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2時22分の憂鬱⑧

遠くで、誰かが呼ぶ声がする。

狭い部屋の中に、たくさんの人がいるようだ。

しきりに大きな声が飛び交っている。

「〇〇病院の診察券があります」
「当たってみます」
「受け入れ可能です」
「350ml空き缶、目視で⋯⋯21」
「洋酒空き瓶、目視で⋯⋯6です」
「処方薬のみ。市販薬なし」
「集計します」

誰かが耳元で、私の名前を呼んでいる。

何かを見せられ、この人が家族か、と聞いているらしい。返事の代わりに涙が出た。後から後から涙が出た。

「⋯⋯なさい。ごめ⋯⋯。⋯⋯なさい」

言葉にならない。私は泣きながら謝り続けた。たくさんの人に、とてつもない迷惑をかけているのだ、と思った。


不意にふわりと体が浮いた。

これから病院に行きますよ、と耳元で声がする。救急車の中でも私は、パッキンの傷んだ水道みたいに、ただ、だらだらと涙を流し続けていた。

少し年配の救急隊員が、何度も何度も私の顔をティッシュで拭ってくれる。

「ぼくらはね、一生懸命、命を救ってる。毎日ね、本当に一生懸命、命を救っている。何があっても、決して、命を、粗末にしては、いけない」

叱られているわけでも、説教されているわけでもなかった。

救急隊員は、私に向かって言っているようにも、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。

その言葉はとても重く、重く、朦朧とした頭の奥に響いた。

「⋯⋯なさい。ごめ⋯⋯。⋯⋯なさい」

後から後から流れる涙で、顔をぐちゃぐちゃにしながら、私はずっと、同じ言葉ばかりを繰り返した。

頭がぼんやりして、再び意識が遠のきかけた頃、救急車は病院に到着した。


救急外来に着くとすぐに、胃洗浄の処置をされた。

点滴をつながれ、強制的に排泄を管理されて、私の体は、物理的な一本の管となった。

ベッドに寝たままの状態で、渡された容器に向かって吐く。吐く物が無くなっても、なお吐き続ける。激しく咳き込み、肩で息をしながら、いつまでも、酸っぱい胃液を吐き続ける。

「今夜は多いよね」「これで⋯⋯三人目?」「本当に勘弁してほしいんだけど⋯⋯」

まさか聞こえているとは、思っていないのだろう。カーテンの陰で、私と同じくらいの年齢の、看護師たちがひそひそと話していた。
彼女たちは、圧倒的に正しい向こう側の人たちだった。



私は、どうしても、眠りたかったのだ。

赤ちゃんのように、コトンと眠りに落ちてしまいたかった。

何ならもう、目覚めなくてもいい、とさえ思った。

眠れない。眠れない。眠れない。

悔しくて、感情が暴れて、もう、どにもならないように思えて、薬を飲んだ。
家中にある限り、全部、飲んだ。


ここまでやれば眠れますか。
これだけやれば眠れますか。
もう、許してください!

とても、とても疲れてるんです。
どうか、眠らせてください!

起きたらまた、仕事しますから!
頭下げて、体触られても、仕事しますから!
だから、お願い! 眠らせて!!!


吐いて、吐いて、胃液を吐き続けて、胃がピリピリと痙攣する。喉が痺れて、目の前が霞みだした頃、当直の内科医がカーテンを開けた。

どうですか? と聞かれても、私は言葉を出すことができない。

そのままの姿勢でガタガタと震えながら、何とか返事をしようとした。けれども、引きつった変な表情を作るのが、精一杯だった。


「薬をね、全部数えたらね、150錠ほどになりましたよ」

「今の薬はね、昔と違って安全だから、たとえ500錠飲んだところで、そのせいで死ぬことはありません」

「でもね、一度にたくさんの薬物が体に入ることで、ショック症状を起こすことがあるんです」

「そういう意味ではね、危険がゼロとは言えないんですよ」

痩身で眼鏡の医師が、淡々と、そう話した。


「これだけ飲むと、苦しかったでしょう?」

「ぎりぎりのところで、通報する判断ができて、本当に良かった」

「それは、生きようとする、心の声、ですからね」

本当に、の言葉に、はじめて感情がこもる。
そしてやはり、叱られているわけでも、説教されているわけでもなかった。

頭がどうにもぼんやりとして、記憶が混同している。

私は確かに、いつか、誰かに向かって「助けてください!」と叫んでいた。

遠い昔の出来事のような気がしていたけれど、それは、つい数時間前のことだったのだろうか。

住所も名前も、言えなかったはずなのに、救急隊員は到着し、私はこうして病院に運ばれた。たくさんの人が、私の命のために、迅速に、懸命に動いてくれた。

少しずつ、記憶の空白が埋まるにつれて、私は自己嫌悪で押しつぶされそうになった。

何をやっているのだろう。こんなにたくさんの人に迷惑をかけて。私は、自分の無様さを思うだけで、頭がぐらぐらした。


朝になって、辺りが明るくなってきた。

集中治療室のカーテンは淡く、日の光が緩やかに差し込む。きっとこちらは東ではないのだろう。

あれほど眠りたかったのに、結局、私は、少しも眠ることができないまま朝を迎えた。

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