ツイッターでみつけたいい言葉
今日は、有給をとっています。自分のために単純にお休みをしています。
ツイッターを見ていたら、運動指導者・武術指導者の小関勲さんが上記のようなことを話されているのをみつけました。
仕事でも、プライベートでも、上記のツイートのように、手段が強引になっているときというのは、それをやり出したときは、勢いに任せて楽しめるけれど、結局継続できなくなるし疲れだけが残ってしまう。または、まわりが見えなくなるため、周囲の人に知らず知らず負担をかけていたりします。あるいは、無理をして我慢が増えたり。そのため不満が身近な弱い人にぶつけられてしまうことさえあります。そうすると、不和が訪れる。
私はそれは絶対に悪いことだとは捉えないけれど、手段を間違えているかもなあ、と反省しなくてはいけない場面が仕事でもプライベートでもこれまで多々あります。未熟なのにも関わらず、仕事ができる人になりきっても、できるものではありません。体が違いますからできることが違います。体が違うということは動きが違います。頭で固められた、「〇〇さんのような思考力を身につけなきゃ」とか「こうじゃなきゃ〇〇できない」という力が強引さや疲れや、周りとの軋轢を生むのかもしれませんね。
このツイートで面白いのは、「努力」という言葉が、肯定的にも否定的にも使われていないことです。小関勲さんは、体の現象の話をしているのですよね。「強引さが努力と呼ばれている」って、なんかドキッとしませんか?なぜドキッとするかというと、努力することは、ほぼ良いことだとして、意味付けられて教育されているからで、「強引」であることは、悪いこととして意味づけられて教育されているからではないでしょうか。
自身の能力を解放することで結果、願いや思いが叶うことと、頭で考えているものを強引に手にしようとして、手近な手段で動くときの違い。それはどんなふうに違うのかな。そんなことをイメージしました。
最近は、ゆっくりと歩みを進めることと、周りの人に声をかけて、お互いにいい気持ちになれるようなことを惜しまずやっていいんだ、と、ようやく思えるようになりました。プライベートでは存分にそうでありたい。
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