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『精霊の守り人』〜『夢の守り人』のテーマ考察

宇宮7号と言います。普段は世界史の絵や動画を作っています。上橋菜穂子ファンです。


最近『守り人』シリーズが次々audible化しているので、繰り返し聴いているのですが、『精霊の守り人』『闇の守り人』『夢の守り人』まで聴いて、幼少期には気づかなかったテーマの流れがあるのに気付いたので記録します。


結論というか言いたいことを先に言います。
「いや、『夢の守り人』は読むべきだわ」

※以下
『精霊の守り人』は『精霊』
『闇の守り人』は『闇』
『夢の守り人』は『夢』と呼称することがある


考察1:「子」と「父」と「母」の順に人生を再評価する3作

第1作『精霊の守り人』の知名度は言うまでもないが、全シリーズで最も人気の高い作品は、2作目の『闇の守り人』だろう。

一方3作目『夢の守り人』は比較的マイナーな作品だと思う。
前作『闇』の人気が高すぎて、あまり取り上げられない。強敵(タルシュ帝国)が登場するのは次作『虚空の旅人』以降だから、シリーズの流れにも入れづらい。
そうした理由からか、ドラマ化でも省略されてしまった。よって世間的な『夢』の知名度はかなり低い。


けれど、今回改めて読んで(聴いて)分かった。
やはり『夢』は読むべきだ。

なぜなら、バルサの物語は『精霊』『闇』『夢』の三部作で一区切りだから。



以下繋がりについて簡単に述べる。

『精霊』から『闇』は、わかりやすくつながっている。

主人公バルサは『精霊の守り人』にて数奇な運命を背負った第二皇子チャグムを守ることになる。
その暮らしの中で、養父ジグロが自分を育て旅をした頃を思い出し、彼の気持ちを理解する。

だからこそ、『闇の守り人』では自分と養父の故郷であるカンバル王国に戻るのだ。養父ジグロにまつわる陰謀や真実と向き合い、彼を弔うことで、悲惨だった半生に決着をつけるのである。


ドラマ化の際、作者も『闇』「バルサの心のクライマックス」と表現している。
(出典:ドラマ化にあたっての作者レポート↓)


けれど『闇』はあくまでクライマックス。区切りではない。
『夢の守り人』ではじめて、バルサの半生は区切りを迎えるのだ。

『夢の守り人』では、故郷から戻ってきたバルサが、異界の夢に囚われた幼馴染のタンダを助け出すなかで、失った「もしも」の人生を断ち切って自分の人生を受け入れる。
ここまでが、バルサに必要なことだったのだと思う。


よって今回は、『精霊』から『夢』までで連続し て描かれているものを考察(というか言語化)していく。


1 『夢の守り人』のテーマ

まず『夢の守り人』のテーマについて。
表題の「夢」はもちろん重要なのだが、もうひとつ重要なテーマがある。それが「母」である。


そもそも『夢』の内容を覚えていない方もいるだろうから、以下、公式サイトのあらすじを載せておく。

人の夢を必要とする異界の〈花〉。バルサの幼なじみのタンダは、その〈花〉に魂を奪われ人鬼と化してしまう。バルサはタンダをとりもどすことができるのか。大呪術師トロガイの過去も明かされる、シリーズ第3作。

https://www.kaiseisha.co.jp/special/moribito/series/


この「トロガイの過去」というのが重要である。

今回のゲストキャラクターであるユグノは、トロガイの息子なのだ。息子と言っても実の息子ではない。50年前に異界に迷い込んだトロガイが生み出した、いわば魂の息子である。
同時にタンダも、彼女に育てられた「息子」と形容されている。

同じく鍵を握るのが、一ノ妃。チャグムの死んだ兄サグムの母親である。彼女は息子を亡くしてから心を病んでいる。

更に、縁談が決まっているタンダの姪。彼女はこのまま妻となり母親となる自分の一生を儚んでいる。

随所に母親の要素を織り込み、多様な母を描いていることがわかる。この作品のテーマは、間違いなく「母」であると言えよう。

バルサもまた無関係ではない。
「自分がもしチャグムの実の母だったら…」と人生を想ったり、陰謀で逃げる運命になければ今頃カンバルで誰かの母となっていたかもしれない、と思いを馳せたりと「母たる自分」を強く意識している。


