、アメリカの回答が届き、これは当時の国務長官の名前をとって「バーンズ回答」と呼ばれています。
このバーンズ回答には2つの問題点がありました。
「the authority of the Emperor and the Japanese government to rule the state shall be subject to the Supreme Commender of the allied powers(天皇と日本政府の統治権は連合国最高司令部の従属化に置かれる)」
という文章の「subject to(従属する)」を、外務省が軍部を刺激しないように「制限下に置く」と好意的に訳したのですが、それでも譲れない条件「国体護持」が実現されるのか不明であった事、もう一つは
「the ultimate form of the Government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration,be established by the freely expressed will of the Japanese people(日本国政府の最終形態はポツダム宣言に従い日本国民の自由な意思に基づいて決定される)」
という文章で、これもまた「国体護持」の実現が疑問視されるものでした。
8月13日、この2点を巡って再び最高戦争指導者会議が行われます。
国体、すなわち「國體」とは、国の在り方、国家体制のことです。
神武天皇の即位から皇紀が始まるこの国の國體は皇室そのものであり、要するに國體護持とは「天皇陛下の首を守る」ということなのです。
阿南陸軍大臣は「これでは天皇陛下の地位が保証されていない。再照会すべきだ」と意見を述べますが、東郷外相は「再照会すれば交渉は決裂する。このまま承認すべきだ」と主張しました。
五時間にも渡る議論でも決着がつかず、鈴木首相は翌14日に再び御前会議を行う事を決定します。
この御前会議で再照会派は「このままでは國體護持は不可能、再照会して決裂したならば本土決戦をすべし」と主張します。
これに対し昭和天皇が「もはや戦争継続は不可能である。私自身はどうなっても良いから、国民を救いたい」と述べ、鈴木首相に終戦手続きをとるように命じました。
北方から侵攻を開始したソ連が本土にまで上陸すれば国家分断は免れないため、日本政府にはこれ以上の時間がなかったのです。
しかし当時、アメリカの世論は天皇の処刑を望むものが33%、終身刑が11%、とにかく何らかの処分を望む者が70%もいました。
昭和天皇の決断は、自分の命を投げ打って国民を救うものだったのです。
阿南陸相を始め、その場にいた者たちは泣き崩れ慟哭しました。
昭和天皇は阿南陸相に「あなん、あなん、もう良い。お前の気持ちはわかっている」とやさしく語りかけました。
会議が終わった後、阿南陸相は昼食をとる間も無く陸軍将校たちに詰め寄られます。
阿南陸相は、「ポツダム宣言受諾を阻止できなければ、大臣は切腹すべきです!」と会議前に陸軍青年将校に言われていた程、陸軍内部ではいまだに「徹底抗戦」を唱えるものが多く、クーデターも計画されていました。
ポツダム宣言受諾を受け入れた阿南は、天皇陛下の身を案じると同時に、自分の命もないものだと覚悟を決めます。
阿南は「最後の聖断がくだされた。不服なら自分の屍を越えていけ」「君達が反抗したいのなら、まず俺を斬ってからいけ」と大喝しその場を抑え込みました。
阿南陸相が本当にポツダム宣言受諾を拒否しようと思えば、辞任して内閣を総辞職に追い込めばよかったはずです。
陸軍の代表として陸軍の期待を一身に背負い、あえて強硬な意見で激論を展開する事によって、これ以上反乱の機運が高まる事を抑えこもうとしたのです。
「宮城事件」
ポツダム宣言の受諾へと政府が話を進めていく裏で、陸軍内部ではクーデターの計画が進められていました。
13日には閣議の最中に大本営報道部の一部の将校によて偽の情報がマスコミに流され、危うく「ポツダム宣言を拒否して徹底抗戦」に決定したかのようなラジオ放送を流されるところでした。
この計画は阻止されたものの、何が起きてもおかしくない状況が続きます。
阿南陸相の義弟、竹下正彦中佐と畑中健二少佐は、阿南陸相に一度は拒否されたクーデター計画を練り直し、8月15日0時に決起します。
近衛師団長・森赳中将を惨殺し、近衛師団に偽装命令をだして宮城(皇居)を占拠し、玉音盤を奪おうとしたのです。
ポツダム宣言受諾が決定されてすぐに政府は「終戦の詔書」を起草し、詔書案を閣議にかけて修正を加えて文言を確定していました。
それを天皇陛下が読み上げてレコード盤に録音した「玉音盤」を8月15日の正午にラジオ放送で「玉音放送」として流し、敗戦の事実を全国民に知らしめることになるのです。
クーデター側としては、この玉音放送をなんとかして中止させ、国民の継戦感情を高めて政府を転覆し、徹底抗戦に持ち込むのが目的でした。
8月15日午前5時、田中静壱司令官は近衛師団司令部へと向かい、偽装命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊を説得し、止めることに成功します。
結局、玉音盤を見つけることも、放送会館を占拠することもできなかったクーデターは急速に沈静化していきます。
最後まで抗戦をあきらめなかった椎崎二郎中佐と畑中健二少佐はビラを配って決起を訴え続けましたが、午前11時過ぎ、二重橋と坂下門前の間の芝生の上で自決しました。
そして正午過ぎ、玉音放送は無事にラジオ放送される事になったのです。
「阿南惟幾の死」
宮城事件も沈静化しようとしていた8月15日の未明、阿南惟幾は自宅の縁側で割腹自殺を遂げました。
あえて介錯を設けず、絶命までに数時間を要した壮絶な自決でした。
血染めの遺書には「一死を以て大罪を謝し奉る」と書かれていました。
「陛下への忠心」と「陸軍の代表である立場」との間で板挟みになっていた阿南陸相は、自らの死をもってケリをつけ、戦争に負けてしまった陸軍の責任を背負ったのです。
阿南陸相の自決によって陸軍の徹底抗戦派は大きなショックを受け、急速に終戦を受け入れ始めました。
玉音放送が国民に終戦を知らしめ、阿南の死が陸軍の暴走を抑えたのです。
日本はこうして、本格的に終戦手続きに入っていくことになったのです。