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2時22分の憂鬱②

不意に深夜に目覚めると、もう眠れない。

目の奥がじんわりと重くて、すぐにでも再び寝付けそうなものなのに、頭の片隅に、頑固に覚醒した塊が残っている。

私は仕方なく、ベッドから這い出して、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


「不安神経症」と診断されて、その日から大量の薬が処方されていた。医師からは、薬について何の説明もされなかった。

服用は、毎食後と就寝前の1日4回。処方薬は1回分ずつ個包装されていて、それぞれの袋に「朝食後」「昼食後」「夕食後」「就寝前」と印刷されている。

入っている錠剤の名前や効用も知らないまま、特に疑問も持たずに私は、従順に処方された薬を口に入れた。

最低限の仕事以外は、できるだけベッドの上で過ごす。身の回りの世話をしてくれる人はいない。

パジャマのような普段着で、ボサボサ頭のまま時折り、近所のスーパーへ食べ物の買い出しに行く。コンビニはまだ店舗数が少なく、地方では24時間営業のところはほとんどなかった。

食料品の選択肢も限られていた。冷凍食品やインスタントラーメン、後は缶詰くらいしか、すぐに食べられるものがなかった。


まともな食事はしなくても、大量のビールは欠かせなかった。電話一本で、近所の酒屋が配達してくれる。

自宅で飲みはじめたのは、それほど前からではない。少しアルコールがあると眠りやすいような気がして、1本、また1本と飲んだのがきっかけだったと思う。

酒量は瞬く間に増えた。手っ取り早く酩酊していたかったのだろう。

その頃すでに、アルコールへの依存は顕著だったのに、私はそのことを、敢えて医師には話さなかった。

良くないことだとわかっていながら、時には、何も食べずに処方薬をビールで流し込んだりしていた。


当然ながら、初診から二週間を過ぎても、私の症状は改善しなかった。

相変わらず起き上がれないし、何もする気になれない。入浴は週に一度がせいぜい。食事もどんどん、いい加減になっていく。

さらには薬の副作用なのか、1日中眠い。うとうとと浅い眠りを繰り返しては、悪夢にうなされる。

世界が終わる夢、街中が破壊される夢、廃墟に佇んでいる夢、長い長い葬列の夢。短い眠りの後は毎回、嫌な気分で目覚めた。


受診のたびに私は、うまく眠れません、起き上がれません、と訴えた。医師は黙ったまま、薬の種類や組み合わせを変え、あるいは量を増やした。

「薬の売人」

私は心の中で、この医師のことをそう呼んでいた。1日に飲む薬は合計20錠を超えていた。

生きるために薬を飲むのか、薬を飲むために生きているのか。徐々にわからなくなっていった。そしてそんなことも、もうどうでも良いような気がした。


仕事の受注量は、急速に減っていた。

元々どれも、単価の低い下請け仕事だった。それでも生活のために、完全に辞めてしまうわけにはいかない。私は無理を重ねて納期を守り、取引先の誰にも病気のことは話さなかった。

バブル崩壊を辛うじて生き残ってきた、周りの仕事仲間たちが少しずつ、事務所を閉めはじめた。

借りていた部屋を引き払って実家に戻る人、畑違いの家業を継ぐことにした人、結婚や出産を機に退職することを決めた人⋯⋯。

早々に、業界に見切りをつけて、人生を再出発する知らせが、ポツリポツリと届いていた。


まるで人体実験のように、薬の種類や組み合わせを変えてはしばらく飲み続け、その効果を見る。

中には副作用の強い薬もあった。酷い吐き気が続き、体中が浮腫む。妊娠も出産もしていないのに、母乳が滲み出すこともあった。

医師は次々と薬を変え、あるいは増やしていく。それでも一向に、回復の兆しが見えないことに首を傾げていた。

手元には、種類を変えるたびに飲み残した薬が、どんどん溜まっていった。


ある夜、やはり深夜に覚醒した私は、これまで感じたことのない胸のざわめきを自覚した。

激しい動悸がして、まるでドクンドクンと心臓の脈打つ音が聞こえてくるような気がする。

手つかずの仕事が、視界の端に映った。納期は明日中だ。

眠る前に、もう何本も缶ビールを開けていた。テーブルの上に、空き缶が転がっている。

やがて、暗い部屋の四方の壁が少しずつ迫ってきた。空間が歪む。

現実には、そんなことは起こっていないとわかっているのに、ますます動悸が激しくなり、圧迫感に押しつぶされそうだ。

私はデジタルの目覚まし時計を手繰り寄せる。すると思った通り、2:22を表示していた。

悲鳴を上げそうになり、私は咄嗟に、布団の端を顔に押し当てた。カタカタと、体が小刻みに震えていた。


気が付くと、辺りは明るくなっていた。今が朝なのか、夕方なのか、判断がつかない。

冷静に考えれば、夢から覚める夢を見ていたのだろう。けれどもその、あまりにもリアルな感覚に、これもまた悪夢の一つだったのか、うまく理解することができなかった。


「カウンセリングを受けてみますか」

医師は唐突にそう切り出した。私は診察室の丸椅子に座って、ぼんやりと窓の外を見ていた。

カウンセリングという言葉は聞いたことがある。何をするのかは知らない。

考える気力もないまま、私は、はい、と力なく返事した。

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