ここで重要なのは、バルサにとっての「母」は常に実在感がないということだ。
実の母は幼い頃に亡くなり、記憶も記述もほぼない。養父と二人で旅をしていたので、母親らしい存在もいない。その後もひとところに留まらず生きているので、自らが母らしいことをするでもない。

「母」は遠い存在なのだ。
もう少し踏み込んで言うならば、バルサにとって母とは失った「普通」の象徴なのだろう。




今回の物語は「辛い現実を受け入れられない者たちが、今とは違う夢の世界に囚われる」話である。

「夢」とは、失ってしまった「現実と異なる世界」である。叶わない「もしも」への思いを乗り越えることで、今の現実を肯定することができる。

バルサが失った「普通の人生」の先には「母となった自分」が存在した。バルサは『夢』の事件で、それを振り払い、人生を再評価する機会を得たのである。


これは、故郷カンバルで養父を弔い、新ヨゴに戻ってきたバルサにだからできたことだと思う。
つまり『夢の守り人』は『闇の守り人』が終了したからこそ描ける話だったのだ。

よって次項では、遡って『闇』について言語化する。


2 『闇の守り人』のテーマ

まずは『闇』のテーマを思い返す。
『夢』が母なら『闇』は父である。養父ジグロに関する決着をつけるために故郷を訪れる話だ。

この話には、その他にも至る所に「父」の要素が散りばめられる。
・医術師であった実父カルナの最期を知る
・故郷カンバルは、男系の血筋で繋がる氏族社会である→女系の生まれ故に将来の見込めない少年がメインキャラクターとして登場する
・養父の汚名を雪ぎ、彼を弔う

物語全体を通して、父という概念が意識にのぼるよう構成されているのがわかる。


一方、故郷においてもバルサの母についてはほとんど語られない。幼い頃(少なくとも6歳以前)に死んだと言うことがわかるのみである。

バルサにとって養父の存在はあまりに大きい。故に、母については注目しづらいのだ。逆に言えば、父の件が片付いて初めて、母という概念に目を向けることができたと言えるだろう。

先ほど述べた『闇』が終わったからこそ『夢』が描かれた、とは、バルサの悟りがその順である必然性があった、という意味である。


3 『精霊の守り人』のテーマ

この流れで『精霊』にまで遡ってみる。
『精霊』は子がテーマであると位置づけられる。

まぁ、これは多少強引かもしれない。
実際には『精霊』は1作目なので、父母子の要素を全て含むだろう。

ただし、相対的に「子」に注目し易い作品ではないかとは思う。なぜならこれは、バルサから見た「子」を描く作品だからだ。


精霊の卵を宿したが故に帝から殺されかけ、逃亡することとなった第二皇子チャグムは、バルサの人生とあまりにも酷似する。
そして彼を守り追っ手と戦う自分は、まさに養父そのものである。
「子であった自分」をかつての親の立場から観測することで、バルサは自分の人生を見つめ直すきっかけを得る。


だからこそ、物語の終わりでバルサは、カンバルへ旅立つ。


ここをもう少し補足しておく。
バルサが故郷に向かうことを決めた理由の一つに、幼馴染のタンダの言葉がある。

チャグムを匿いながら、タンダとバルサ、師匠トロガイと日々を過ごすなか、タンダはバルサに「この件が終わったらチャグムと一緒にずっとここで暮らさないか」とバルサに提案する。
バルサはあしらうが、どうやらその後、きちんと検討したらしいのだ。物語の終わりに、まずは養父の決着をつけにカンバルへ行くことを決める。


自分の人生を尊重しないで生きてきた人間が、誰かのために生きることになった途端に腰を落ち着けるというのは、よくある話である。

結果的にチャグムは皇宮に戻ることになったが、バルサがこの年「子を育てながら生きる」という選択肢を得たのは間違いない。
つまりここで、無碍に扱ってきた自分の人生を見つめ直す必要性を感じたわけなのだ。


