朝の記録 0908-0909
0908
起床。5時に目が覚めて、そこから30分くらい二度寝して、そしてぼーっとしていたら6時を超えて今6時20分くらいになっている。今日は夜勤なので遅出なわけだけれども、夜勤の生活の仕方は未だに掴めないでいる。寝るべき時間に働かなければならないというのは、まあ、とりあえず現状は必ずそうしていなければならない人がいるのは此の世のしょうがなきことなのだけれど、夜勤を通過するたびに命を削っているような気はしているし、人間に備わる正常なリズムへの逆行には年々良くなさを感じている。夜は寝たい。今日はきちんと仮眠をとりたい。
昨日は本を開かなかった。本を開かずに、夜はスープ作りのライブ動画を見ていた。坂口恭平で知ったワークショップの初日で、スープストックトーキョーでも働いておられた料理家桑折敦子さんのワークショップで、大きな鍋に驚くほど材料がどんどん放り込まれていって、のわりに(というよりだからこそ、か)調味料の種類がさほど多くないのが個人的に印象的だった。料理は化学式だといったのは誰だったか、それを実感した。スープとカレーを作っておられたのだけど、スープにニンニクの皮ごと入れた序盤から衝撃的だったし(ニンニクのいわゆるニンニクな味を強く出さず甘みを出すには良いらしい)、カレーにツナ冬瓜ヤングコーンうずら卵とうもろこしとどんどん具が放り込まれていって最終的には具がありすぎてとても味が想像できないものになっていたけど美味しそうだった。料理動画はYoutubeでも時々見るけれど、がっつりとしたテレビの料理番組のような雰囲気のものは久しぶりに見たような気がしており、それに普段見る動画ってちゃちゃっとぱぱっと作れるようなものが多いので、こちらの予想範囲を大幅に超えるものというのは随分と久方ぶりだった。気持ちが良いくらい手際が良く、その手先、指の動き、食材の輝きとかを見ているだけでちょっとうっとり。忘れっぽい人間なので多少メモをとっているけれど、基本的にズボラな人間なのでさすがにあれはハードルが高すぎるので、ナンプラーはにんにくと友達、というのはすぐに使えそうな雰囲気がしていて実践してみようかと薄々思う。そもそもうちにナンプラーはないけれど、スーパーに果たしてあるんだろうか、CALDIとかにいけばあるかな。今、CALDIという名称を思い出すまでに多分二分くらいかかって、自分の記憶の引き出し能力を嘆きつつもよく思い出せたなアハ体験といった朝。スープって面白い、というか私の思っていた以上に自由なジャンルのようだ。栄養もたくさんとれる感じが良い。吉田篤弘の「それからはスープのことばかり考えて暮らした」を思い出し読みたくなり、最近読んだ料理系といえばくどうれいんの「わたしを空腹にしないほうがいい」で、武田百合子の「富士日記」はおすすめされていた名作なので名作だからというわけではないけれど読んでみたい、手元にある「日日雑記」を読んだらね。どれだけ食べ物系本が過剰なほど世に出版されようと、料理好きな人のつづる料理に関することばは総じて魅力的だ。そしてなにかスープ系の、それこそスープストックトーキョーのレシピ本のような料理本を買って読んでどうにか実践してみたくなった。
しかし日本人の魂ゆえか、どちらかというとスープよりも味噌汁派。昨晩作ったえのきと厚揚げの味噌汁が彩りはともかくとして美味しくて、厚揚げを味噌汁に入れたのが久しぶりだったのだけれど、出汁汁をたっぷり吸い込んでぷくぷくに膨らんだお揚げはほんとうになんといいましょう、ほんとうに美味しいですよね。噛んだ瞬間にじゅわああ……と吸い込まれていたお汁が優しく広がるじゃないですが、素朴に美味しい。あとわかめとかなめことかも大好きで、ねばねば系が好きで、そういえば昨晩のワークショップのカレー、終盤でモロヘイヤが投入されていたのを思い出した。モロヘイヤが入ったカレーなんて食べたことない。
