「懶惰の歌留多」太宰治 〜三十一歳は三十一歳だけのことしかない〜|読書感想文 #1
突然ですが、読書感想文を書いてみます。
最近読んだ、太宰治の「懶惰の歌留多」(らんだのかるた)から。
作家である「私」が、「怠惰」であることの言い訳をつらつらと述べるところから始まる「懶惰の歌留多」。
なかなか書き物が書けなくて、やけくそになって、いろはかるたの形式で少しずつ書き始めていく。
「に 憎まれて憎まれて強くなる。」の句の説明?にこんなことが書かれています。
私も今年三十一歳になる。
自分が三十一歳にふさわしいほどに成長できているのか、自分はアダルトチルドレンで、心が成長できていなくて、まだまだ子供っぽいところがあるよなと思っていた。
友達は結婚している人も多くて、職場では年齢が近い人が役職についている。
自分はそんなふうに次のステージに進むにふさわしいのだろうかと考えていた。
職場は辞めるほど嫌ではない。
けれど、転職した人も多くて、果たして私はここで一生働いていくんだろうか。
自分の人生このままでいいんだろうか。
自分らしく行きていけるんだろうか。
漠然とした不安を抱えていた。
背伸びしないといけないような気がしていた。
太宰の文章でいうと、
「戦争と平和や、カラマゾフの兄弟」を書かなきゃいけないような気がしていた。
そんなところに、太宰は「やはり、三十一歳は、三十一歳だけのことしかないのである」と言ってくれた。
なんだかホッとした。
そうだ、三十一歳は三十一歳であること以外に何も意味を持たないのだ。
年齢はただの数字だ。
三十一歳=結婚、会社で役職につくこと、自分という何かを形作らないといけないこと、ではない。
この1つのフレーズから、あたりまえのことに気付かされた。
そのあとは、こんなふうに続く。
そうだ、「戦争と平和は、私にはまだ書けない」のだ。
ただそれだけのことなのだ。
勝手に自分の「三十一歳の姿」を作り上げている。
そこに達していない自分を責めている。
「三十一歳は、三十一歳みたいに書くより他に仕方が無い。それが一ばんいいのだと思っている」
それでいいのだ、ではなく、それ「が」一番いいのだ。
いろいろ気にせず、「でも、もういい。」と思ってみるのだ。
太宰の言葉を味わうと、自分に少し正直になれる気がする。
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