だからこそ、親の決着をつけようと考える。
つまり故郷であるカンバルを訪れるわけだ。


よって、『精霊』で子、『闇』で父、『夢』で母を順に取り扱っている、と(ここでは)考える。


4 テーマの流れ

あらためてテーマを時系列順に振り返る。

『精霊』:かつての自分と似た境遇の子を守ることになり、その過程で養父の気持ちを理解する。
幼馴染に、共に生きることを提案され、養父に関わる決着をつけるため、故郷を訪ねることを決める。

『闇』:実父の最期や養父に関わる陰謀を知り、養父の汚名を雪ぎ、弔う。
全てが終わり、幼馴染の元へ戻ることを決める。

『夢』:幼馴染にまつわる事件をきっかけに、失われた可能性を見つめ直す。
母であったかもしれない自分を想像しつつも、今の人生を受け入れる。


これで私が『夢』を読むべきだと言った理由がお分かりだろう。

別に『闇』までしか読んでいなくても、繋がりを感じるには十分なくらいだし、『闇』の重要度や面白さは随一なので「とりあえず『闇』まで読んで」と言ってしまうのはわかる。わかるが、(テーマの流れ的に)『夢』の重要さは計り知れないのである。


考察2:実子と魂の子の対比

ここからは、『夢』で描かれる「母」についてもう少し考察する。
鍵となるのが呪術師トロガイである。


1 トロガイの過去

『夢』ではトロガイの過去が描かれる。
一番の驚きは「トロガイ、子供いたのか」という点だ。

彼女は52年前(20歳頃)までは、農民として村で暮らしていた。嫁ぎ、3人の子を産み、貧しい暮らしのなかで子を3人とも亡くした。

子を亡くして失意のトロガイは、ある日夢の世界に迷い込む。その夢の中で、花番と名乗る男と出会い、彼女は子をなした。

その夢はおよそ50年に一度咲く花が、人間の夢を養分にして生まれるためのもので、彼女がその時に産んだ子は、媒介者となる者の魂であった。

その魂が別の女の腹からこの世に生まれたのが、今回のゲストキャラクターであるユグノである。(※余談:彼は50年前に生まれたにも関わらず、20代程度にしか見えない男である。泉の精(リィ)によって、心を震わす歌を歌える「木霊の想い人」となり、長い寿命を与えられたせいで、普通の暮らしができない運命にあるのだ)



今作でトロガイは、現実の世界でも夢の世界でも母であったことが、明らかになる。

『精霊』において、トロガイは「呪術師」という特殊な立場による技術的役割が強く、母という面は描かれなかった。(強いて言えばチャグムの「バアさん」的な関わりはあった。ただ孫というより近所のガキをあしらう感覚に見える。)

一方『夢』ではあらゆる意味で母として描かれている。母を描くという目的が先にあったのか、物語が先にあったのかは知らないが(作者はどうやら後者で描くことが多いようだが…)母親という役割を他でもないトロガイに選んだのは理由があるだろう。


それはきっと「血縁のない家族を描くため」だ。


2 トロガイの3人の子ども

トロガイは呪術の道に進む前、子供が3人いたという。いずれも死んでしまったが。

死んだ実子は「息子2人と娘1人」である。

この「息子2人と娘1人」という数には、意味があるのではないか。そう思って本編を見てみると、ある解釈ができる。


トロガイの「魂の子」との対比、である。


魂の子とは「実子ではないが、魂の深くつながった子」という意味である。

例えばユグノは、夢の世界でトロガイが産み落とした魂である。作中でも「魂の息子」と描かれる。
実子を失って絶望していたトロガイが夢の世界に迷い込んだ、という筋書きから、ユグノが実子との対比になっているのは明らかであろう。