ゆっくりと「墨夏」を書く。
昴は河原を埋め尽くしている手頃な小石を拾うと、その場にひとつひとつ並べていく。その手つきをひなこは黙ってじっと見つめているうちに、あ、と声をあげそうになったが、じっと堪えた。彼の指先の動きはとても静かで、なだらかで、延々と眺めていたくなるような穏やかさに満ちており、その一筋の先にあるゴール地点になんの障害もなくひたむきに向かっていく。ひなこは居場所を与えられていく小石の陣形を理解し、昴の指がもたらす即興の描写を見守る。はじめに大きな翼と胴体が現れて、そこから少し距離を置いて、尻尾のついた平行四辺形や、三角形を二つ合わせて翼を広げたような、そういった点々とした地図が描かれる。
最後の一つが置かれて昴が尋ねるように顔を上げる。
「夏の大三角形」
「そう」
二人の意識が星座のように繋がる。
夏の大三角形を成す、三つの星座である。実際は、河原の石のように無数の星が彼等以外に存在する。肉眼では見ることができないほど暗くも遙か遠景のどこかに存在している星や、他に負けじと輝く恒星がちらばっている。
「はくちょう座はやっぱり見つけやすいね。まずはここを探すといい。はくちょう座から、少し離れたところに、カシオペヤ座も見られるかもしれない。カシオペヤは知ってる?」
ひなこは首を横に振る。
昴ははくちょう座の頭から少し距離を置いた方、夏の大三角形とは反対側の方へ石を五つ、軽々と並べた。ぎざぎざに並ぶ、小さな集まり。
「カシオペヤは夏よりも冬の方が見えやすいんだけど、形が特徴的だから条件が良ければ夏でもきちんと見られる。周りが暗いからね、見つけやすいんだ」
「冬の星なのに、夏でも見られるの?」
「そう。北極点に近いからね」
そうして、昴は身体を伸ばし、また小石を並べる。あえて大きな石が置かれ、そこから小さな凧が伸びるように他の石が並べられる。ひなこは真新しいノートを開き、熱心に昴の描く石の星図を書き写し、先程のWの形をした星座の近くにかしおぺあ、とたどたどしい文字を綴った。
「これはこぐま座」
最後に並べた星たちを指して、昴は言う。
「そしてこのお尻のところの輝く星が、北極点。揺らがずに北の方角を示す星だ。だからこの星は季節関係なくほとんど動かない。この星を中心にして、他の星はゆっくりゆっくりと動いていく。昔の人は、北極点を探して、歩く方角が正しいのか考えたりしていたんだよ」
ひなこはふうん、と曖昧に相槌をうち、こぐま座を描く。北極点は大きな丸をつけて、わかりやすくした。
「別名でポラリスともいう」
「ぽらりす」
「うん、ポラリス」
昴はひなこの隣にやってきて、鉛筆を借りる。ひなこよりも一回り大きい手が、ひなこのお気に入りのピンクの鉛筆を無骨に握り、さらりとひなこの星図を邪魔しない程度にさりげなくその名前が記される。ポラリス。きれいな響きだとひなこは思ったし、昴の字体で書かれたポラリスは、更に特別な気配を漂わせているようだった。
ノートに、主要な星座たちが少しずつ現れて、ひなこたちの手元に宇宙が広がっていく。小石を置いていく行為も、ノートに描いていく行為も、空に浮かぶ見えない星たちを写し取っていく作業だった。決して届かない遠いものがてのひらに宿る。下を向いているのに、上空を見上げているような不思議。
「最初から見つけるのは難しいかもしれない。カシオペヤから辿るのが一番解りやすいかも。でも、まずははくちょうだね。そして夏の大三角形だ」
まるで宝の地図を渡されて、その道筋を示されているようだった。
メモ
ミクロコスモス
ぱらぱらと書いていると小説がとても断片的になって流れとしてどうなっているのかが掴みづらいけれど、それは最後に合わせたときに推敲したらいいんだよな、と思う朝。ゆるりとした朝。本を読んで仮眠して、行こう、仕事。明けの日は、明けて寝てそして起きた時にこれを書きます。
