自己責任論なんか絶対ウソや
スタンレー・ミルグラム著、山形浩生訳(2008) 『服従の心理』河出書房
読みました。
ミルグラムの通称『アイヒマン実験』の方法などについてはこちらにまとめました。
今回は、本を読んで「自業自得とか自己責任論なんて絶対ウソやんか!」と思うエピソードがあったので、そのことについて書きたい。
被害者の自己責任だ、なぜなら俺の責任じゃないから
『アイヒマン実験』について、めっちゃ怖いなと思ったポイントを以下にまとめておきます。
・被験者の大半が実験者の指示に従い、被害者である学習者に450ボルトの電流を流した
・実験者に最後まで従い、450ボルトの電流を流した被験者には
「電流は大した苦痛ではなかったはず」
「そのくらいの電流なら許容範囲だった」と矮小化する人もいた。
だが、彼らは決してその強さの電流を自分で試そうとはしなかった
・被験者の中には、被害者が電流に反抗したり抗議したりすることに腹を立てる人もいた。
彼らは「自分の意思で実験に参加したのだから、課題をこなせなくて罰を受ける被害者の自己責任だ」と責め立てる人もいた
・実験者に最後まで従った人たちのほとんどは
「実験者が最も悪いが、その次に悪い(責任がある)のは被害者」
「自分には最小の責任しかない」と答えた
・逆に、実験者に反抗して途中で実験を中止した参加者は、責任の多くを自分で引き受けた。被害者にはほとんど責任を負わせなかった
ざくざく列挙しました。
これらを見て感じたのは、被験者たちの言う「自己責任」のいびつさ。
最後まで従った被験者たちは、自分の行為に関してはほとんど自己責任を問わないのに、被害者の行為には理不尽なまでに自己責任を追及したがる。
自らは実験者に強く命令されているだけで、逆らっても特に何の不利益も受けず、強制力も受けていないのに。その気になれば、被害者を解放して実験室を飛び出していくこともできたのに。
(実際には心情的にかなり抵抗があるだろうが)
対して被害者は腕を固定され、自分の意思では電流から逃れることもできず、何度も実験の中止を求め続けていたのに。
被害者には「実験参加に自分で同意したから」と責任を問いつつ、同じく実験参加に同意した自分のことは「命令されてやっただけ」と免責してしまう。
むしろ、自分に責任がなく、自分は何も悪くないと思い込むために被害者を責めているようにすら見える。
しかもこの被験者たちは特別ひどくて無責任な性格というわけではなく、いたって普通に生活し、働いている男性たちなのだ。
つまり、このいびつな「自己責任」の考え方は、大半の人が自覚しないまま抱えているゆがみなのだろう。
日常生活で考えてみても、そんな感じがする。
よくある自己責任論は、被害者のちょっとした行動や選択を「同意の証」のごとく解釈して責め立てる一方、加害者を徹底的に擁護ーーというより『透明化』する。
例えば男に誘い出された未成年は非道徳的だと責められ、「未成年に家出をさせる家庭環境」を徹底的に批判して悪魔のように言い立てられる一方で、
未成年を騙して誘い出して監禁した成人男性の犯人はその背景をしつこく探られたり、些細な行為や選択に至るまで否定されたりしない。
非正規雇用者に対して「自分でその形態を選んだ」「自分で稼ぐ力と頭が足りないから」と能力や選択を責める一方で、
派遣スタッフや高度ボランティア人材を使って利益を得ている権威的な人物の存在や、専門職を安く雇ってコストカットを実現しようとする公的機関(または公的機関のコストカットをとにかく求める世論)、労働者の搾取で成り立つ便利さを享受する私たちのことは透明化されてしまう。
被害を生み出す観念や社会構造をまるで変えようのない所与の条件のごとく考え、それに流されて加害する人々を責めず、被害者の自己責任を問う。
それはまさに、ミルグラムの実験で見えた被験者たちの行動と一致している。
おそらくこれらの言動をする人たちは、無意識に加害者側に自分を重ねて見ているのではないか。
そして自分は悪くないと、自分に責任はないと主張するために、そうした行動をとるのではないか。
契約を破った場合でも「契約したから自己責任」!?