タンダもまた、トロガイの「魂の息子」と形容されている。

タンダは8歳の時に、光る鳥(トロガイの飛ばした魂)を追いかけてトロガイのもとに辿り着いて以来、彼女の弟子となった。幼少期は彼女の家に入り浸り、のちに家を譲り受けている。

『夢』の作中でも「わしはタンダを育ててきた」と発言するシーンがあるほか、ユグノとタンダを息子として同列に挙げるシーンがある。

トロガイには、魂の息子が2人いるのだ。

ここで、トロガイの死んだ実子を思い返すと、「息子2人と娘1人」とある。
ユグノとタンダは、死んだ実息子2人の対比となる、魂の息子なのだと考えられる。


さて、それでは、娘1人とは誰か

描写はされないが、それはバルサのことなのではなかろうか。

血縁はない、けれど彼女の人生のうち、最も近くで成長を見守ってきた女。それがバルサなのだ。


3 バルサとトロガイ


バルサとトロガイの関わりは、作中ではあまり多くない。バルサは呪術の素養が全くないし、主にジグロと旅をしていたから、トロガイを師や母として描くシーンは全くと言っていいほどない。

しかし、二人の関係は決して浅くはない。バルサとジグロが定期的に戻る場所は、トロガイの家であったし、弟子タンダを通して、今でも深い関わりを持っている。


彼女の家に身を寄せる間、ジグロはトロガイに金を払っていたらしいから、もちろんある程度距離感を保った付き合いではあったろう。
例えるなら、家族ぐるみで付き合いのある隣人といったイメージだろうか。

しかし本当の家族でないからといって、つながりが希薄であることにはならない。
『夢』はそこを描いているのだと思う。


バルサには6歳以降、血のつながった家族がいなかった。
血縁者とはバルサにとって、失った人生のひとつなのだ。父と暮らし、叔母が近くに住み、成長して誰かの夫となり、子をもうける「普通の女」の人生をまるごと、バルサは6歳にして失い、その後も失い続けていた。ある種、自ら遠ざけ続けてもいたろう。

『夢の守り人』は、失った人生を乗り越え、今の現実を肯定する物語である。

トロガイもバルサも、実の家族を失い、普通の人生から逸れて生きてきた。失ったものは血縁的家族。現実の世界で目の前にいるのは、血は繋がっていなくとも魂で結ばれた家族である。


失った血縁でなく、今目の前にいる大切な繋がりを肯定すること。それが『夢』のテーマであるなら、トロガイが失った実の娘と対になる「魂の娘」に該当しうるのは、やはりバルサなのではないか。

そうでなければ、(作者は)なぜ死んだ実子を3人にしたのか。なぜ内訳を息子2人と娘1人にしたのか。

諸国を旅してはたまに戻ってくる孤独な父娘の、唯一の帰る場所であり続けたトロガイたちを、言外にバルサの家族と位置付けるためではないか。

『精霊の守り人』でともに冬を越した4人(バルサ、タンダ、トロガイ、チャグム)のように、生きる場所も生き方も違うけれど繋がっている人々を肯定するためではないか。


その関係を肯定することは、およそ普通から外れたバルサやトロガイの人生を肯定することでもあるのだ。


4 チャグムとバルサ

バルサの母親を語るなら、母親としてのバルサもまた、語らねばならないだろう。

チャグムとバルサの関係もまた、『精霊』から一貫して大切に描かれる。

例えばバルサは、離れていても血のつながりはなくとも、チャグムの母親のように感じている。そうした表現が、本文やタンダの言葉として随所に現れる。

タンダやトロガイと一緒にチャグムと暮らしていた時期はまるで家族のようだった。そこに典型的な「父」「母」という役割分担は薄いものの、チャグムの母から依頼されて預かったという経緯から、母の代わりという意識もまた、バルサの心のどこかにあったのだろう。