0909
起床、した。だいぶ前に。正直なことをここには残しておきたいので今の時間を記すと、16時50分で、夜勤が明けてからシャワーを浴びて寝て起きたのはほんとうは15時前だった。寝たのはたぶん10時くらいで、寝るというより気を失った。夜勤明けはいつもそうだ。気絶する。気絶して、ハッと不意に目覚めて、スイッチのオンオフ。スイッチオフ、の感覚は普段の睡眠とまったく質が異なっていて、休んだというよりは完全に停止していて、ある意味普段よりも深い場所に唐突に気付かぬうちに潜っていて、そして気付かぬうちに仰向けで水面に浮かんでいた、というような感覚がする。
だいぶぼうっとしてからこれを書いている。その間に、夕べ配信されていた坂口恭平のパステル教室的な動画を寝転がったり椅子に座ったり洗濯物を干したりしながら見た。一時間ほどで風景が浮かび上がり単純にすごいなと感服したりしながら、私はパステルは持っていなくて、水彩や色鉛筆をやりたくなったりなどした。影響されやすいのでパステルもやってみたいけど、少し考えている。天邪鬼が発動しているし、パステルのあのはっきりとした色使いもすごく魅力的だけど、水彩のにじみをとにかく愛しているので、パステルから受けたインスピレーションを生かしてみたい。白をああいう風に使うことは水彩では向いておらず水彩は白い部分を残していくのだけれど、下地にある色がすべて残って生かされていくという感覚はたぶん近しくて、あんまりやりすぎると水彩は濁ったりするのだけれど、私は重ね塗りするのがとても好き。
初めて描く絵なのに見たことがある、という話。絵を見せたら、小説で見たことがあると担当編集者に言われたことがある、と話していて、またも自分のことばかりで恐縮なのだけれど、自作のアニメ風動画のことを思い出した。あの中でも何枚か風景を作っているわけだけれど、自分に広がるものをなんとか描こうとして、描こうとして、できあがったものを見たときに、文章でしかなかったものに彩りが加えられた絵はこんなにもこの世界は色鮮やかで空気があって太陽があって月があってカラフルな世界だったのかと自分で自分に驚いたことがある。ビジュアルというのは強いもので、初めて形にすることで見えなかったものが見えてきたり、見えていたものがほんとうに浮かび上がって不思議な思いに駆られたり、それはすごく楽しいことだった。文章も絵も、全部同じで、こうして書いていることもすべてそうで、頭に浮かびあがってきたものをかたちにしたくて、記録しておきたくて、それが一番適していそうだと思ったかたちにしているつもりでいる。それは小説のときもあれば水彩のときもあるしデジタルの絵であるときもあるし、動画のときもあるし、必要とあれば音楽という分野にも入ってくるかもしれないし、それはすべてやりたいようにやってみることがベースにある。偉そうなことをいえるほどのものではないけれど、ほんとうにそうしてやってきた。憧れや嫉妬にふらふらしながら、それでも椅子に座って打鍵をしたり絵筆をとって絵の具をたらしたりするとき、そこには自分の中に広がる世界だけが存在している。その世界だけを見ている。言葉にならないことを無理に言葉にするというより、言葉をつづることで言葉にならないことが不意に言葉になって自分の前に現れる。そういう瞬間がある。つくり続けていると、ほんとうのほんとうに、「これが言いたかったこと」みたいな大袈裟なことを言いたくなる言葉が不意に指先から生まれたりする、面白い不思議。これが言いたい!ということに向けて作るけれど、その途中はまっすぐではなくて、最終的に出来上がるものも思っていたものと異なったりするけどだいたいどこかに良いところが隠れている。だから私は自分の作品がけっこう好きだ。小説も、こういう日記文も、水彩のにじみも、あらゆること。もっとうまくできたらな、とか、隣の芝が青く見えることはたくさんあるけれど、それはそれとして好きでいる、今のところ。つくるということはとても楽しい。自分の手でつくりあげていくことをずっと好きでいて、これから先いろんなことが人生起こると思うけれど、つくることはやめたくないし、やめられない。この方向は、いったい何を示してゆくのだろう。この先に、なにがあるのだろう。