自己責任論を欺瞞だと思う理由はもうひとつある。
被害者側は「契約に同意したから」と責められる一方で、加害者側はいくらでも契約を破れるからだ。
それが顕著に見えるのが、「実験9 被害者の条件つき契約」。
この実験では、学習者(被害者)は開始前に「参加には同意するが、中止を申し入れたらすぐに出してくれるという条件です」と明言する。
だが実験が始まると、実験者は被害者の抗議を無視して続行を指示する。これは明らかに契約違反であり、被害者に対する裏切りだ。
この場合、相手が約束を破った以上「被害者が参加に同意した」という理由は無効になるはずだ。
実際、途中で実験に反抗する人は増え、その中には契約に言及する人もいた。だが、依然4割の被験者が最後まで電流を流し続けた。
権威が契約に違反したとしても、我々の多くは「お前が約束を破ったから無効だ!」と逆らえるわけではない。
権威が不正をしているとわかった上でも、自分が契約を破って命令に逆らうことには強い抵抗を感じてしまう。
もしかしたら、自分が被害者の立場にあってさえ、そうなのかもしれない。
これも、社会においてもよく見る現象だ。
外国人技能実習制度も実習生は契約に同意してはいるが、思っていたのとは全く違う業務に就かされたり、違法な低賃金で長時間働かされるなど、明らかな契約違反の環境にさらされている場合は多々ある。
それでも契約に縛られているせいで、彼らは仕事を変えることもやめることも、逃げ出すこともできない。
世の中にはそんな境遇にある人たちさえも、自己責任だと切り捨てる意見がある。
「彼らは自分で仕事に応募したから同意だった、強制ではなかった」
「彼らの本国に比べれば遥かに条件のよい、好待遇の仕事だった」
雇う側の不正や暴虐には目をつむり、被害者が虚偽の契約に同意したことだけをもって自己責任を問う意見。
向こうが先に契約を反故にしたことには目をつむり、被害者を「自分で契約に同意したくせに後から覆した」とばかりに侮辱する意見。
それらの意見が噴出するのはやはり、加害者の透明化が起きているからだと思う。
強者は倫理で守られる
弱者が権威的な構造の中で被害にあうと、自己責任を問われてしまう。
では強者、つまり権威自身が被害にあったときは?
それが見えるのが、「実験14 権威が被害者となる:命令するのはただの人」条件のパートである。
実験14では、実験者が学習者役になり、ただの人(もともと学習者役をやる予定だった人)が指示役になる。
ここでは事前に実験者が、「実験では学習者の成績によっては、300ボルト以上の電流でも流すつもりがある」と被験者とただの人に宣言している。
(詳しい経緯については『服従の心理』を参照ください)
この場合、ただの人がいろいろな論理を駆使して続行を要求しても、実験者が嫌がった時点で被験者全員が実験を中止した。
ただの人の意見は完全に無視されたのだ。
しかも被験者は実験者を急いで助け、猫なで声で同情を示しただけでなく、
続行を指示した人のことを狂ったサディストのように扱った。
これは、実験者が続行を命じたとき、半数以上の被験者が最後まで従うのとは対照的である。
しかも実験者が命令する条件では、反抗した被験者でさえも実験者に常に敬意を払い、丁寧な口調で反論していた。
実験者もただの人も同じことを要求しているのに、実験者は狂人として扱われることはなかった。
実験14で起きたことは、まさに「自己責任を問われるのは弱者だけである」ことを象徴しているように感じた。
どう考えたって
「実験参加に同意しただけの(場合によっては中止を申し入れたらすぐ出してくれと条件をつけた)ただの人」
より、
「ただの人が課題に正解しない場合は300ボルト以上の電流でも流すつもりだと宣言した上に、自分は不正解を連発する実験者」
のほうが、よっぽど正しく自業自得なはずなのだ。
彼はまさに自分がその人にやろうとしていたことを、その人にやられそうになっただけなのだから。
被験者が本当に「自己責任かどうか」を判断基準に動いていたのであれば、ただの人の要求を聞き入れて実験を続けるはずである。
でも絶対にそうはならない。
なぜか? 私たちは自己責任かどうかではなく、それを強制するのが権威かどうかで判断しているからだ。
弱者が強制するなら「頭のおかしいやつに目をつけられてかわいそう」だし、
強者が強制するなら「それに同意したやつの自由意志だから自業自得」だ。
権威が攻撃されたとき、私たちは思わず彼らをかばおうとする。
でもそれは私たちが優しいからでもなく倫理的だからでもなく、その実、権威に従っているだけなのだ。
人は自分を動かす力が何なのか、全然理解していない
実験14の記述を読んで、一番怖かったのがここ。
多くの被験者は、自分たちのすばやい反応を人道的な理由からだと述べ、その状況の権威面については気がつかないようだった。
明らかに、被験者たちにとっては、自分が単にボスの命令に従っていただけだと認めるよりは、個人的なやさしさから行動が発していたと考えるほうが満足できるようだ。
一般人が電撃を受けていたらどうするかと尋ねられると、被験者たちは被害者が抗議する以上のレベルに進む可能性を強く否定した。
かれらは自分たちの決断における権威の重みを正しく理解していない。
個人が日常生活で行う多くの行動は、本人にとっては内面的な道徳的性質から発しているように思えるが、おそらく同様に権威に動機づけられているのはまちがいない。
私たちは、自発的な行動を引き起こす要因を、自分では全然理解していない。
権威に命令されて人を助けるときには、権威の命令の影響力には全く気づかないまま、「自分に思いやりがあるから」助けようとする。
反対に権威に命令されて人を傷つけるときには、「命令されたから」と自覚しつつ、「被害者の自業自得」という理屈を足して心理的抵抗を減らそうとする。
結局のところ自己責任論は、権威構造に便乗している人たちが自分の責任を放棄し、心理的な葛藤を解決するための理屈でしかない。
つまり、強者のお気持ち※を守るためのムーヴにすぎないのだ。
※「お気持ち」って蔑み方が大嫌いなので敢えて使用した
要するに言いたいことはただひとつで、自己責任論なんか絶対ウソやということです。
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