『夢の守り人』では、その思いが直接的に描かれている。

バルサは、今や皇太子となったチャグムを思い「私があの子の本当の母だったら」と考える。

一方チャグムもまた、皇太子としての人生に嫌気が差し、バルサやタンダ、トロガイと過ごした日々に思いを馳せる。そして夢に囚われ、目覚めなくなってしまう。

彼らの関係には、「普通の人生」であったらという反実仮想「血縁のない家族的関係」に対する引っ掛かりが常について回る。

チャグムは血縁のある父帝に暗殺されかけたし、皇太子として、情のある暮らしからは離れた世界にいる。
バルサは先述の通り、普通の人生を失い、血縁関係からも、母として生きる自分からも遠ざかって生きてきた。

そんな二人にとって、狩穴でタンダやトロガイと過ごした冬は、人生や価値観を変える大事な日々であったし、戻りたい大切な時間でもあった。


バルサをチャグムの「母親」と位置付けられるか、と考えると、なかなか難しいものがあろう。

チャグムは生母(二ノ妃)が存命、かつ関係も比較的良好なので、バルサは今後もチャグムの「母親の代わり」とはなり難い
そこがまた「もしも」の切なさに拍車をかけるのである。

『精霊』の最後で、チャグムが皇太子とならず、あのまま皇宮に戻れない身の上であったなら、バルサはチャグムの母親がわりとして、普遍的な家族の喜びを得て生きていったろう。

けれど、チャグムは皇太子となることを決めた。血縁的な母親もいる。
「本当の母親だったなら」という表現には、自分とチャグムの関係をどうとも位置づけがたい状況、代わりにすらなり得ない、という切なさも含まれているのかもしれない。



それを救うのが「魂の息子」という概念である。

この概念の良いところは、血の繋がりを否定するわけではないところだ。
血の繋がりと別に、魂の繋がる家族という概念を追加するのだ。

「もしも」という思いに囚われることは、失われたものにばかり価値を置き、現実を無価値なものとして切り捨てることである。

夢から覚めることは、失われた「もしも」の世界を捨てることではない。
失われた関係を「魂の繋がり」という概念で捉え直すことだ。そうすることで初めて、今いる世界をも肯定することができるのだ。



夢に囚われたチャグムは、夢の中でタンダと出会い、タンダの言葉でそれを知る。
皇宮の家族を捨てるでもなく、バルサ達を切り捨てるでもなく、皇宮の外の決して離れない繋がりとして、バルサやタンダ、トロガイを認識する。

それはバルサにとっても喜ばしいことであったろう。


『夢』は、魂の繋がった親子という概念を受け入れ己の現実を肯定する話である。
そうすることで、人は、過去に決着をつけ、未来を生きることができるのだ。


考察3:ドラマで回収された『夢』の要素

こんなに重要な要素のある『夢の守り人』であるが、残念ながらドラマ版では描かれない。

ドラマ版は以下の順で描かれている。

第1章:『精霊の守り人』
第2章:『神の守り人』と『蒼路の旅人』
最終章:『天と地の守り人』と『闇の守り人』

省略:『夢の守り人』と『虚空の旅人』、諸外伝


物語としては省略されてしまったが、しかし『夢』のテーマはしっかりと描かれている

ドラマ版最終話では、二ノ妃とバルサでチャグムの二人の母の語らいとでも言うべき会話が発生する。バルサが「チャグムの強さはあなたに似た」と言うと、二ノ妃は「そしてあなたに育てられた」と返す。


なぜ最後に二人の会話が挟まれなければならなかったのか、放映当時は正直よく分からなかった。
けれど、今、ここまで考察した後なら、その必然性がよくわかる。


あれは行わなかった『夢』のテーマ回収なのだ。


ドラマ版は『闇』を最終章に回し、『天と地/二部』でカンバルを訪ねたときの物語と重ねて同時実施している。
これは、「バルサの心のクライマックス」を物語のクライマックスと重ねるための工夫である。

ここまで読んでくださった方なら、なぜドラマで『夢』が描かれなかったのか、わかるだろう。

『夢』は『闇』の後にしか実施できない。『闇』をクライマックスにするならば、『夢』を描けるはずもないのだ。

ただし、『夢』の要素はドラマでもきちんと回収している。それが、ニノ妃との間で行われた会話なのである。


私は『闇』と『天と地』を重ねたドラマの方針にはかなり納得している。『闇』はバルサにとっての父との決着、『天と地』(特に第三部)はチャグムにとっての父との決着を、それぞれ描いた作品であると思うのだ。