そういうわけで本を作りたい。本を作りたくてどういったものにしようか考えていて、石川理恵さんの「自由に遊ぶ、DIYの本づくり」を取り寄せてみた。夜勤の前にポストに入っていて、わくわくしながら夜勤に入って暇があればちょっとちらみしようかしらなんて考えていたけれど夜勤中はそんな余裕はなかった。これが終わったら読もうかな。
昨日は夜勤に入る前、村上春樹の「風の歌を聴け」を読んでいた。小川洋子から少し離れようと思って読み始めた本で、村上春樹はあんまり通らずにここまで生きてきてかなり昔に「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだっきりで、最新作の一人称単数も騎士団も1Qも読んでいない。でもTwitterで村上春樹を好きな方がおられて、村上春樹の読者の特徴ってファンとアンチが驚くほどはっきりしていることで、でも見る分にはアンチよりもファンの方が快く、その人が処女作の「風の歌を聴け」が最初にして傑作みたいな話をしていたので読みたかった。人に勧められたり人が良いと思ったものに簡単に影響されて本を開く。ありがたいことだ。「風の歌を聴け」は今のところ静かな印象の本で、小刻みに話が切れながら進み、しかし村上春樹の代名詞というか独特で的確な比喩が良い感じに世界を彩っていて良いなあと思いながら読んでいた。最近小川洋子系ばかり読んでいたので、指先や仕草ひとつひとつを繊細に描写する叙情的な文体が多く、ぱっきりとした、軽快なテンポですすすすと進んでいくのが「ああこれでいいんだこれもいい」という感覚であり、それが村上春樹を読んだ印象として正しいのか解らないけれど、そうしみじみと感じながら読んでいる。明日は休みなので、今日の夜にこれも読み切りたいと考えている。休日前夜はおだやかで嬉しい。夜勤明けはおだやかに過ごしてしかるべし。
ちょっとだけ墨夏を書く。ぼちぼち一度ひとまとめにして全体図を確認したい。
「見つけられるかな」
「見つけられるよ。慣れてしまえばすぐに見つかる。今夜もきっと晴れるから、空を見上げてごらん。ひなちゃんは、いつまでおばあちゃんちにいるんだっけ」
ひなこは少しの間だけ口を噤んだ。
「明日まで」
「そっか」
昴はわずかに微笑んだ。褪せたような色をした声で。
「寂しくなるね」
ひなこには宇宙旅行からの墜落のように思われた。今まさに、銀河を渡る旅へ向かう途中で、地図をもってさあいこうとはりきっていたところだったのに、出鼻をくじかれたようだった。
おばあちゃんちの住む田舎町には、両親が仕事休みの時だけやってくる。ひなこの小学校は例に漏れず夏休みの最中で、あと二週間ほどで終わろうとする現在は御盆の時期だ。青い夏にただよう線香の煙があちらこちらで誰にも気付かれないほど細くあがり、けれど多くのひとが線香を立てて、町全体がかすかな煙に包まれる。祝日でもないのに、死者が帰ってくる期間に休日が与えられる。まるで死者との時間を大切にするように、と無言で誘われているように。しかし、ひなこにとって御盆の印象は薄い。両親が休みで、おばあちゃんちに遊びにいける期間以外のなにものでもなかった。おじいちゃんは、既にいない。おばあちゃんは、おじいちゃんや、ご先祖様のために麻がらを墓前に立て、きゅうりの馬となすの牛を用意する。そして線香を立てる。ひなこにおじいちゃんの記憶はない。ただ、両親の素振りを真似して、線香を立てる。ひなこは物心がついて以来、ひとの死に直接触れたことがなかった。