ポール・オースター『偶然の音楽』《砂に埋めた書架から》54冊目
原油から灯油を精製する際の、単なる副産物に過ぎなかったガソリン。しかし、引火しやすく大爆発を起こすという厄介な性質を持つため、扱いにくい液体であった。それが内燃機関の発明によって、一躍脚光を浴びることになる。
かくして、ガソリンを燃料にして走る現在の車は、地を這って生活する人類に、昔とは比べものにならないスピードをもたらしたのだ。
『偶然の音楽』の主人公、ジム・ナッシュは、行方不明だった父親の死で多額の遺産を手にした。家族との関係がばらばらになっていた彼は、消防士の仕事を辞め、アメリカ大陸をあてもなく車で走り回るという暮らしを選択する。
作品の冒頭、ナッシュは車で大陸を彷徨う。彼の目的は、あてのない旅のようでもあった。しかし、それは旅のほんの一時期だけに過ぎなかった。妻子との関係を修復したいという願いもあったが、彼の行動はそちらの方には直結していかない。
ナッシュの目的は、ただ車で走ることのみに移行していく。車に乗って疾駆すること。スピードのさなかに自分の身を置くこと。そのことが彼の快感であり、すべてなのだ。
オースター作品の魅力のひとつは、物語があるところから予想外の方向に流れが変わるところにあると私は思う。この作品も例外ではなく、旅の費用も少なくなった頃、ナッシュはひとりの若者、ジャック・ポッツィと出会うのだが、そこから奇妙な方向に物語はねじれていくのだ。
ギャンブラーとの出会いから、幽閉された環境で、石を積むという単純作業の日々。一見、不条理に見えても、ナッシュの頭の中では、その日常は社会的論理性から逸脱することはない。だが、生活からスピードを奪われた彼は、次第に何かに蝕まれていくのである。
オースターの言葉に畳みかけられると、読みながらじりじりと主人公と同化してしまう気がする。主人公の感情が読み手の感情を浸していくのだ。あるいは、感情が蝕まれる、という感覚に近い。
この作品の結末に、賛否両論はあろう。ただ、ナッシュが車に取り憑かれた理由が、そのスピードにあるというなら、扱いが難しいガソリンという燃料は、この物語の最後を象徴しているような気がするのだ。
書籍 『偶然の音楽』ポール・オースター 新潮社
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■追記■
この書評(というよりは感想文)は、2001年3月に作成したものです。
ずいぶん前に読んだ小説なので、正直中身の方はほぼ忘れているのですが、衝撃的な幕切れにはドキドキしました。この作品は1993年にアメリカで映画化されていて、ウィキペディアを覗いたら、日本でも2005年と2008年に、白井晃氏の演出で舞台になっていました。主人公ジム・ナッシュが仲村トオルで、ジャック・ポッツィが小栗旬(初演)、田中圭(再演)というのを見ると、頭の中にイメージが浮かんでちょっと嬉しくなります。それ相応の反響をもたらす原作だったということなのでしょう。
オースターの作品はいくつか映画化されていますが、私にとって一番印象に残っているのは1995年に公開されたウェイン・ワン監督の『スモーク』です。
自分の中でも大好きな映画で、当時、関東に住んでいた私は映画館に二回足を運んで観た記憶があります。印象的な台詞と会話、短く繋いだシーンで伝える様々な人間模様に味わいがあり、何度見ても飽きない魅力がありました。ブルックリンにある煙草屋が舞台ですが、そこに集まる客たちと煙草屋の主人との間で交わされる、冗談まじりの会話が面白く、煙草の煙の重さを量ってみせると言ってその昔イギリスの女王と賭けをした男の逸話が紹介されるのですが、できっこないよ、そんなの、空気の重さを測るみたいなもんだぜ、と反応する客に「たしかに変な話ではある。ほとんど人間の魂を測るみたいなものだよね」と主人が同意してみせる台詞があって、その喩えはとてもオシャレだなと感じます。(映画では、そのあと煙の重さを実際に量る方法が披露されます)
この映画の脚本は、ポール・オースター自身が書いており、元は1990年にニューヨーク・タイムズ紙の特集欄に掲載されたオースターにしては珍しい短編小説が原作になっています。映画はその短編を膨らませたものですが、オースターの代表作『幽霊たち』(1986)の中に、山でスキーをしていた息子が、若い頃に遭難して亡くなった父親の遺体を、氷の中で保存された状態で発見する印象的なエピソードがあり、それが『スモーク』にも移植されていました。私は映画のあとに『幽霊たち』を読んだので、このシーンに気付いてびっくりした覚えがあります。父親と息子という関係を描くのに、オースターはよほどこの“自分そっくりの遺体”と出会う挿話が気に入っていたものと思えます。オースターはユダヤ系アメリカ人ですが、ユダヤ系の作家は、わりと父と息子の関係を好んで作品に取り上げると聞いたことがあるので、そういうところから妙に納得してしまいました。
『偶然の音楽』を置き去りにして、つい映画の話ばかりしてしまいましたが、最後も『スモーク』の原作であるオースターの短編『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』で締めくくります。この小説は『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995)という二本の映画脚本とインタビュー記事がメインの新潮文庫に収録されていましたが、今年の秋に絵本として独立した形でスイッチパブリッシングから発売されました。映画を知っている人も知らない人も、原作を知っている人も知らない人も、手に取ってみる価値はありそうです。盲目の黒人お祖母ちゃんと煙草屋の主人オーギーの心温まる邂逅の物語は、ふとした折に今でも思い出すことがあります。あの映画は、オーギーを演じたハーヴェイ・カイテルの口元の大写しを、最後はただ延々と凝視していることに観客が気付いてハッとする映画です。物語に引き込む力が凄まじく、それに印象的なトム・ウェイツの歌がかぶさるのですから、まさに永遠に心に焼き付く不朽の名シーンと言ってもいいと思います。
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〈今回参考にした書籍と音楽〉
『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』ポール・オースター
柴田元幸他・訳 新潮文庫
『幽霊たち』ポール・オースター 柴田元幸・訳 新潮社
『SMOKE』サウンドトラック CD
〈参考動画〉
『スモーク』予告編(デジタルリマスター版)