そこを重ねるため、さまざまな工夫がある。
例えばドラマでは原作と違い、バルサの仇であるカンバル王ログサムが生きており、息子のラダールとの関係が描かれる。
作中でログサムが死に、次のラダールが新たな王に即位する流れになっている。

そして、新ヨゴに帰国したチャグムもまた、父である帝と決別する。帝は死に、チャグムが新たな帝となる。明らかに意図的に重ねられている。


そう考えると、全てが決着した後に『夢』の会話を回収するのは時系列的にも妥当だと言える。
バルサとチャグム、両方の父に関わる問題の決着がついたからこそ、改めて母親について描くことができるのである。



全体的にドラマ版は二ノ妃の出番が多い。初期から二ノ妃は一貫して、雲上人でなく一人の人間として描かれている
そもそも1章におけるバルサと二ノ妃の邂逅も、湯殿という特殊な設定に変更されている。おそらくこれは、「妃と平民の謁見」としてでなく、「一人の女と女の対話」という形で二人を出会わせるためだったのだと思う。
(※単純に風呂は他者を排除した密談に適するという事情もあろう。作者の別作品『獣の奏者』でも、真王の入浴中に主人公が内密の話を持ち込むシーンがある。ただしこちらでも、風呂という無防備な空間で、地位と柵を取っ払い、腹を割って話すという意図が見える)


この「女同士の対話」は最後に生きてくる。
バルサと二ノ妃が、再び並んで、チャグムについて話す。
母に始まり、父親を克服して、母に終わるのだ。

ドラマ放映時から、シナリオや小道具一つとってもかなり考えられ作り込まれているなと思っていたが、この「二人の父(ジグロと帝)→二人の母(バルサと二ノ妃)というテーマを鮮やかに回収する構成に気づいて、更に脱帽だった。

※補足
原作同様、ドラマにおいても、チャグムの母親はあくまで二ノ妃だという前提は変わらないように思える。二ノ妃がバルサに言った「母として心より礼を言います」という台詞より、それは窺える。
けれど「育てる」という言葉が、バルサがチャグムに与えた大きな情や影響を物語っている。「血縁はなくとも互いを自身の人生で大切な存在だと位置付けるための言葉」として、これ以上最適なものはない。
この短い対話が『夢』の要素を端的に表していると思う。

(ドラマはNHKオンデマンドで見られるので、興味のある方は是非)


まとめ

バルサは『夢の守り人』終章で、もし普通の家に生まれていたら、という話をする。
5、6人の子供に囲まれた母親となり、それなりの苦しみを抱え「もし別の人生に生まれていたら、もっと楽しいこと、面白いことがあったろうに」と嘆いていたかもしれない、と言うのだ。
普通から外れた自分たちには、自分たちなりの幸せがあると理解し、人生を肯定する。

そう、終章は『精霊』から『夢』までの総括である。


『精霊の守り人』事件以降、バルサは自分の人生を捉え直し、肯定し、人生で得た大切な存在を少しずつ受け入れていく。


『精霊』でチャグムを通して、子であった自分を認識し、養父の思いを理解する。
『闇』では養父と決着をつけ、弔う。
そして『夢』では、チャグムやタンダと(そしておそらくトロガイと)自分との魂のつながりを再認識し、自分の人生を肯定する。あったかもしれない人生を乗り越え、幸せを認める。

『夢の守り人』は、バルサの6歳以降の人生が一区切りする物語である。
故にここから、バルサとチャグムの新しい物語が始まるのである。





お付き合いいただきありがとうございました。

興味のある方は、ぜひ『精霊』から『夢』まで一気に読んでみてください。違うものが見えると思うので。
リンク↓


おそらくまた続刊を聴いたら何か語りたくなると思います。その際はよろしくお願いします。

それでは。

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